第27話
『パパ』と呼んでいた。
父親はパパだったし、母親はママだった。そういう風に呼ばなくなったのは、若菜が小学校に上がって、少しだけ周りに馴染む努力をしようとし始めた頃だった。ちょうど、その頃だっただろうか。『パパ』が『父さん』に変わった頃、父親が死んだ。
映画のように未練の残る喧嘩別れなどしておらず、かといって大切な思い出を紡いだ訳でもない。いつも通りの日常を送って、いつも通りに過ごしていた。最後の会話は今でもよく覚えている。『いってらっしゃい』と見送る若菜と、『いってきます』と扉を開ける父だ。
若菜にとって筑紫明人は最も尊敬する大人の一人であった。
彼は若菜の目には信じられないほどの善人に映っていた。それでいて、甘さと優しさを履き違えることはせずに若菜や紅葉を育てた。そうして育った若菜は、いずれは彼のような大人になろうと思っていたものだ。
その矢先、父親を失った。
敬愛する父親が物言わぬ亡骸となって帰ってきたときの感情は、筆舌に難い。
連絡がきた瞬間や、知った直後は酷い焦燥感に駆られる癖に、既に戻れない場所まで行き着いたと知ると、途端に現実感が無くなるのだ。足が地に着いていないような浮遊感の中で、少しずつ現実を受け入れていくと、その重みを得て足が地面に着き始める。
身体が重くてしばらくは動けなくなるけれども、それでも、立ち止まり続ける行為には何の意味も無いから、それが生者の責務だと心得て、前に進むのだ。
だから、決して忘れるなんてことはなく、加害者を容易に許せる道理も無い。
「――若菜」
そんなことを考えていたら、水城の声に現実に引き戻される。
どうやら酷く思考に没頭していたようで、食べ終えた茶碗の中を見詰めながらぼーっとしていた。水城の作った和食はとても美味しく、瞬く間に食べ終えていたのだが、何か身体を動かしていないと、つい思考が迷宮に入り込んでしまう。
「おかわりはあるけど、見詰めても出てはこないよ」
「いや、容器に映った私があまりに美人だったもので」
若菜は軽口を叩きながら茶碗を置くと、手を合わせて「ごちそうさまでした」と頭を下げた。「お粗末様」と水城は茶碗を片付け始め、手伝おうと腰を浮かせた若菜を手で制する。少しだけ迷ったが、ここは客人らしく言葉に甘えようと腰を落とした。
水城が皿洗いを始める中、若菜は炬燵の卓上に置かれた湯呑を手に取り、茶をすする。マットが敷かれた八畳の和室で、趣深い一室で心を和ませる。若菜は洒落たインテリアが映えるような部屋を想像していただけに、水城の和に富んだこの部屋は意外だった。
キッチンから水の流れる音が、静かな和室へと届く。
心穏やかになる静かな空間で、若菜は窓の外をぼんやりと眺めて考え込んだ。
紗季が好きだ。友人としても、人としても、恋愛対象としても。その感情は今までと何も変わらない反面で、彼女の秘密を知った今、何も無かったように元通りに戻ることもできない。敬愛する父を奪った物事に対して複雑な心境を抱く自分と、大切な人の傍に居たいと思う感情の板挟みで、頭がどうにかなってしまいそうだった。
額を指の関節でコンコンとノックしても、脳は入ってますよと言うばかり。答えを返してはくれないので、仕方がなくため息を追い出した。
しばらく悩んでいると、やがて、皿洗いを終えた水城が戻ってきた。
「私でよければ悩みを聞くよ」
呟いて炬燵の向かいに座す水城を見て、若菜は難しい表情を浮かべた。
「そうしたいのは山々なんですけど、誰かに回答を求めるような段階じゃなくて、感情の整理すらできていないんです。今はまだ支離滅裂なことばかり言うかも」
「それも含めて聞くよ。言葉にして整理できるものもある――何より、支離滅裂でも吐き出したものを受け止める相手は必要だろ」
静かに急須を傾けて若菜の湯飲みに茶を注ぐ水城。有難い申し出ではあるものの、それでも愚痴や不満を吐き出すだけというのはどうにも気が引けて、解の無い問題を提示するのも憚られた。しかし、このまま一人で考え込んでも答えは得られないだろうという予感もあった。若菜は難しそうな表情で唸りながら前髪を弄り、そっと水城を見た。
「……私、紗季ちゃんが好きなんですよ。女の子として」
全てを語るにおいては隠しきれないだろう秘密を暴露する。今更、彼女に打ち明けづらい秘密でもなく、若菜は照れることもせずに明かした。そんな若菜の秘密に、粛然と話を聞いていた水城は言葉を失いながら目を丸くした。
声も出せずに驚く彼女に、「意外ですか」と続けると、水城は我に返ったように瞬きをして、頬を緩めながら「いいや」と返した。興味を失ったわけではないことは表情を見れば自明ではあったが、彼女はそれ以上の言及をすることはなく視線で先を促した。
「で、紗季ちゃんのお父さんが私の父さんを殺したって聞いたんですけど」
「……うん」
「まだ、紗季ちゃんが好きです。恋愛感情だけじゃなく、友人としても」
若菜は差し出された湯呑で指先を温めながら、噛み締めるように呟いた。
どれだけ考えようとも、それは変わらなかった。あの不器用で心優しい少女が好きなことも、作り物の笑顔の中で、ほんの一瞬だけ浮かべてくれた笑顔に鼓動が激しくなることも嘘ではない。自分を騙すなんて器用なことはできないから、若菜はそれから目を背けることもできなかった。
水城は静かに若菜の顔を見詰め、その言葉だけではなく、内に秘められた思いも含めて受け止めるように、瞳を瞑って頷いた。
「先生はご存じだと思うんですけど、凄く良い子なんですよ。紗季ちゃん」
「……ああ、知ってるよ」
「そもそも、別に紗季ちゃんが悪い訳じゃないですし」
若菜は溜息と共にそう呟いて、膝を抱えるように座り直す。
「親が犯す罪を、子がどう止めるんですか――『俺は今から人を殺すぜー!』とか宣言をしたって、それでも止めることはできないでしょ。物理的にも、精神的にも」
「そうだな。でも、それは――第三者の理屈だよ」
おどけた調子で告げた若菜に対して、水城は茶化すこともせずに応じた。
言葉の意味が理解しきれなかった若菜が瞳を投げると、彼女が続ける。
「第三者が、客観的に見て下す、感情を考慮しない結論だ」
「それは、まあ……そうかもですけど。それが何か?」
「当事者の君が、それに囚われる必要は無いんだ」
止めることはできなかったとしても、止めてほしかったに決まってる。
そんな心の奥底の本音を見抜かれ、優しく諭されたのだと気付いた。
ほんの少しだけ目頭の奥が熱くなった若菜は、誤魔化すように笑う。少しだけ目が潤んだが、隠すために瞬きをした。「……ありがとうございます」と、自然に出てきた本音が震えていたから、若菜は咳払いをして誤魔化した。
「でも、それでもやっぱり、紗季ちゃんには止められなかったと思うんですよ」
「……まあ、実際のところはね。小学生の頃、母親を失って間もない時の話だ」
同意をする水城。若菜は「それに」と続けた。
「私達よりもずっと苦しんできた。私は……家族を失った私達以上の苦しみなんて無いと思ってたけど、歩き出すことが責務だった私達と違って、立ち止まることが贖罪だった紗季ちゃんは、たぶん、八年間も苦しみ続けた」
父の死に囚われ続けることを望まれていないと判断して、前に進む決断を下した。しかし、彼女はきっと、囚われ続け、できる筈の無い償いをすることだけを考え続けてきた。
「目を背けて、笑って生きてきたってよかった。でも、そうしなかった」
紗季には何も変えることはできなかった。ただ、生まれついて背負った運命に振り回され続けてきただけなのだ。
それに囚われて生きる必要は無いよ、と、そう言ってやりたかった。
「『もう十分だよ』って、言ってあげたいんです」
そう言いたいのだ。けれども、それは願望の域を出ない。
言葉尻を正しく理解した水城は、「うん」と優しく相槌を打った。
こういう時に優しくされると、涙が出てくるのは何故だろうか。目頭が熱くなった若菜は、指で目尻を拭い、唇を噛み締めて涙を殺す。涙が引っ込んだのを確認して、続けた。
「全部を許して、元通りの関係に戻りたいんです」
そっと絞り出したのが、島津紗季の友人としての本音だった。
「そっか」と、水城は全てを聞くまで口を挟むことはしなかった。今ここで、彼女から正しい言葉を言われたら、きっとどちらかの自分を殺して提示された道を辿っていただろう。胸中で彼女に謝意を抱きながら、若菜はもう一人の自分の本音を吐露した。
「でも、そうしたら――父を置き去りにしてしまう気がするんです」
若菜は膝の上で拳を握って、揺れる瞳で緑茶の液面を見詰めた。
紗季を許すことは、まるで父の死に背を向けているようで、若菜はそれが嫌だった。今はもう居なくても、大切な家族だ。無かったことにはできない。
そんな若菜を見詰めていた水城は、瞳を瞑ってその言葉を噛み締めた。
「亡くなった人は何も言えませんから。結局、『父さんだったらこう言うだろう』っていうのは全部、代弁にも満たない妄想なんです。懐が広く優しかった父さんも、殺されたことは何があっても許したくないかもしれない。それなのに、私が勝手に許していいのかって」
膝を抱えたまま、若菜はぼんやりと湯呑を見詰めた。
「紗季ちゃんの友達として、紗季ちゃんを許してあげたいけど――父さんの娘として、過去から目を背けたくはないんです。どうすればいいんでしょうね、もう、『どうするべきか』ばかりが先行して、どうしたいかも分かんないんです」
若菜は後ろ髪を掻いて苦笑をして、水城と視線を合わせることもできずに窓の外に視線を投げる。憎いくらいの快晴に目を細めて、再びぼんやりと思考に耽った。
水城はしばらく沈黙してその様子を眺め続け、和室は寂しい無音に包まれる。
やがて、若菜は弱い笑みを水城に投げた。
「以上、お悩み相談でした」
静寂が苦手な彼女が場を和ませようと冗談めかして告げた言葉は、とても寂しそうなものだった。情けない自分への失望の色が宿った瞳で若菜は水城と見つめ合う。水城は神妙な表情で若菜を見詰めていたかと思うと、瞳を瞑って語り出す。
「君は、優しいな」
ぽつりと呟くように告げられた言葉を皮肉だと解釈したのか、若菜は眉を寄せながら頬を緩め、軽い調子で苦言を挟んだ。
「私が? 冗談やめてくださいよー」
「本心だよ。人の心を蔑ろにできないから葛藤するんだ。自分の肉親を奪った相手の家族も、既に居なくなってしまった肉親も――そのどちらにも寄り添おうとしている。そうすることが当たり前で、そうしないのが薄情だとでも思うのなら、それは間違いだよ」
水城はそっと茶を啜り、続けた。
「君は優しいから、皆の為に悩んでいる」
とてもではないが、若菜は自分自身の悩みを善人であるが故のものだとは思えず、納得できずに肩を竦めた。頷くこともせず、ただ抱えた膝に顎を乗せて部屋の隅を眺める。「自分の為ですよ」と吐き捨てるように呟くが、水城は頷くこともしなかった。
若菜といい、紗季といい、もう少しだけ自分に優しくしてやればいいものを、と水城は胸中に呟く。しかし、これだけ誰かを想う者同士だから惹かれあったのだろうなと納得をして、今はただ、大人として、この出会いの結末に責任を果たすべきだと考えた。
「いいんじゃないか?」
「……何がですか?」
主語を省いた彼女に問い掛けると、水城は何げない素振りで答えた。
「許さなくて。紗季を憎み続けたままでもいいと思うよ」
若菜は絶句をして、丸く見開いた瞳で水城を見た。
平然と言ってのけた彼女が紗季には信じられなかった。紗季の為に行動し、ずっと傍に居続けた彼女からまさか、紗季を憎み続けろと言われるとは思っていなくて、若菜は言葉に詰まる。酷く動揺した表情の若菜に対して、水城は至って冷静だった。
自分に呆れて極論を叩き付けたような様子でもなく、ただ、本心からそう思っているように思われた。若菜は眉を寄せ、「なんで」と震える声で呟いた。
「何言ってるんですか……? だって……」
「無理に彼女を許そうとする必要は無いだろう。心っていうのはそんな単純じゃない」
いっそ、怒りが湧いてくるような気分だった。紗季の気持ちを考えたことがあるのか、と。どうして誰よりも彼女の傍に居た水城が、他でもない水城がそんなことを言うのか。信じられなくて、許せなくて、感情的になって腰を浮かせて叫ぶように返す。
「なんで……! 友達が苦しんでるのにそんなこと、できるわけ――」
罪と向き合って苦しんでいる友人に、そんなことできるわけがないだろう。そう訴えようとする若菜だったが、優しく諭すように水城が言葉を継いだ。
「君だって家族を失っている」
優しい瞳が若菜の心の奥底を見抜くように向けられ、若菜は開いた瞳を弱々しく揺らし、そっと浮かせた腰を落とした。唇を噛み締め、項垂れるように握った拳を見詰めた。燻っていた怒りが完全に消え失せ、煙が肺を包んでいく。
許さなくていい。その言葉の起源が自分のためであることを知った若菜は、やり場のない感情を内に抱え込んで押し黙る。――ずっと、自分が前しか向いていなかったことにようやく気付いた。わが身を振り返っていなかったことを思い出して、言葉が出なかった。
「自分の悲しみから目を背けて相手を許すのは、きっと凄いことだよ。綺麗事の実現だ。でもね、綺麗事は綺麗だけど、そうしなければ汚いなんてことはないんだ」
綺麗事を実現しようとばかり思っていた若菜は、その言葉にわが身を省みる。
頭が幼少期の衣装棚のようにぐちゃぐちゃで、混線する感情の結び目をほどくために心のリソースを割く。再び、癖のように膝を抱えて座って、前髪を弄った。水城を見るのが何となく怖くて、瞳を伏せて炬燵の卓場で木目を追う。
油断をすると泣いてしまいそうで、唇を噛んで堪える。
「辛いのは君だって同じだろ。許してやれなんて、私は口が裂けても言えないよ」
水城が若菜の胸中を慮って優しく語り、若菜は目頭が熱くなるのを知覚した。優しくされると泣きそうだから、今は自分から目を背けてほしかった。
水城が全面的に紗季の味方をしてくれれば、若菜はきっとそれに賛同できた。だから今、自分の心を尊重されて、どうすればいいのか分からなくなった。
それでもやはり、若菜は彼女に紗季の味方をしてほしかった。自分は大丈夫なのだ、自分で考えて行動をすることができる。でも、過去に押し潰されて身動きのできない彼女に手を差し伸べてほしい。きっと、その役回りは自分ではないだろうから。
若菜は何とか笑みを作ると、ようやく水城の顔を見る。その瞳はどこまでも若菜の心の奥底を見詰めており、その表情は自分を案じていた。涙腺が緩くなる中、言葉を絞り出した。
「……紗季ちゃんの、幼馴染なんですよね? 味方をしてあげてくださいよ」
そう言うと、水城の顔に驚きが宿る。どうあっても自分を蔑ろにして紗季を優先する若菜の生き様に敬意を抱くように、微かに目を細めて頬を緩めた。しかし、彼女はすぐに了承をするような真似はせず、少しだけ言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。
やがて、言葉を見付けた水城は若菜を真っ直ぐに見詰めた。
「君の、先生でもあるんだ」
そんな当たり前のことを今更思い出した若菜は、不意に視界がぼやけるのを知覚した。
泣いているのだと自覚したのは、その込み上げてきた熱い涙が頬を濡らした時だった。
別に、誰かに味方をしてほしい訳ではなかった。けれども、自分でも知らないうちに、心を抑圧して悲鳴を上げている自分が居たことに気付いた。
「私は、『許さない』という選択を肯定するよ」
静かにこぼれた涙が、若菜の頬を濡らした。
ほんの少しだけ、膿が溜まっていたようだ。
若菜は自分に苦笑をしながら、涙を袖で拭った。
感傷に浸ったり、悲劇のヒロインを気取ったりするつもりは無い。けれども、それでも若菜は心のどこかで理解者を求めていたのかもしれない。
紗季や葵は、若菜を立派な人間だと称する。曲がったことが嫌いで、真っ直ぐに在ろうとして、常に明るく人との繋がりや感情を重んじる、素晴らしい人格者だと。
だが、それでも十七歳の少女なのだ。父親の死と、友人の過去と、その狭間で揺れ続ける普通の少女で、それは島津紗季と何も変わらない。紗季の友人として、彼女が前を向いて歩き出せることを祈り続けるように、彼女の教師として、肩の力を抜いてやる必要があった。
ガスは抜けただろうか。水城が視線を投げると、「どうも」と、肩の力を抜いて笑った。
どうやら心配は要らないようだと悟った水城は、紗季と同じく愛すべき教え子が笑ったことに安堵する。
それから若菜は微かに潤んだ瞳を窓の外に投げ、眠たそうに目を細めた。
ほんの数分前と何一つ変わらない晴天だが、ほんの少しだけ鬱陶しくなくなった。僅かな心境の変化だが、前へ進んだのだろうという実感を景色に見た。紗季に褒めてもらった金髪が視界に入ってきて、不意に摘んで弄る。
頭の中に彼女のことを思い浮かべながら、所在なく視線を部屋に彷徨わせる。
ふと、若菜は文庫サイズの推理小説がギッシリと敷き詰められた本棚に、場違いな大きなアルバムが二冊入っていることに気付いた。あまりにも場違いで図鑑か何かかと思い身を寄せると、二冊とも背表紙に金字で『卒業アルバム』と印字されていることに気付く。
「何ですかこれ……卒業アルバム?」
彼女の担当学級のものかとも思ったが、どうやら小・中学校のものらしい。市立だ。そうなると、都の公務員である水城が担当していた道理も無い。彼女には子供も居ない。そうなると、導き出される答えは一つだけだった。
「先生のですか? 意外とこういうの大切にするんですね!」
若菜は隠す気も無く、このスカした教師の幼少期を見てやろうという高揚感を瞳に宿して水城を見た。勝手に見るつもりはないが、許可さえ出ればすぐにでも開いてやろうという心持でいると、水城からは予想外の反応が返ってきた。
「ああ、いや」
期待していた慌てふためく反応は帰ってこず、代わりに。
「紗季のだ」
どこか昔を懐かしむような、それでいて寂しそうな顔で明かした。
返答を聞いた若菜は言葉に詰まり、顔いっぱいに浮かべていた喜色を消す。寂寥感を滲ませた瞳でアルバムに向き直り、「見てもいいよ」という水城の許可を得て一冊を手に取った。
卒業アルバムがズシリと重たいのは、きっとその材質やページ数だけが原因ではないだろう。手触りのいい、大切に保管されていることが窺える布表紙を撫でた。
どうして水城が持っているのか。浮かんだ疑問を彼女に尋ねようかとも思ったが、聞く気にはなれなかった。少なくとも彼女が手放そうとしたのは確かで、自分を引き取ってくれた家族のもとに大荷物を持っていきたくないが、捨てたくもなかったのか。或いは、暗い過去を思い出すから手元に置いておきたくなかったか。
どちらにしても、前向きな理由ではないのだろう。
若菜はそっと表紙に手を伸ばして、卒業アルバムを捲った。
卒業をする六年生がクラスごとに集合写真を撮っていた。百数十名にも及ぶ少年少女の中から紗季だけを見つけ出すのは骨が折れそうだったが、若菜は表情を変えることもなくアルバムを静かに見詰め続けた。
やがて、見知った作り笑いを浮かべる少女を見付けた。
今よりもずっと幼く、けれども、そうだと確信できるくらい特徴の似通った少女が居た。黒髪を肩先まで伸ばして、周りの女の子たちに合わせるように笑う紗季。この頃には既に、父親が刑務所に入っていたのだろう。少しだけ肩が重くなって、ページの端に付けていた指が止まる。人の過去を盗み見ているような気がした。いや、気のせいではなく、実際にその通りだった。けれども若菜は、道理に反しても知るべきだと思い直して指を動かす。
次のページには、入学式の写真が載せられていた。
様々な行事を振り返っていく構成なのだろうと思いつつ写真に目を滑らせていく。集合写真、数名の個別写真。誰も彼もが六歳や七歳の幼く、無垢な子供だ。
そうして写真を眺めていた若菜は、不意に動きを止める。
その深い夜のような双眸がジッと見詰める一点。そこには、とある三人家族の写真が。
背広を着た気弱そうな、けれども嬉しそうな笑顔を浮かべる男性。
自分の知る彼女によく似た顔立ちの、温厚そうな、穏やかな笑みを浮かべる女性。
両親と手を繋いで、満面の笑みを浮かべる幼い少女。
その三人家族が、そうであると理解した若菜は言葉を紡ぐこともできず、驚くことさえできずに沈黙して静止した。この世で二番目――いや、三番目だろうか。この光景を望んでいた若菜は、過去の一幕として残り続けるだけのこの写真を、噛み締めるように見つめた。
そうだ。彼女にも居たのだ。
大切な家族が。今と違い、心からの笑顔を浮かべさせてくれる家族が。
「……行事とかは、たまに私が顔を出したんだ」
若菜が見詰める先の写真を見て、水城は静かに語り出す。
「それでも、大学受験や仕事で彼女の傍に居てやれる時間は減っていった。――学校でも、ずっとどこかの輪に居るようで、どこにも居なかった。島津家でも。孤独だったよ」
水城は前髪を掻き上げ、昔を懐かしむように続ける。
「友達を紹介されたことなんて一度も無かったな。あの子が誰かを友達と呼んだことなんて、一度も無かった。今まで一度も無かったんだよ」
水城は吸った煙を吐くようにそう語る。誰よりも傍で見てきた彼女の、深い感情の宿った言葉が若菜の心の奥底を揺らす。若菜は彼女の言葉に口を挟むような気にもなれず、アルバムを手に、膝を抱えて座ったまま彼女に意識を向け続けた。
「初めてあの子が誰かを友達と呼んでくれたんだ」
水城が見たのは自分で、初めての友達という言葉が誰を示しているのかを察する。
若菜の脳裏を過ったのは、この数か月の彼女との日々だった。思い出した若菜は微かに頬を緩め、その思い出に浸るように瞳を瞑った。
「紗季の友達になってくれてありがとう」
礼を言うべきはこちらだろう。
きっと――多くの悔恨や不安が付き纏う変化だった筈だ。誰にとっても。若菜だって例外ではない。この出会いがもたらした変化は小さいものではなく、迫られた決断は大きなものだ。けれども、先刻も言った通り、若菜はこの出会いを後悔していない。
紗季と出会えてよかった。そう思えているから、礼を言うべきはこちらだ。
そう思い口を開こうとするが、水城の言葉が続くから留まった。
「それだけで十分なんだ。これ以上は望まない――望めないよ」
じわりと滲んだ寂寥感を見逃さなかった。その言葉が一切の嘘偽りない本音でないことは、きっと長い付き合いの若菜でなくとも察せたことだろう。しかし、そんな分かり切った嘘であろうとも彼女がそう語ったのは、若菜に選択を強要しないように。
彼女は、自分の先生でもあるのだ。
「ありがとう。若菜」
多くの感情をひっくるめて穏やかに笑った水城は、そう礼を告げた。大人は大変だなと、まるで他人事のように眺めながらぼんやり胸中で考えた。だから、少しくらいは労いの言葉を掛けるべきだろう。若菜は「礼を言うのはこちらですよ」と切り出した。
眉を上げる水城に、目を細めて笑った。
「先生のお陰で紗季ちゃんと出会えましたから」
水城は少しだけ驚いたような顔で若菜を見詰めた後、微笑み、「そっか。よかったよ」と優しい声色で呟いた。
紗季の足跡は八年前に止まった。彼女と若菜の間には、八年分の足跡が立ちはだかっている。互いの存在も知らずに離れ続ける一方だった距離が、ようやく縮み始めたのだ。恐る恐る一歩を踏み出そうとする紗季へと歩み寄った若菜。その手にある二枚の切符は、彼女が買ったものなのだ。止まった時間を動かしたのは、彼女の行動だ。
親友と呼べるような相手に出会えたのは、彼女のお陰だ。
若菜は出会いとその切っ掛けを作ってくれた人物への感謝を噛み締めながら、卒業アルバムのページを捲っていく。彼女が幼少期に歩んできた歴史を眺めながら、今の紗季からは見ることのできない表情や一面を垣間見ていく。
「今日、ここに来れてよかったです。知らなかったことを、知ることができた」
アルバムから視線を逸らさぬままポツリと呟く若菜。卒業アルバムを彼女が持っていたことに対する謝意の念を言葉にしたのだが、それを聞いた水城は少しだけ考えるような素振りを見せた。少しだけ沈黙した後、間を置いて彼女は応えた。
「……本当は捨てられる筈だったんだ。このアルバムは」
その言葉に、若菜は驚きを隠さない。けれども少しだけ予想できていたことだから、すぐに得心して眉尻を落とす。どうして水城が所持しているのか。その点を考慮すると、紗季が手放そうとしたという結論に行き着くのが妥当だった。
「紗季ちゃんにとって……疎ましい過去だったってことですか?」
若菜は少し戻って、三人家族の微笑ましい一枚を見詰める。
彼女はこの過去を汚点として認識しているから、手元に置いておきたくないと思ったのだろうか。そう考えたが故の質問だったが、水城は首を横に振る。
「違うよ。彼女にとって、生前の母親と罪を犯す前の父親が映ったその写真は――その卒業アルバムは、幸福の象徴だった」
幸福の象徴。その言葉を口内で呟いて、少しだけ心が重くなるのを実感した。
なるほど、あの性格の彼女ならばそうするだろうと理解して、若菜は唇を噛む。
「自分に幸福を得る資格はないと、ずっと考えていたんだ。あの子は。だから幸せな過去を思い出してしまうそれを手離そうとして、私が譲り受けた」
水城の口によって語られた経緯を聞いた若菜は、彼女の想いを考えて胸が締め付けられるような痛みを覚える。胸に手を当て、眉を顰めた。全てと言うにはあまりに立場が違うので言葉を選ぶが、若菜には紗季の気持ちが辛くなるほど共感できた。
幸福を辿る行為が誰かを忘れることに繋がるのなら、その誰かを愛していた人は、己の幸福を恐れてしまうだろう。若菜は父親を忘れたくない想いと、紗季への友愛と恋愛の間での葛藤と同じ感情をそこに見出して、絞り出すように呟いた。
「少しだけ……紗季ちゃんの気持ちが分かるかも。その思い出を抱き続けることで、罪が褪せるのを恐れたのかもしれません。大切なものを蔑ろにしてしまうかも、って」
知ったるような口ぶりで彼女への共感を語ると、水城は何か言いたげに若菜を見た。どう言おうか迷うように言葉を探した彼女は、やがて適切な言葉を見つけ出したように頬を緩める。
「かもしれないね。でも――無駄なことだよ」
彼女は一拍置いて、この会話の主体である紗季の向こう側に若菜を見るように。若菜の心の苦悩に手を差し伸べるように、卒業アルバムを一瞥してから若菜に告げた。
「どうしたって過去は消えない」
そんな当たり前のことを水城が語ったので、少しだけ若菜は理解が及ばない表情で彼女を見ていた。しかし、その言葉が本当に伝えたかった意味を理解して、瞳を揺らした。目を開いて、言葉も無いままに水城を見詰めた。
「どれだけ自分を呪っても、嫌っても、憎んでも――幸福を辿ったって過去は消えない。過去が消えないのなら、大切な思い出も忘れたって無くなる訳じゃない。良いことか悪いことかは分からないし、これが呪いか祝福かも分からない。けれども間違いなく言えることは、過去というものはいつまで経っても、何をしても私達を離してくれないんだ」
若菜は大きく目を見開き、水城を真っ直ぐに見詰める。
至って当たり前のことを語っているのだが、その実、自分が失念していたことだった。彼女の言う通りだった。どうしたって過去は消えない。その言葉と水城の向こう側に父の笑顔を思い出した若菜は、しばらく茫然と考え込むように水城を見詰め続けた。
思案に耽る若菜を見て、水城は少しだけ頬を緩めた。
「何を、しても」
「ああ。どれだけ罪を償おうとも、過去が消えないようにね」
水城の相槌に一人の少女の顔が思い浮かんで、若菜は顔を上げた。
奇しくも愛する彼女と同じ悩みを抱いていたらしいということに気付いて、若菜はそれを噛み締めた。正直なところ、この言葉を全て鵜呑みにして生きるには若菜は少しだけ単純さに欠いていた。しかし、それでもその言葉は、たった一つの、けれども大きすぎる分岐路の道標になった。未だ僅かに揺れつつある若菜の心を見抜いたように、水城が告げた。
「人は過去を背負って前に進むしかないんだよ。忘れることなんてできないんだ」
若菜はその言葉を噛み締めるように俯くと、後ろ髪を掻く。確かに彼女の言う通り、今、若菜は全てを背負って足掻いている。父親のことも、紗季のことも。それだけじゃない、母親や妹、挙句には紗季の過去にまで手を伸ばして、その全てを背負って生きている。何も忘れられてはいないのだ。だからこうして、苦しんでいる。
過去は消えない。だから、思い出も無くなる訳じゃない。
忘れたって、いつか何かがこの卒業アルバムのように思い出させてくれる。若菜は父親を置き去りにしたくてもできる訳が無いのだと理解して、次いで浮かんだ苦悩を尋ねた。
「……父さんは、なんて言いますかね」
それでも結局、彼は若菜の選択を許してくれないかもしれない。
そう思い尋ねると、気休めのような励ましすら返ってはこない。
水城の返答は、あまりにも現実的だった。
「亡くなった人のことは何もわからない。受け入れるかもしれないし、怒るかもしれない。どちらにせよ、今を生きる私達がそれを推し量るのは、突き詰めれば妄想に過ぎないよ」
きっと、父さんも許してくれる――生前を知る人間が、今までの思い出を振り返ってそう結論を下す行為は至って正当な推理ではあるものの、答え合わせのできない推理は、いつまで経っても妄想の域を出ないのだろう。
だから、人はそうであってほしいという願望と共にそう思い込む。けれども若菜のように不器用な人間はそれができない。だから、恩師と共に一つの結論を出すしかないのだ。
若菜は俯いたまま深々と嘆息を漏らして、呻く。
「……許してくれると信じましょうか」
「怒られると思っておこう。だから、その時が来たら一緒に謝ってやるよ」
「親不孝をしない、っていうのが座右の銘だったんですけどね」
苦笑交じりに顔を上げると、仕方が無いと言いたげに笑う水城の顔があった。
ああ、本当に――紗季も自分も、師に恵まれたものだ。
未だ断固たる決意には至らないものの、確かに進みつつある己の心を知覚して、若菜は吹っ切れた思いで窓の外を一瞥する。何も変わらぬ晴天が、鏡のように見えた。これから多くのものを背負っていくことへの憂鬱と、新しく進む己の望んだ人生への期待を胸に抱く。
紗季のことや家族のこと、父親の遺志や紗季の父親のことも。背負うべきものを指折り数えて、その多さに辟易としながら泣き言をこぼした。
「……背負うものが増えそうだ」
独り言のように呟けば、水城がそっと答えた。
「重くて背負いきれなかったら、その分をあの子に押し付けるといい」
自分でどうにかしなければ、と思い込んでいた若菜が意外そうに顔を上げると、「だろ?」と水城が愉快そうに笑う。確かにその通り、紗季が背負いきれないものを背負おうとしているのだから、自分が背負いきれないものは、彼女に謹んで譲るとしよう。
若菜は「確かに」と頷いて、愉しげに続けた。
「なんか、『人生』って感じですね」
「なんだそりゃ」
水城の呆れたような笑みを見ながら、若菜は卓上に広げていた卒業アルバムをそれとなく捲る。誰かの日記を覗き込むような感覚で眺めていくと――『将来の夢』というページが目に留まった。小学校の卒業を控えた少年少女が己の野望や展望を言葉に起こしたものの中で、若菜が探すのは自分が惚れたとある少女の夢。
ふと探して、目的のものを見付けた若菜は、意外に思って目を丸くする。
今の彼女がどんな将来の夢を持っているのかは分からないが、少なくともこの時、ここに書き記した将来の夢は偽りのない本音なのだろう。若菜は愛おしそうに綺麗な文字をなぞり、図らずとも自分がその夢の助力をしていたことを、少しだけ誇らしく思った。
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