第26話

 あれから数日。十二月二十九日の昼間は、憎いくらいの晴天だった。


 公園の縁石に座り込んで流れゆく雲を目で追っていた若菜は、小さな嘆息を漏らす。


 あれから紗季とは会話をしていない。どうやら葵とは話を付けたようで、家庭教師としての仕事を続けている。随分と打ち解けたらしく、二人の会話に耳を傾ければ、まるで本物の親子のように仲睦まじくもあった。


 どちらにも嫉妬する気持ちはあったが、それ以上に安心した。


 筑紫家の全員が彼女に同じような感情を抱いていたら、きっと追い詰めていた。少なくとも葵がそうしてくれたおかげで、今、こうして盛大に思い悩むことができる。


「あー……」


 溜息と共にビブラートの宿った声を上げ、若菜は前髪をかき上げて砂利を眺める。


 島津紗季を嫌悪している訳ではない。憎んでいる訳でもない。


 しかし、彼女の語った事実を無視して今まで通りの関係を築ける自信は無かった。


 それを『憎んでいる』のだと指摘されたら返す言葉も無いが、少なくとも紗季に対しての悪感情を自覚してはいない。たとえば今、彼女が抱き着いてきたら嬉しく思うし、心に目を背けて何事も無かったように接したい気持ちもある。


 しかし、腹を括って全てを語った彼女に、こちらが上っ面だけの体裁のいい対応はできまい。本気の心には、本心で応えなければならないだろう。若菜は自分の心と向き合い、自分がどうしたいのかを模索する。


 和解はしたい。しかし、今までのような関係に戻れる自信は無い。


「……許せてないのかな」


 誰にともなく尋ねるように虚空に呟くも、勿論、返答はない。


 若菜は後ろ髪を掻いてから立ち上がり、歩き出す。


 無論、行く当てもなく歩き呆けているだけである。脳のリソースを持て余すと、無駄な方向に思考が逃げていく。身体を動かせば、思索に没頭できた。


 通っている高校の近く、駅前の大通りに差し掛かった若菜は年越し前クリスマス後の浮ついた雰囲気が漂う店の数々を横目に歩く。人の気も知らずに、と不満を言いたかった。


 筑紫明人が死んだのは若菜が九歳の頃だ。小学三年生の秋、明人が会社の人と夕飯を食べてくると言った。葵と紅葉と三人で夕食を終え、帰宅を待っていた。


 家に着いたのは彼が刃物で刺されて病院に搬送され、その甲斐なく亡くなったという訃報だけ。その後、彼が帰ってくることはなかった。


 幼少期から聡く賢く大人しかった紅葉が声を上げて泣いた姿は、後にも先にもあれ以降、見ていない。子供達の前だからと取り乱すことをしなかった葵が、夜中、リビングで泣いているのを見たことがある。


 若菜はごく普通の少女だったから、普通に泣いて、普通に前に進んだ。


 二人のように理性と感情を切り分けられる人間ではないから。賢い人間ではないし、立派な人間ではないから。父親の死は未だに悲しいし、父を殺した人間は易々とは許せない。


 その家族も、それを隠していたことも『そっか』と笑って流すことはできなかった。


 かつて紗季と共に見た映画を思い出す。ジョージの義両親はとても立派な人間だったと再認識して、自分はエドのような人間にはなれないのだろうと理解した。


 自分に苛立ちながら町を歩いていると、ふと、一陣の風が吹いて、その心地よさに立ち止まった。白く揺れる吐息を目で追いかけてから、それが車の排気ガスに重なり溶けたのを見送って、若菜は再び歩き出そうとする。


 その時、目の前に誰かが立っていることに気付いた。


 幅の広い道路で端を歩いていたのだ。邪魔にならないように気を遣ったつもりだったが――そう思いながら会釈をして横を通り抜けようとした若菜は、一歩を踏み出し、思わず止まる。スニーカーでアスファルトを踏み締め、対峙するその人物の顔を見た。


「……どうも」


 若菜はその表情に警戒心を宿し、吐き捨てるような挨拶をした。


 彼女の挨拶を聞いて鼻を鳴らすのは、どことなく紗季の面影を感じさせる女性だった。


 名前は島津真尋――紗季の叔母がそこに立っていた。どうやら彼女も休日のようで、ラフな私服を着てスーパーの袋を片手に提げている。


 冬の風が間を吹き抜ける間、二人の間には沈黙が漂う。


 抜けていった風を尻目に若菜は脇を通り抜けようとするが、真尋の言葉が制止する。


「この前の続き」


 戯言や暴言だったら聞き流した。しかし、紗季に繋がることだと分かったから、思わず足を止めてしまった。しかし、今ならあの時の言葉の続きが理解できる。


 わざわざ足を止めたって神経を逆撫でされるだけだろう。しまった、という顔でそう理解をするも、立ち止まってしまった若菜に真尋は口を開いた。


「あの子の父親は人を殺してる」


 静かに呟いた真尋の表情は、紗季に対する嫌悪感に満たされていた。


 若菜は微かに瞳を瞑って吐息を漏らすと、視線も合わせずに呟いた。


「聞きました。本人から」


 静かに答えれば、真尋は幾らか驚いたような表情を浮かべた後、あざ笑うように鼻を鳴らした。「道理で」と若菜の暗い顔を揶揄したが、言い返すのも億劫に若菜は肩を竦めた。


 ――客観的に見て、人を殺すという行為は忌避される。そして、それを犯した人物に同様の感情を抱くことも道理と言えた。更に言えば、殺人加害者の家族にも同様の感情を抱くことは、理想論においては許されないのだろうが、感情的には仕方が無いのだろう。


 彼女の紗季に対する態度の理由は分かった。


 そして、それらが否定できるものではないことも。


 しかし、若菜がそれを肯定することはできない。


「だったら分かったでしょ。あの子に構うのは――まあ、自由にすればいい。でも、人の家庭に口を出すのはやめてもらえるかしら。ウチにはウチの事情がある」


 少しだけ強い風が吹いて、辺りを撫でていく。


 底冷えする年越し前の凍てついた空気に白い吐息を乗せ、若菜は彼女に褒められた絹髪を揺らす。真尋と視線を合わせないまま、道路を行き交う車を眺めた。人にはそれぞれ、他人には理解できない家庭の事情がある。若菜もそうだ。父親が居ないという事実を腫れもののように取り扱われることを鬱陶しく思ったこともあれば、ずけずけと踏み込まれて疎ましく思ったこともある。


 だから、彼女の気持ちは理解できた。若菜は頷くことはできないながら、否定をすることもできずに押し黙る。路傍を眺めて沈黙する若菜をしばらく見詰め、真尋はそんな若菜の脇を抜けて歩き去ろうとする。去り際、吐き捨てるように呟いた。


「これに懲りたらあの子との接し方も考え直しなさい。貴女も……失望したでしょ」


 そっと言い残された言葉を、若菜は飲み込んで反芻する。


 彼女を善人だと思っていた。誠実で、生真面目で、一生懸命に生きて、けれどもどこか不器用なところがある。支えるまでもなく立派に自立した人間だが、危なっかしいところがあるから目が離せず、傍で見守ろうと思っていた。


 彼女の父親が自身の父を殺害したと聞いて、混乱をした。今まで積み上げてきた関係が崩れ去ったような気がして、彼女とどう向き合えばいいのか、今まで通りの関係に戻れるのか分からなくなった。しかし、失望をしたかと聞かれると、それには疑問が残る。


 若菜は「いえ」と冬の風に否定の言葉を乗せた。


 反射的に振り返った真尋に、若菜は言葉を続けた。


「驚いたし、戸惑いましたけど、失望はしてません」


 陽に鮮やかに輝き揺れる金髪の向こう、深く澄んだ黒瞳が真尋を射抜いていた。


 芯の宿った力強い瞳を前に、真尋は頬を歪めて吐き捨てる。


「そりゃそうか……他人事だものね」


 否定の言葉が出そうになったが、飲み込む。若菜は真尋を言い負かしたい訳ではないし、言葉の説得力の為に立場を使いたくもなかった。


 そして、もしも彼女の言う通りに、本当に赤の他人が殺されていたらどうしていたか。若菜は少しだけ考えて、ほんの少しの思考で答えが出した。


 それでも、失望はしなかっただろう。


 向き合い方は分からないままだけれども、彼女を最低な人間だとは思わない。


 若菜は矛盾するような二つの思想を胸に、額に手を当てて思案しながら言葉を紡ぐ。


「ご存じだと思うのでお伝えしますが、正直、私は貴女が嫌いです」


 愚直にぶつけた本音に、真尋は眉を寄せて心底不快そうな表情を見せた。当たり前の反応であり、それを率直に伝えることが何と無礼な話かも自覚している。しかし、彼女とて若菜を見下したような態度を隠そうともしていないのだ。お互い様だろう。


「ああそう、私もだけど」

「両想いですね――もう一度言いますが、私は叔母さんが嫌いです。紗季ちゃんに酷いことを言いやがって、と。でも、その行動は理解できます」


 心底認めたくはないが、この一点に関しては認めざるを得ないのだろう。


 若菜は彼女から視線を剥がすと、道を行き交う道路を目で追う。排気ガスが冬の寒気に浅黒く揺蕩い、吹いた冷気を浴びながら続けた。


「人殺しの家族を傍に置くのは怖いですから」


 呟くと、真尋は少しだけ驚いたような表情を見せた。唇を引き結び、あの日、友人を庇って、今日も反抗的な態度を示す若菜が見せた理解の素振りを怪訝そうに見る。そんな彼女に、若菜は続けて口を開く。


「ご家族は?」

「旦那……あと、あの子に歳の近い娘が居る」

「だったら猶更、そんな過去や家族を持つ人を同じ家には置きたくないでしょう。だから、家から追い出すという行為そのものは、納得はしませんけど理解できます」


 彼女に対する暴言は、この際、言及するだけ無駄だろう。


 だから触れることはせず、自身の考えを明かした。


「でも、それは紗季ちゃんを視ていないから抱く恐怖だと思います」


 若菜は自身の涙袋を指で叩きながら、そう語る。


 無知が故の臆病者だと罵られた真尋は不快そうな顔をするが、語る理屈には興味があるのか、言葉を遮ることはしない。そんな彼女に、若菜は瞳を瞑って言葉を続ける。


「父親と同じ過ちを辿る人は、父親の罪のために土下座なんてしませんよ」


 真尋は言葉を呑んで目を開き、一瞬、怪訝そうな表情を見せる。


 何を言っているのか、事実を言っているのなら、何でそれを知っているのか。そう言いたげな表情だったが、若菜の表情が出まかせのそれではないと悟ったらしい。目を開いて沈黙して、すぐに微かに瞳を伏せる。数秒してから「……そう」と何かを考えるように呟いた。


 泣くことさえできず、凄絶な罪悪感に駆られた表情を思い出す。作り笑いは多かったけれども、穏やかで優しい表情が印象的だった彼女が初めて露にした本音の表情だ。鮮明に覚えている。そして、彼女がそれを胸中に宿していることを見抜けなかった自分に嫌気が差した。


「私は知っていますから。自分の家族の過ちに向き合って苦悩する彼女を――だから、失望する暇があったら向き合いますよ。私は、紗季ちゃんを知ってますから」


 そう告げた後、若菜はふと自分の言葉を振り返る。


 気持ちの整理をする時間が欲しい、などと苦悩する彼女から逃げた癖に、どの口で言っているのだろうか。自分が馬鹿馬鹿しくなって、今までの言葉の全てを投げ捨てて逃げ出したくなるような感覚に襲われる。しかし、紗季の贖罪をすぐに認め、今まで通りの関係に戻るということのできない不器用な筑紫明人の娘が居る反面で、彼女を思い、彼女との関係を取り戻したい島津紗季の友人も居るのだ。


 どちらも、筑紫若菜である。他でもない自分自身は、それを否定できなかった。


 今まで、どれだけ率直に罵声を浴びせても表情を変えなかった真尋が、初めて少しだけ複雑そうな表情を覗かせる中、若菜は後ろ髪を掻いて自分に呆れながら呟いた。


「マジで、どの口で言ってんだって感じなんですけど」


 何て言おうか考えてなかった若菜は、一度、口を閉ざす。


 そして、瞳を交えた真尋の言葉を借りることにした。


「何も知らないのに、彼女の人生に口を挟まないでください」


 或いはブーメランが突き刺さるような言動なのかもしれないが、若菜はあの日からずっと、この言葉を彼女に叩き付けたかった。どうやら効果てきめんのようで、真尋は言い返す言葉も無いように瞳を瞑って溜息を漏らした。


 それから、そっと瞳を開いた彼女は路傍を見詰めていたそれを若菜に投げた。


「……あの子の、何だっけ」


 返答は色々と浮かんでくる。一緒に映画を観た仲だとか、家庭教師を頼んだとか、或いは同級生だとか。けれども相応しい言葉は一つしか分からなくて、それを紡いだ。


「片思い中の友達です」


 真尋はそんな返答を鼻で笑うと、どこか自身を省みるように瞳を細めた。


 しばらく若菜を見詰めた真尋は、それからそっと踵を返した。


「そう」


 それだけ言い残すと、彼女はそのまま歩き去っていった。


 若菜は彼女を呼び止めることはせずに背中を見送った。


 人間はそう簡単には変わらないし、彼女が紗季を受け入れられない気持ちも理解できる。だから、これ以上は何も言わない。しかし、彼女の去り際の表情がほんの少し――本当に、ほんの少しだけ紗季を彷彿とさせた。だから、大丈夫だろうという根拠の薄い確信があった。


 しかし、本当にどの口が言っているのだか。


 若菜は真尋に堂々と説教をできる自分に呆れながら、彼女と反対方向へ歩き出す。家に帰る訳ではなく、ただ当てもなく歩き呆けて思考を整理する時間に戻るためだ。十二月の下旬は酷く冷えるが、コートのポケットに手を突っ込んで堪える。


 こういう冷える日は、かつて紗季と共に電気毛布で温まった日を思い出す。


 あの日を懐かしみ、愛おしく思いながら彼女を思い出そうとする。


 そんな時だった。若菜が歩く歩道に隣接した車道。脇に停車していた車から「やあ」と声が掛かる。思わず目を向けると、見知った人物がハンドルを握っていた。


 黒髪を一つに束ねた元家庭教師の数学教諭を見つけ、思わず声を漏らす。


「げ!」

「随分な挨拶だね。こんな快晴に」


 嘉悦水城は愉快そうに肩を揺らしながら、吸っていた煙草を吸い殻入れに押し付ける。


 今日はよく知人に会うものだと思いながら、つい先ほどまで口論をしていた若菜は、バツが悪そうにしつつ「どうも」と挨拶をした。まさか話を聞かれていたのだろうかと、戦々恐々としながら固い表情を浮かべる若菜に、水城は対照的に笑った。


「良い言葉だよ。『彼女の人生に口を挟まないでください』――か」

「ああもう! なんで聞いてるんですか!」


 少しだけ羞恥に頬を染めて糾弾を叫ぶと、水城は小馬鹿にしたような意図も見せずに頬を緩め、寧ろ若菜を讃えるような色を瞳に浮かべた。しかし、昔を思い出させるような、少しだけ子供らしい一面を見せる彼女を微笑ましく思いながら瞳を瞑る。


「仕事帰りに見知った顔が二つあったんでね。冷や冷やしながら見てたよ」


 こんな年の瀬にまで仕事とは、教師も大変なものだ。若菜は敬服の念を抱きつつ、醜態を見られた不満を表情に滲ませる。その時、ふと、若菜は水城の表情が、自分のよく知る余裕に満ち溢れた大人の顔ではないことに気付く。


 まるで、自分と同じように答えを探して旅に耽るような。そんな様だった。


「……今日は、どうしてこんな場所に? 悩み事かい?」


 彼女はそんな本音を覆い隠すように長い瞬きをしてから、呟くように尋ねてきた。


 そういえば、紗季は水城を利用して家庭教師として近付いたと語っていた。彼女が嘘を吐くとは考え難いが、誰かを守るための嘘ならば是とする人柄だ。そして、水城と紗季は幼馴染であり、きっと、何かと互いの為を想っていることだろう。


 そこまで考えた若菜は、彼女が全てを理解していることを察した。


「紗季ちゃんのこと、先生は全て知ってましたよね」


 笑みを浮かべるのは難しくて、真剣な表情で尋ねてしまった。


 そんな不意の問い掛けに、水城は驚いたように目を見開く。しかし、予め紗季から告白の旨を聞いているため、驚きもほどほどに留める。若菜の口ぶりが確信に満ちていることから言い逃れができないことを速やかに悟って、観念をした。小さな嘆息をこぼす。


「……ああ、知ってたよ」

「紗季ちゃんは、先生を利用して私達に近付いたと言ってました」

「それは違う。彼女の父親の件を知っていた私が、いい機会だと彼女を引き込んだ」


 彼女らしい嘘を吐くものだが、遺族にそんな誤解をさせておきたくはなくて、水城は直ちに否定と訂正をする。しかし、そんなことは見透かしていたようで、若菜は表情を微かも変えることなく肩を竦めた。


「どっちが本当かは知りませんけど、二人が二人のために言ってることは分かりました」


 妬くような表情でつまらなそうに呟いて、若菜はそんな言動に自己嫌悪の念を抱く。唐突に「あー!」と、髪をくしゃくしゃに掻いて叫んで、通行人の奇異の目を受け取りながら、何もかもに答えを出せない迷える子羊は毒を吐き出す。


「悩み事ですよ! 悩むに決まってるじゃないですか!」


 先刻の水城の質問に遅ればせて答え、若菜は前髪をくしゃりと掴む。


「……私は! 紗季ちゃんの告白に……何も答えず、逃げました」


 独白めいた己の罪の告白。まるで、あの日の紗季のような告白を聞いた水城は、茶化すこともせずに「うん」と優しく相槌を打った。受け止める人間が居るというのは大事なことで、若菜は自分でも驚くほどすらすらと、内心を吐露する。


「母さんとはもう和解したみたいで、最近はよく二人で料理とかしてます」


 そう告げると、水城は驚いたように目を開いて、それから心底嬉しそうに「そうか」と呟いた。これで、少なくとも一人は彼女の味方ができたのだと、若菜もその事実には安心したものだが、今、彼女とどのように向き合っていいか分からない若菜にとっては、困ったものだった。大方、話しやすいようにという葵の気遣いなのだろうが。


「私は……正直、今まで通りに紗季ちゃんと向き合える気がしないです。でも、このままで居続けるのは嫌で、どうしていいか分からないから悩んでます」


 眉を寄せながら足下を見詰めて吐き出す若菜を、水城は真っ直ぐと見詰めた。


 しばらく、沈黙が二人の間に流れる。水城にとって、若菜は元家庭教師としての教え子でありながら、今の教師としての生徒でもある。だが、それだけではない。ずっと、自分が気にかけてきた妹同然の紗季に手を差し伸べてくれた恩人でもあるのだ。


 そんな彼女が今、悩んでいるのなら。


 今度は自分が手を差し伸べるべきなのだろう。そう決断すると同時に、若菜が「あと」と言葉を続けた。他に理由があるのかと水城が視線を向ければ、彼女は苦笑した。


「紗季ちゃんが家に居るので、逆に私が居づらいです」


 水城は思わず吹き出すように笑い、「そうか」と優しく呟く。


 それから、ずっと先の赤い歩行者信号を眺めて表情を曇らせた。


「ごめんよ。私が……無責任に君達を引き合わせた」


 そんな水城の謝罪を聞いた若菜は、意外そうに眉を上げて水城の横顔を一瞥した。そんな彼女の視線の先で、歩行者信号が青く切り替わった頃、若菜はそれを否定した。


「何言ってるんですか、私は――出会ったことに後悔はしていませんよ。紗季ちゃんに出会えてよかったって、心から思っています。今は辛い気持ちの方が多いですけど、それは、一緒に過ごした楽しい時間を否定するものじゃないですから」


 恋なんてしなければよかった、と出会いを締めくくった紗季に対して、若菜は悩んでいると叫びながらもその一点だけは決して否定しない。胸を張り、微かに笑いながら断言する若菜を、水城は眩しそうに見た。思わず笑ってしまいながら、水城は自分の軟弱な考え方を一蹴するように首を横に振る。


「ありがとう。救われた」


 若菜は肩を竦め、捻くれながら謝意を受け止めた。


「そう思うなら、お昼ご飯でもご馳走してください。家で食べづらいので」


 そういえば、家に居づらいと言っていた。彼女の言った通りに紗季が筑紫宅で食事を取っているのなら、彼女は非常に所在が無いことだろう。とはいえ、葵が配慮をしないとも考えられないので、多少は若菜が戻れる時間を設けているだろうが――。


 意外な申し出ではあるものの、断る理由も無ければ、断れる理由も無かった。


「そうだね……昼の食材はもう買ってしまったから、私の手料理でよければ」


 水城は助手席を親指で示し、快諾を聞いた若菜は「もちろん! あ、遠慮はしませんよ」とガードレールを乗り越えて助手席に回り込んだ。足取り軽く助手席に乗り込んだ若菜を横目に、水城はサイドブレーキを下ろしながら頬を緩めた。

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