第25話

 普段なら夕飯を食べ終えているような時間帯。テレビも口先に指を立てるような静かなリビングで、ソファに腰掛けた葵の脚を枕に、紗季が泣き腫らした瞳を瞑り、まるで幼い子供のように寝息を立てていた。


 葵は同様に微かに腫れた瞳を伏せ、穏やかに眠る彼女の髪を撫でる。


 親は子供を正しく育てる責務があるだろう。言い換えればそれは、子供の将来を決定づけるのは親であるということ。対して、子供は親を選べない。母親を病死で失い、父親を罪に失う。――罪を、悲しみを、ともに分かち合う相手が居れば、こうはならなかった。


 彼女の苦悩は彼女の行動に左右されない、生まれ持った運命ということになる訳だ。


 夫を失った時、それを世の不条理だと憎んだものだ。


 けれども、それは被害者遺族ばかりではないのだろう。少なくとも加害者家族の、加害者の子供という存在は、己の行動に左右されない罪過を背負うことになる。


 とても、苦しかっただろう。葵は彼女の髪をもう一度撫でた。


 時計を仰ぐと、そろそろ夕飯も食べたいような頃。


 若菜からは『外で食事を取ってくるから紗季に夕飯を食べていくように促して』という旨のメールが送られてきている。相変わらず、そういう部分は何も変わらないものだと微笑ましく思いつつ、紅葉にどう説明したものかと葵は頭を悩ませた。


 その時だった。がちゃり、とリビングに紅葉が顔を出す。


 様子を窺うように雑音を殺してひょっこりと現れた彼女は、口先に指を立てて静音を促す葵を見て、何やら事情を察しているかのように頬を緩めた。


 彼女は傍まで近寄ってくると、手に持っていたブランケットを紗季にかける。「ありがと」と葵が囁くように礼を告げれば、「上まで声が聞こえてましたよ」と、同様に声量を抑えて紅葉が応じた。言われ、葵は考えてみれば道理だと苦笑をした。


 そして、どこまで聞こえていて、どこまで理解をしているのか。葵は彼女に何を説明するべきかと悩むも、彼女は平然とした表情で告げた。


「父さんのことなら既に気付いていたので、気にしないでください」


 一瞬、葵は彼女の言葉の意味を理解できずに言葉を呑み、目を丸くさせる。


 葵も若菜も全く気付いていなかったというのに、よく察したものだ。


「……いつから?」

「確証を得たのは今、母さんの反応を見て」


 しまった、と葵は額に手を当て、紅葉は愉快そうに声を殺して笑った。


 紅葉はブランケットを紗季の肩まで持ち上げ、どこか悲しそうに微笑んだ。


「……最初にここに来た日、あれだけ父さんの遺影を見ていれば疑問くらいは浮かびます。家庭事情や姉さんから聞いた話、私達への態度を考えれば憶測くらいはできます。可能性の域を出ませんでしたけど、途中からは薄々と」


 そう呟く紅葉を見て、葵は微かに瞳を伏せる。


「紅葉は……」

「『父さんを殺した人の家族が憎くないのか?』」

「ええ」

「端的に答えるのなら、憎いです。最初に気付いた時は、少しだけ――『私達が悲しんでいた時、この人たちはどんな顔をして生きてきたんだろう』って思いましたよ」


 道理だろう。彼女の考え方は間違っていない。


 実際、葵も少なからずそう考える部分が心のどこかにはあった。だから紅葉に何かを説こうなどとは思わなかった。「そう」と得心したように呟く葵に、「でも」と紅葉が続ける。


「父さんを殺した人もその家族も――憎いですけど、先生は憎めなかった」


 瞳を瞑って苦笑交じりに吐き出す紅葉を、葵は静かに見た。


「どんな顔をして生きてきた、って……そりゃあ、こんな顔だよなあ、と」


 葵が彼女につられて視線を落とせば、ずっと過去に苦しんで償い続けようとしてきた、しっかりしているように見えて、結局のところ普通の女の子に過ぎない彼女の顔があった。


 彼女とて全てを許せるような広い心を持っている訳ではない。感情に任せて誰かを嫌うことだってあるだろうし、それを否定するつもりはなかった。しかし、それでも彼女がその結論を導き出したことを、葵は少しだけ誇らしく感じてしまった。


「あの姉さんがああまで言うような底抜けのお人好しで、私も授業を通してそう感じました。生真面目で不器用だけど、凄く良い人で、だからこそ苦しんだ。これ以上、苦しめたくはないですよ。まだ気になることも多いですし、私だって疑念が確証になって動揺してます――けど、別に選択を迫られてる訳じゃないですから」


 紅葉は微かに遺影を一瞥して、どこか詫びるように、或いは『いいよね』と確認をするように笑った。少しだけ俯いて吐息を漏らしてから、紗季を見る。


「これから少しずつ、先生を知って整理していきます。いつか時間を設けて話してくださるでしょうから、その時に、先生を安心させられるように」


 穏やかに笑ってそう結論付けた自分の娘を、葵は眩しそうに見た。「誰に似たんだか」と誇らしく呟けば、「四人ほど浮かびます」と、彼女は笑いながら指折り数えた。両親と、姉と――それから。葵は瞳を紗季に向け、頬を緩めた。


 ブランケットに包まれながら静かな寝息を立てる様からは、大人びた彼女の今までの姿とは異なる可愛らしい子供のような一面が垣間見えた。『しっかりしなければいけない』と思っているだけで、まだ十七歳の、ごく普通の女の子の筈なのだ。


「姉さんは、なんて?」


 ふと、紅葉がどこか察しがついているような表情で尋ねた。


「整理させてほしい、って」

「……先生を好きな分だけ、この秘密は堪えたでしょうね」

「そうね。ああいう性格だし、紗季ちゃんと同じで不器用だから」


 人間は複数の物事に板挟みにされたとき、優先順位を付けて蔑ろにするものを作る。たとえば紅葉は先程、今は亡き筑紫明人の胸中から目を背けた。葵も同様、『彼ならこう言ってくれるだろう』と決めつけ、今を生きる彼女の為の結論を下した。


 しかし、若菜は紗季を許そうとする感情と、それでも父親を想う感情の二つに挟まれ、どう結論を下していいか分からなくなるだろう。どちらかに目を背けることが器用なのだと表現するなら、彼女のそれは不器用なのだろうが、葵も紅葉も、辛くても向き合い続けようとする紗季や若菜のそういう部分を愛している。


 だから、二人は若菜が自分で結論を下すまで余計な口を挟みたくはなかった。


「どう転んでも、私は二人の味方をします」


 紅葉は予めそう断言をする。


 葵も、紅葉も、紗季を認め許し、受け入れることを選んだ。しかし、その選択をしたことと、そうしなければいけないという考えを持つことは全く別物で。彼女は自分と異なる決断を下そうとも若菜を否定しないと告げたのだ。そして、それを葵に伝えたということは、『姉がなんて言おうとも怒らないでやってほしい』ということなのだろう。


 本当に、誰に似たんだかと葵は笑ってしまった。


「ええ、そうね」


 夜は更けていく。紗季が起きるのはいつ頃だろうか。


 彼女が目を覚ましたら夕飯の支度をするとしよう。


 まだ全てが解決したわけではないが、今日ばかりは、一人の少女の前進を祝いたい。

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