第24話

「今日も夕飯を食べて行かれるんですよね?」

「あ、いえ。今日は、遠慮をさせていただこうかと」


 授業を終えた紗季は、いつものように階下へ降りようとする。


 そんな紗季に尋ねてきた紅葉だったが、紗季は緩やかに首を振って帰宅の意を示す。その表情に浮かんだ緊張や微かな憂いに気付かず、紅葉は「そうでしたか」と見送るべく腰を浮かすが、紗季は彼女を手で制した。


「いえ、見送りも大丈夫です。今日は若菜さんと葵さんにお話があるので」

「あ、そうなんですか? それでは、ここでご失礼を――ありがとうございました」

「こちらこそ、今日もありがとうございました」

「また何かお悩みでしたら、いつでも相談してください」


 紅葉は去り際に若菜を思い出させる笑みを浮かべてそう言い残す。


 紗季は本当によく似た姉妹だと笑いつつ、感謝の言葉と共にそっと扉を閉める。


 冬休みを迎えた十二月二十六日の授業が終わる。そして、紗季は途端に自分が家庭教師ではなく島津紗季――白崎紗季になったことを自覚して、動悸が加速するのを感じた。緊張と眩暈の中で懸命に意識を保って深呼吸をすると、階下へと降りていく。


 緊張に汗ばむ震える手でリビングの扉を開けると、テーブルに着いてテレビを眺めながら談笑する二人が居た。葵と若菜は紗季が来たことに気付くと、「あ」と呟いて笑みを向けてくる。その笑みと同時に、もう一つ、仏壇から向けられる視線を知覚する。


 咎めてくるような視線を受け止めつつも会釈をして、紗季は二人の方へと向かう。


「若菜から聞いたけど、何やら大切な話があるそうで」

「長くなりそう? 紅葉はいいの?」


 葵と若菜が全く見当も付いていない様子で尋ねてくる。


 紗季は緊張に強張った表情で頷いた。


「紅葉さんは……また今度、機会を見てお話しします。長くは、ならないかと」


 紗季が重苦しい表情で告げると、その面持ちや声色から重要な話だと察したらしい葵はリモコンに手を伸ばし、テレビを切る。若菜は薄々と深刻さを察していたようで、納得をしたように数度頷くと、椅子に座り直して背筋を正した。


 紗季は静かに歩いてテーブルの傍に立つと、座ったままの二人を見る。


「取り敢えず、座ったら?」

「ご迷惑でなければ……このまま」


 葵の提案を丁重に辞退すると、彼女は「構わないけど」と驚いたように納得をした。


 二人が佇まいを直して紗季を見る。二対の視線に息苦しくなるような重圧を感じ、今にも倒れてしまいそうなほどの眩暈を覚えながらも、紗季は懸命に立つ。


 沈黙の中、秒針の音だけが数度、三人の耳を撫でた。


 紗季は一度だけの深い呼吸の中、呼気を吐き出す勢いに乗せて切り出した。


「すみません、お忙しい中にお時間を頂いてしまって……今晩、お二人に伝えなければならないことがあります。私が卑怯にも、ずっと隠していた大切なことです」


 血の気が引き、指先が震える。そんな異変に気付きながらも、二人は水を差すようなことはせず、顎を引いて頷いて紗季に続きを促す。


 紗季はもう一度だけ、深く呼吸をする。この期に及んで逃げたくなる及び腰な自分を胸中で深く叱責し、そして、自己満足になると理解しても尚、今の自分に若菜の想いを受け止める権利が無いから、踏み切った。


 自分の重荷を落とすためだけに筑紫家の人間を傷付ける道を選んだ、最低な人間だ。これ以上、落ちる場所も無いだろう――自覚して、ようやく決意が固まった。指先から少しずつ上ってきた寒気が脳までやってきて、頭が冷えた。


 紗季は葵を見て、それから若菜を見る。若菜の不安そうな、それでいて紗季を案じるような表情にはほんの少しも紗季への悪感情は無く。彼女のそんなところに惹かれ、彼女のそんなところが、今はこの上なく紗季を追い詰めた。


 紗季は瞳を瞑り、自分の心に一度だけ問い掛ける。虚無の心に言葉が響いて、それを返事だと錯覚した紗季は、そのまま静かに切り出した。


「私の旧姓は白崎です」


 その言葉に、若菜は意味が分からないと言いたげに首を傾げた。


 意味が伝わらなかったのは葵も同様だが、彼女は何か聞き覚えがあるかのように怪訝そうに眉を寄せ、顎に手を当てて考え込んでいる。数秒して、何かに気付いたように彼女は目を丸くして、声を失ったように紗季を見た。


 一瞬、その視線が紗季の背中にある仏壇に、筑紫明人に向いた。


 そんな葵の反応を見た若菜は戸惑いがちに紗季を見て、紗季は、続けた。



「私は――筑紫明人さんを殺害した白崎孝弘の、娘です」



 心に開いた大きな穴が、更に大きく広がって身体を飲み込んだ。


 静寂がリビングを支配する。葵は絶句したまま目を丸くして紗季を見詰め、若菜は、言葉の意味が理解できない様子で沈黙していた。


 ようやく、隠していたことを、背負い続けてきたことを打ち明けられた。想像していたよりもずっと身体が軽くなり、想像していたよりもずっと、自分がどうしようもない屑だったと理解できた。今の島津紗季を形成していたのは、筑紫家への償いの念だけだ。それを放棄して打ち明けるという選択をした今、ここに立っているのは『殺人者の家族』だ。


 紗季は全ての私情を殺して膝を付くと、手を膝の向こうに添えて土下座の姿勢を取る。


「今まで隠していたこと――そして、何よりも。父が皆様のご家族のかけがえない命を奪ったこと、お詫びさせてください。誠に、申し訳ございませんでした」


 そう告げて頭を下げようとする紗季だったが、若菜が椅子を蹴倒しながら駆け寄ってきて制止をする。酷く狼狽した様子で、彼女は目を見開いたまま、どんな表情を浮かべていいかも分からずに強張った笑みを浮かべている。


「ま、待ってよ! どうしたのさ、急に!」


 紗季の肩を押さえる彼女の手が震えていた。


 その震えから深い悲壮が伝わってきて、紗季は自己嫌悪と罪悪感の念に包まれる。けれども、遺族を前に泣くような真似だけは許せず、真剣な表情で彼女を見詰めた。


 若菜は今にも泣きだしそうな顔で笑い、紗季に尋ねた。


「冗談、キツイ……よ、紗季ちゃん」

「嘘や冗談ではありません。全て――真実です。私は嘉悦先生を利用して皆さんに近付いて、後ろ暗いことを全て隠し続けてきました。自分が許されるために、自分を許すために、卑怯なことをし続けてきました。その罪を今、告白します」


 彼女の瞳は酷い動揺に揺れ、紗季の瞳は据わって真っ直ぐに。まるでいつもとは正反対な視線の交錯の中で、紗季に視線を逸らしたのは紗季だ。


 紗季は膝の奥に手を突いて、再び頭を下げようとする。


 それを力づくで止めた若菜は、唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな顔で紗季の顔を見詰める。ぐちゃぐちゃな感情を言葉にできず、ただ、紗季を見詰めた。


「嘘じゃ……ないんだよね……?」

「はい。私は若菜さんを――皆さんを騙し続けてきました。私の父は、筑紫明人さんの尊い命を奪った罪人です。最初から、皆さんが遺族だと知った上で近付きました」


 言葉にすれば、その重みが臓腑を揺らす。


 けれども自分の罪から目を背けず、どのような罵声も受け止めよう、と若菜と葵を見詰める。葵は戸惑いを表情に、しかし若菜よりは幾分か落ち着いた様子で紗季を見ていた。


 若菜は冷静さを欠いた様子で、紗季の肩を強く掴んでいる。


 激しい罵声を覚悟していた紗季だったが、若菜の瞳の奥に怒りの感情が見えないことに気付いて、紗季は言葉を失う。その瞳には戸惑いと悲壮と、まるで紗季に対する悪感情など僅かも浮かんでいなくて、目の前に居るのが、今まで友情を深めてきた筑紫若菜であるということを再認識して、紗季は視界が酷く揺れるのを知覚した。


「……そっか。打ち明けてくれて、ありがとう」


 凄絶な葛藤を孕んだ表情でそう呟いた若菜は、不安定な動作で立ち上がる。


 酷い頭痛を堪えるように額に手を当て、眼下の紗季よりも更に下、床を見詰めるように俯いて、それから振り返る。仏壇を見た彼女は、そこに置かれている笑顔の父の遺影と視線を交えた。抱くべき正しい感情が分からず、それどころか、今の自分の心さえ分からず、彼女は泣き出しそうな顔で紗季へと視線を戻した。


 それから、逃げるように視線を逸らした彼女は、弱々しく震える声で呟いた。


「……ごめん、少しだけ整理する時間が欲しい」


 彼女はそう言うと踵を返し、紗季も葵もそれを引き止めることはしない。


 とても悲しそうな背中が扉の向こうに消え、カチャン、と扉の締まる無機質な音が、彼女と自分の心を隔絶したように感じられた。――明るく恩赦を貰えるなどとは考えていなかった。寧ろ、厳しい叱責と罵声を覚悟していた紗季は、咎められないことに罪悪感を肥大化させている。


 再び、リビングに沈黙が訪れた。秒針がこの物悲しい舞台を少しだけうろついた後、葵が小さくため息を漏らして立ち上がる。


「取り敢えず、座って。紗季ちゃん」


 彼女はそう言いながらマグカップを二つ取り出し、紅茶を淹れようとする。


 紗季は床に正座したまま、同じ高さに座ることも、もてなしを受けることもできないと言いたげに食い下がろうとするが、「その方が話しやすいでしょ」と言われ、これ以上は迷惑だろうと、絞り出すように「はい」と呻いた。


 紗季が椅子に座ってしばらくした後、湯気の立つマグカップを目の前に置いた彼女は、「ありがとうございます」という紗季の礼に微笑みながら、そっと切り出す。


「紅葉を外したのは、あの子の受験に影響しないようにしてくれたのね」

「……はい」

「ありがとう」


 礼を言われ、紗季は胸が酷く締め付けられるような痛みを覚えた。


 そんな礼を言われるような人間でも立場でもない。『どういたしまして』さえ言えずに押し黙って、紗季はテーブルの木目を見詰める。顔を上げて葵と視線を合わせるのも難しく、俯いて紅茶の液面に映る酷い顔の自分を睨み続けた。


 そんな紗季を見ていた葵は悲しそうに眉尻を下げ、紅茶に口を付けた。


「どうしてずっと隠していたものを今になって話そうとしたのか。聞いてもいい?」


 本題に切り込んだ葵に、紗季はそっと顔を上げて「はい」と頷いた。


 ここに至っては、もう嘘も隠し事も無しだ。全ての真実を語るだけである。


 断頭台に首を差し出すように、腹を括って口を割る。


「家族を失うことは決して容易に乗り越えられることではないと存じます。そのため、罪を告白し、自分の重荷を落とすためだけに遺族の方々が乗り越えつつある過去を思い出させるのは、許されない行為だと考えていました」


 葵は口を挟むことはせず、酷い自己嫌悪と自罰に駆られる紗季の顔を見詰めていた。


「私は……若菜さんに特別な感情を抱いています」


 驚きに葵の瞳が見開かれた。マグカップをつまむ手を止める彼女に対して、紗季は自分から彼女への恋愛感情を再認識して、何と身勝手なのだろうかと胸中で悪態をついた。


「最初は、父の過ちを償う手段を探すために来ました。でも……気付けば私は、若菜さんの友人として、紅葉さんの先生として、この秘密を隠したままで居続けていいのか分からなくなりました。彼女への恋愛感情を正当化するために、皆さんを傷付けることを選びました」


 目を見開いて液面に映る自分を見詰め、酷く身勝手な小娘を否定する。空っぽの心に、コールタールのようなどす黒い悪感情が注がれていき、段々と、島津紗季という人間が作り替えられていくような感覚を覚えた。


 全てを聞いた葵は、その身勝手な紗季の行動を咎めることはしなかった。


 しかし、安易に励ますようなこともしない。


 静かに紅茶を口に含んで、唇を湿らせて、「そっか。ありがとう、話してくれて」と紗季の告白に礼を告げた。肯定も否定もない礼にどう応じていいか分からず、紗季は押し黙る。


 葵はしばらく沈黙して机を眺めていたかと思うと、決意を固めたような表情で顔を上げ、紗季を真っ直ぐに見詰めた。私情を殺して償いに専心――執心する紗季は、過去への畏怖という私情すら許さずに彼女の瞳を受け止めた。


「もう一つ聞かせてほしい。貴女は……どうしたい?」


 紗季の心の奥底を見抜いたような目と言葉だった。紗季は、葵が全てを理解してくれているのだと悟り、静かに安堵した。彼女は罰されたいという紗季の心の底からの願望を見抜いて、それを尋ねてくれた。だから紗季も胸中を明かした。


「――償わせてください。皆さんの、ご家族の命を奪ったことを」


 紗季の言葉を聞いた葵に驚きはない。しばらく紗季の瞳を見詰めていたかと思えば、彼女はそっと瞳を瞑って頷いた。「分かった」と、そっと呟く。


 それからもしばらく、彼女は何かを考えるように椅子に座ったまま瞳を瞑る。やがて、その瞳で遺影を一瞥したかと思えば、口を開いた。


「……亡くしてからの数年は、毎日のように彼を想っていたわ。若菜は塞ぎ込んでいたし、紅葉は特異な死生観を抱くようになった。数年も経てば歪んだ歯車も少しずつ元に戻っていったけど……それでも、命日が近付く度に思い出す」


 彼女はそっと立ち上がると、沈痛な表情で言葉に耳を傾ける紗季を見た。


 微かな憂いを抱きつつも、それに囚われることのない、歩く者の顔で、立ち止まった紗季を見る。遺族からの鮮明な話を聞いた紗季は、自らの罪を再認識する。


「紅葉は達観した子だけど、それでも堪える過去みたい。あまり彼のことには言及しない。若菜は――彼が昔はヘビースモーカーだったって知って、彼の好んだ銘柄を命日に一箱、お供えしている」


 喫煙者だってことすら、紗季は知らなかった。


 何も知らないのだ。自分の身内が殺めた相手のことを、何一つ。


 唇を噛み締めて己の背負う咎を直視する紗季に、葵は遺影の前に立って告げた。


「私は……彼を殺した人が、今、どんな人生を送っているのか。ずっと考えていた」


 俯いて紅茶の液面を見詰めていた紗季は目を見開く。瞳が、液面のように揺れた。


 どんな人生を送っていたか――家族を失った人に顔向けできるような立派な人生でも、何かしらの償いができたような人生でもない。熟れた心が腐り果てて溶けていくような、果てしない自己嫌悪を抱き、揺れる瞳でそっと葵を見た。


 遺影に背を向けて紗季を見詰めていた葵は、そっと口を開いた。


「紗季ちゃん、こっちに来て」


 平手打ちでもされるのだろうかと思うと、ようやく贖うことができるのだと理解した。


 過去を隠して家庭教師の真似事をして、友人の真似事をして、そうしてできることなど言い訳づくりくらいのもので、真の償いは当事者から下されるべきだった。紗季はゆっくりとまばたきをしてから、落ち着き払った表情で「はい」と頷いた。


 紗季は静かに立ち上がって、遺影と葵の前に立つ。


 手を伸ばせば届くような距離で向き合うと、葵の表情がよく見えた。――そういえば、『遺族』の顔を見たのはこれが初めてだった。こんな素敵な人達にこんな表情をさせたのは自分達だ。そう思えば、これから頬に訪れるだろう衝撃など、とても生ぬるいものだろう。


 それだけでは償えまい。今後、生涯を費やさなければならない。


 そう思いながら腹を括る紗季を、葵は真剣な表情で見つめた。


「目を、瞑って」

「はい」


 言われるままに瞳を瞑って、身構えることもせずに真っ直ぐに立つ。


 誰かを愛する気持ちは、こんな自分自身でも理解できた。だから、そんな相手を奪う行為の咎も、奪われた者の気持ちも理解できた。自分には彼女達の抱く感情の一切を受け止める責務があるのだ。そう考えながら、静かに平手打ちを待ち続けた。


 彼女の、動き出す音が聞こえた。反射的に身構えそうになるのを自制し、待つ。


 だが、平手打ちが頬を叩くことは無かった。



 代わりに、紗季の身体が優しく抱き締められる。


 温かい腕が背中に回された時、紗季は何が起きたかを理解できなかった。



 不意に訪れたのは、平手打ちからは程遠い抱擁。


 数秒経って自分が葵に抱き締められているのだと理解した紗季は、少しずつ目を開いていく。彼女の胸元に頭を抱き寄せられ、後頭部を優しく撫でられる。


 彼女が自分に害意を抱いていないことをようやく理解して、驚きに目を見開いて言葉を失う。少しして、「なん、で」と言葉に詰まりながら抱擁から逃げようと試みた。


 しかし、腕に力は入らなかった。


「もう、自分を許してあげなさい」


 優しい声が耳に届いた時、紗季は目の奥が焼けるように熱くなるのを自覚した。


 乾き果てた砂漠に雨が降るような感覚だった。


 見開かれた瞳が揺れ、紗季は唇を噛み締める。


 人を殺した男の家族であり、それを隠してきた卑怯者だ。どうしてそんな人間を許さなければいけないのか。紗季は遺族からの赦しの言葉も受け入れられず、葵の抱擁から逃げ、動揺と悲壮に揺れる瞳で彼女を見た。


「――なんで、ですか?」


 今にも泣きそうなのに涙一つも出てこない瞳で葵を見詰め、自嘲的な笑みを浮かべる。そんな哀れな少女の笑みを、葵は悲しそうに見た。紗季は震える呼吸と共にこの世で最も嫌悪する人間を手で示し、血の上った頭で糾弾の言葉を探す。


「明人さんを奪った人間の娘です。人を、殺したんです……大切な命を奪ったんです。私は、私は……! 私は! 母を病気で失った時、病気を呪いました……! 恨んで、憎んで、家族を奪った存在を心の底から嫌いになりました!」


 脳が酸素を持っていくから、紗季は叫ぶような言葉も長く続けられず、息切れと共に葵を見詰める。慟哭とも表現できるような悲痛な言葉の数々を、葵は痛ましそうに聞く。「ええ」と、否定も肯定もせず、心の奥底に溜まった毒を吐き出すのを、彼女は待ち続けた。


「大切な家族を奪った相手にどんな感情を抱くか、私は知っています! 何も思わない筈が無い……許せる筈が無い! 昨日まで隣で笑っていた人が、次の日にはもう、何も言えなくなって……握ってくれた温かい手が、冷たくなって動かないんです」


 紗季は悲痛な顔で歪んだ笑みを浮かべ、瞳の奥に今は亡き母親を思い出す。


 それでも涙は出てこずに、泣くこともできない歪な表情で自己を糾弾し続ける。


 かつて水城は、『誰かが君を咎めれば、もう少しだけでも自分を許せたのかもしれない』と、そう語った。その通りだった。誰からも咎められなかった白崎紗季という殺人加害者の家族は、自らで自らを貶し、罰することでしか自己を保てない。


 そうでなければ、肥大化した罪悪感が己を殺してしまうのだ。


「家族を失った時、私はずっと泣き続けました。この世で誰よりも自分が辛くて悲しいんだと。私だったら……絶対に許せません。家族を奪った人を許せません。大切な家族を殺して、何も知らずに平然と笑って過ごしていたような人を、許せません」


 乱れた荒い呼吸を繰り返し、紗季は微かに俯いた。


 誰かが紗季をそう咎めれば、きっと自分自身を守ってやろうと思えたのかもしれない。けれども誰からも咎められなかったから、少なくとも自分はそうしないといけないと思った。


 真っ直ぐで誠実で、そう生きることは美徳かもしれないが。


 そうであることが必ずしも生きやすいとは限らない。正しく在ろうとすることは、それすなわち、己の間違いを正そうとすること。変えられない過去という過ちを持つ者は、その狭間で際限の無い苦悩に延々と首を絞められるのだ。


 紗季は泣くことさえできない顔で自罰の笑みを浮かべ、呟いた。


「私は、私を許せないんです……」


 その時、葵の瞳から一条の涙が頬を伝う。


 けれども彼女は静かにそれを拭うと、「そっか」と優しい声色で呟いた。頭に血を上らせて感情任せに叫ぶ紗季に対して、葵は冷静に、その言葉を聞き続けた。これではまるで、立場が逆である。


「私も、夫を殺した人の家族が、何も知らずに平穏な日常で笑って過ごしていると考えたら、穏やかな気分にはなれないわ。貴女の言いたいことも分かるし、同じ気持ち。でもね、私は……貴女が心から浮かべた笑顔を、一度も見ていない。一度もね」


 向き合った葵の静かな言葉に、紗季は目を見開く。


 作り笑いは紗季が得意とする嘘だった。ずっと浮かべてきた仮面は誰にも見抜けないものだと自負していた。だが、蓋を開けてみれば、若菜も葵も、最初から気付いていた訳だ。紗季は泣き出しそうな顔で葵を見上げた。


「水城からはボランティア活動に勤しんでるって聞いた。若菜からは、苦しい生活をしながらも家族に仕送りをしているって聞いた。紅葉は自分のことをしっかりと見てくれる、誠実な先生だって語った。私は――愛娘と仲良くしてくれて、勉強を見てくれて、それから今日、誰よりも怖く辛い筈なのに、勇気を出して罪と向き合う貴女を見た」


 指折り数えながらそう語った葵は、穏やかな笑みで呟いた。


「泣いたっていいのよ。もう、前を向いて歩き出していい」


 泣きそうな顔で、でも泣けずに顔を歪ませる紗季に、彼女はそう語った。


 静かに紡がれた葵の言葉に、紗季は自身の心がかき乱されていくのを感じた。捨てたはずの心が浮き彫りになって、それを目の前に付き付けられたような気分だった。


 紗季は唇を噛み締め、緩め、静かに首を横に振った。


「誰かの家族を奪った分際で、泣いていい訳がないです」


 震える声で呟く紗季だったが、囁くように否定した。


「私だって憎くない訳じゃない。でも、過去に苦しんでも尚、向き合い続けてきたことを私は知っている。貴女はもう、償いを果たしてる」


 その言葉を聞いた途端、心が揺れた。


 瞳が揺れ、紗季と見つめ合っていた葵にもそれが伝わったようだった。


 母親を失ったのは小学二年生の時だった。その二年後に父親が入所した。


 実に八年から十年、紗季は『親』の愛情というものに触れずに生きてきた。唯一、自分の味方で居てくれた嘉悦水城は姉のような存在ではあったが、彼女という事件に関係のない第三者に対する遠慮の感情が、彼女の愛情を避けた。


 それでも今日、ここで。言葉を交わした葵の先に、かつて亡くした母の面影を見たのは、心の奥底ではそれを求めていたからなのだろう。思わず紗季は彼女に手を伸ばそうとしてしまい、我に返ってその手を下ろそうとした。


 しかし、その手ごと、葵が再び紗季の身体を抱き締めた。


 温かく柔らかい感触が華奢な体躯を包み込み、今度は紗季もそれを拒まない。


 瞳が濡れて揺れ、目尻に玉粒の涙が浮かぶ。言葉を発したら堪え切れなくなりそうで、懸命に唇を噛んで涙を殺そうとする。そんな紗季に、葵が優しく語った。


「亡くなってしまった人は、許すことも罰することもできない――だから、この世で誰よりも彼を愛して、彼を知っている私が代わる。『貴女が殺した訳じゃないんだから、貴女は悪くない』って、そう言いたいけど、たぶんその言葉は届かないわよね」


 紗季の震える背中を優しく撫でながら、葵は言葉を続ける。


「だから、こう言うわ」


 ぽんぽん、と優しい手が背中を叩いた。



「貴女を許す。もう、自分の人生を生きていいのよ」



 その言葉は紗季の瞳の堰を切って、心の奥底にある澱みを払った。


 自分を許すことはできず、償いに生きようと心に誓った。何をしても償えないから、人生を費やそうと誓った。けれども遺族に告げられた一言が、紗季の心の鎖を断ち切る。


 紗季の瞳から、一筋の涙が伝って落ちる。


 それでも紗季は袖でその涙を拭うと、濡れた瞳で葵を見上げた。紗季は懸命に涙を堪えようとするが、堪え切れず、やがて、顔を歪めると玉粒の涙をあふれさせる。涙を流しながら嗚咽をこぼし始めた紗季は、すぐ傍の、先日まで自分が借りていた食卓の一席を指で示した。


「本当は、この席は……私じゃなくて……!」


 嗚咽のせいで言葉にならない言葉を懸命に紡ぐ紗季。その様はまるで、泣きじゃくりながら懸命に母親に意思を伝えようとする子供のようだった。肩を震わせながら泣きじゃくる彼女の身体を、葵は僅かに涙を浮かべながら腕に力を込める。


 嗚咽で言葉も紡げず、今まで我慢してきた分まで吐き出すように泣く紗季。


 大人びた言動と、落ち着き払って達観したような作り笑いばかり浮かべていた少女がようやく見せた素顔を、葵は確かに受け止める。生活が苦しいなら、と善意で夕食に誘ったのだが、彼女の座る席は確かにかつて明人が座っていた場所だ。これだけ繊細な性格をしている彼女は、ずっと気になっていたのだろう。


 ずっと、罪悪感に苦しんでいたのだろう。前を向いて生きようとしても、己の中の誠実さがそれを許さず、正しく生きようとするあまりに、生きることさえ難しくして。


 きっと、彼女を許せる人間はこの世界で筑紫葵だけだったのだろう。


 娘と同い年の少女が、自分達大人の犯した罪に囚われて生きるなど、見過ごす訳にはいかなかった。死者の代弁など傲慢にも程があるだろうが、それでもきっと、立場が違えば、同じように自分を殺した人間をも明人は許しただろうと思える。


 そんな底抜けの善人を、葵は愛したのだから。


「紅葉が貴女を凄い人だ、って言ってた。成績も上がってるし、あの子にもやりたいことが見えてきたみたい。あの子の先生になってくれてありがとう」


 嗚咽をこぼす紗季に、葵は穏やかに語り掛ける。


 言葉も紡げず、しかし弱々しく頷いて感謝を受け止める。


「若菜が凄く優しい子だって言ってた。曲がったことが嫌いで、正しく生きようとして。貴女と同じで不器用だから、心を許せる友達も多くなくて、心配してた。あの子の友達になってくれて、ありがとう」


 紗季は袖で涙を拭おうとするも、涙は際限なくあふれ出てきて、嗚咽は止まらない。涙で視界がぼやけて何も見えず、唇を噛んで堪えようとするが、それでも涙は止まらない。白崎紗季を、島津紗季を、紗季は否定し続けてきた。


 紅葉の家庭教師である自分も、若菜の友人である自分も、素性を隠して作り上げた全てを否定した。けれども、その関係が間違ったものではなかったと誰かに認められ、今、自分の歩んできた足跡を、紗季は認めることができた。


 そして、自分が否定した心をも。


 葵は紗季の髪を撫でながら、微笑んで告げた。


「――あの子を、好きになってくれてありがとう」


 涙がフローリングに落ちて跳ねる。


 隠さなければ、否定しなければ。そう目を背け続けてきた恋愛感情を肯定され、紗季は泣きじゃくりながら葵に縋りつく。そんな紗季を、葵は確かに抱き締めた。


 静かなリビングに一人の小さな少女の嗚咽だけが響き続ける。


 十二月二十六日――島津紗季は八年ぶりに一歩を踏み出した。

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