第23話

 スクラップブックを捲ると、そこには古い新聞が挟み込まれていた。


 紗季はカーテンの隙間から差し込む朝日にそれを照らし、腫れた瞳でそれを読む。


 【麻薬中毒】【殺人】【白崎孝弘】――そんな単語の数々を見る度、心の鎖が数を増していくような感覚を覚える。八年前の殺人事件は大見出しを飾る訳でもなく簡潔に纏められている、取り上げた新聞社もそう多くはない。


 紗季も全てを纏められた訳ではないが、どこの記事にも、遺族や家族のことについては触れられていない――せいぜい、孝弘が麻薬に溺れた原因、母親の病死に言及している程度だ。紗季はスクラップブックを閉じると、それを棚の奥の方へと戻す。


 酷く冷える室内、氷のように冷たいフローリングの床に腰かけ、白い吐息を漏らして朝日を覗いた。瞼が疼くように震え、眼孔の奥の方が鈍く痛む。瞳孔が締まる不快感の中で瞳を閉じて、始まった冬休みの二日目を惰眠で過ごそうとする。


 しかし、瞳を閉じれば、鮮明に父親と筑紫明人の顔が浮かんでくる。


 紗季はそっと瞳を開き、無為な時間の浪費を避けるべく、立ち上がってテーブルへと向かう。卓上に広げられた書類の数々を手に取って、ペンを握った。紅葉が苦手とする部分を重点的に取り上げた物理のテキストだ。受験も間近に控えている今、蔑ろにできる道理も無い。


 過去という枷が足首に巻き付いて、負い目となって心を蝕んでくる。


 それでも紗季は己の責務を果たすために目を抉じ開け、今はただ、無心に為すべきことと向き合い続けた。時計の足音を聞き、その時が近付いてくるのを待ちながら。




「先生、大丈夫ですか?」


 不鮮明だった視界が途端にくっきりと纏まり、焦点の合った瞳で紗季は声の主を見た。


 夕刻――勉強机に座って心配そうにこちらを見ていたのは、紅葉だった。


 紗季は自分が授業中であったことを思い出し、同時に、彼女へ教えている最中に意識を失いそうになっていたことに気付く。立ったまま額に手を当て、軽く頭を振った。


「……すみません、寝ていましたか?」

「いえ、焦点が合っていなかったので。寝不足ですか?」

「ええ、お恥ずかしながら」


 紗季は貴重な時間を無駄にするな、と自分を激しく叱責し、口内で舌や頬の内側を噛んで、とどめに唇をぎゅっと噛んだ。「試験前の貴重な時間を……」と申し訳なさそうに紗季は頭を下げようとするが、「いえいえ」と紅葉が物理的にそれを制止する。


「ちょうど休憩を申し出たい時だったので、寧ろ有難いです」

「紅葉さん……本当に、申し訳ございません。ご迷惑でなければ今の分だけでも時間を伸ばしていただいて……あ、勿論、本日分の給料は結構ですので」


 紗季は酷い自己嫌悪を表情にそう申し出るが、「そんな大げさな」と紅葉は笑う。


 しかし、賃金を受け取っている立場で居眠りなど言語道断だ。紗季は難しい表情で食い下がろうとするが、紅葉は姉によく似た笑みを浮かべる。


「百円渡しておにぎりを購入するのと違って、こういう家庭教師の仕事って時間当たりの対価が不安定だと思うんです。人によって授業の質も違えば、相性で授業の効果にも差が出る。だから、こういうのもひっくるめて個人契約だと思います」

「ですが……」

「それでも、と仰るなら母さんに申し出てください。代わりに私のお小遣いから出します。高校に入学したらバイトして、その分を母さんに渡します」


 紗季はもはや何を言い返すこともできず、この、自分よりもずっと立派な少女を前に平伏するしかなかった。


「……ご迷惑をおかけします」

「そんな謝らないでください。何というか、事務的で寂しいです」


 紅葉は苦笑をしながらそう言い、紗季は自分を省みて眉尻を下げる。


 本当に情けない奴だと、自分が余計に嫌いになりそうだった。


 紅葉は「少しだけ、休憩を頂いていいですか?」とマグカップを手に取る。「ええ、勿論です」と承諾すれば、彼女はスティックタイプの珈琲の粉末をマグカップに注いで、電気ケトルから湯を注いだ。香ばしい珈琲に、ほんの少しだけ心が安らいだ。


 紗季は自分用に用意された椅子にそっと腰を落として目頭を揉む。


 今日、この後――若菜と葵に全てを伝える。紅葉は受験を控えている都合上、今は精神を揺さぶりかねない話をするべきではない。そのため、二人だけ。だから、今は少しだけこの空間が居心地よかった。寝不足を少しでも解消するべく脳を休ませていると、そんな紗季に紅葉が客人用のカップに淹れたミルクティーを差し出してくる。


「先生、よろしければ」

「あ……すみません、ありがとうございます」


 最近のインスタントは凄いものだと感心しつつ、糖分を摂取する。


 そんな紗季を静かに眺めていた紅葉は、微かに首を傾げながら微笑んだ。


「何か、悩み事ですか?」


 分かりやすい性格をしているとは自覚しているが、こうまで易々と見抜かれるとは。紗季は自分の単純さに呆れながらも、誤魔化す気にもなれなくて難しい表情で頷く。


「……分かりやすいですよね」

「ええ、とても。生意気かもしれませんが、私でよければ聞きますよ」


 家庭教師とは生徒に敬意を抱かれる立場でなければと奮闘していたかつての紗季にとって、この現状は目も当てられないような惨状だった。情けなくなって瞳を瞑り、思わずため息を吐くと、彼女は余裕綽々にマグカップから口を離して笑う。そんな落ち着き払った様を羨ましく思いながら、彼女に全てを語る訳にもいかず、紗季は言葉を探す。数秒ほど悩んだ後、紗季は肝要な部分を伏せて悩みだけを吐露することにした。


「怖いんです。自分の過ちと向き合うのが」


 そっと呟くと、その言葉の内容が意外だったのか、紅葉は目を丸くして紗季を見た。


 自罰的で自嘲的な笑みを浮かべながら、紗季は紅葉と視線を交わす。


 「過ち、ですか?」と呟く紅葉に紗季は頷き返す。


「私の――私は、かつて人を傷付けました。決して癒えない傷を他者に植え付けたんです。その過去を清算するために……けじめを付けるために、一歩を踏み出す決心をしました。でも、今更それに怯えているんです。過去と向き合うのが、情けないくらい怖いんです」


 紗季は己の手を広げて見詰め、まるで汚泥を眺めるような凍てついた無関心が瞳に宿っており、その表情を見た紅葉は驚きに目を丸くしている。そんな紅葉を見た紗季は、我に返ったように瞳を丸くして罪悪感を滲ませ、苦笑をした。


「……すみません、何の話をしてるんでしょうね」


 要点を省いて伝わる話題でもあるまい、と紗季は後ろ髪を掻いて「忘れてください」と呟いた。紅葉はしばらく呆気にとられたように紗季を見ていたが、しばらく沈黙した後に、手に取っていたマグカップをテーブルに置いた。


「正直なところ……詳しい話を聞かないと本旨にそった回答はできないです。でも、先生の悩み事が『過去と向き合うことへの恐怖』だとするなら、『当たり前です』というのが、お悩み相談への私の回答です」


 真っ直ぐな視線が紗季を射抜くように向けられ、紗季は思わず言葉を失う。


 彼女は――物腰丁寧で、穏やかな気質をしている。しかし、今、紗季へと向けられている瞳は彼女が社交性で覆い隠している本性だった。軽い言葉や筋の通らない主張などでは揺さぶることさえできない確固たる意志が垣間見える。


「私は――この数十日という短い歳月で、先生が私利私欲で誰かを傷付ける人ではないと確信をしています。だからきっと、先生が誰かを傷付けたという過去には少なからず、運命という名のやむを得ない外的要因が介入していると思っています」


 正解だったが、それを認めることは罪から目を背けることのようで、紗季は苦い表情をして俯くまま返答はしない。その反応が言葉よりも雄弁だと判断して、紅葉は励ますことも貶すこともせず、今、自分が経験したことと自分の目が見たものだけで応える。


 回転椅子をくるりと回して紗季と身体で向き合い、深い知性を感じさせる瞳を向ける。


「これは正論や一般論ではなく、持論です。……人間という知性と自我を持った生き物は、皆一様に過去の奴隷なんです。自分自身が踏み抜いてきた歴史が牙を剥いて、今を生きる我々の首を悔恨の首輪で締め上げている」


 彼女はそっと己の首を撫で、紗季もつられて悔恨の首輪を探す。


 彼女の言葉は、まるで芸術のようだった。彼女の持つ独自の価値観を、他者に届ける形で形成したもの。そして、その芸術は紗季の心を大きく揺さぶる。まるで中学生とは思えないような教養と価値観で、彼女は面食らう紗季に言葉を紡ぐ。


「『過去』は『死』と同様に人間に逃げることのかなわない強大な敵です。不都合であっても地獄であっても、決して変えることのできない絶対不変の悪魔。だから私は、それから目を背けることは悪でも何でもない、生まれついてそれらに敗北して屈している人間という存在の、正当な権利だと考えています」


 その言葉は、紗季が罪悪感から言語化できなかった感情を剥き出しにしたかのようで、紗季の心の奥底に殴り書きされた本音に酷似していた。筑紫明人という一人の善人は死から逃げられず、白崎紗季という少女は父親の殺人という過去から逃げられない。


 元々、人間はそれらに敗北していたのだ。


 だが、それでも――人が心を持つ以上、逃げられず死に追い付かれたことを『仕方が無い』と割り切ることもできなければ、苦しくなると自覚しても変えられない過去を背負う。


 紗季は自分の行いに正当な権利があると言われても、首を縦に振ることはできなかった。そうして向き合えば、今度は絶対不変の過去という悪魔が心を蝕んでくる。


「怖いのは当然です。変えられない過去と向き合って、傷付くのは自分だけですから」


 だから、『当たり前』――自分が過去と決別しようとする行為に恐怖を抱くことをそう言われて、少しだけ自分の心を理解できたような気がした。彼女の言う通り、過去は決して変わらない。だから、向き合えば怖くなるのは当然だ。


 この恐怖は当然の感情なのだ。理解すれば、肩が軽くなったような気がした。


 そうして、そんな救いの言葉に縋ろうとする自分が醜くて、自己嫌悪に陥る。


 彼女の深い含蓄に敬服した紗季が沈んだ瞳を彼女に向けると、彼女はその真剣な表情に少しだけ笑みを差し込んだ。


「だからこそ、私は怖くても向き合おうとする先生の誠実さに敬意を抱きます」


 想像していなかった言葉に眉を寄せて怪訝そうな顔をすれば、紅葉は穏やかに続ける。


「先生は軽視しがちですけど、怖くても、辛くても、自分が正しいと信じた道を前に進む誠実さというのは、誰しもが持ち合わせている訳ではありません。自分の過ちから目を逸らさずに生きることは、誰にでもできることじゃありません」


 買い被りだ、と罪悪感に首を横に振ろうとするも、彼女の続けた言葉が紗季を蝕む。


「人を傷付けた過去を肯定する訳ではありませんが……善行を積んでも過去の悪行が消えないように、過去の悪行は今の善行を否定する訳じゃないんです」


 泥を落とすように、鎖を引きちぎるように。


 そんな綺麗で力強い言葉に、紗季は絶句する。信じ難い言い分だと目を剥いて彼女を見詰めた。そして、紅葉はそんな紗季の視線を正面から受け止めて笑う。


「私は、その生き様を尊敬します」


 続けられた言葉には有無を言わせぬ輝きがあって、紗季は己の濁った言葉を挟み込む余地も見えずに押し黙る。紗季は――若菜や葵は勿論、紅葉も尊敬している。確固たる己の生き様というものを見付け、その道を真っ直ぐに辿っている。


 そんな尊敬する人物から手離しに褒められている現状を、否定していいのか、喜べばいいのかも分からずに紗季は俯く。


 そっと額に手を当て、そのまま瞳を覆うように手を広げる。


 こんな彼女の言葉も、父親を殺した人間の娘だと知れば、変わるのだろうか。少なくとも、全てを隠したままでいる自分にこんな称賛の言葉を受け取る権利は無いだろう。しかし、それでも――ほんの少しだけ、胸の内側に火が灯るような感覚があった。


「……ありがとう、ございます」

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