第22話

 気付けば自宅の玄関に立ち尽くしていた。


 時刻は二十二時になろうとしている。


 闇の中に茫然と立っていた紗季は、ふとした拍子に我に返って、後ろ手に鍵を掛けた。それから照明を点けるのも億劫に、月明かりだけを頼りに荷物や上着を置いていき、明日の紅葉への授業用資料を確認しよう、と放心気味に動き出す。


 真っ暗な中で書類を取り出し、立ったまま闇に目を凝らして不備を探す。


 しかし、目が文字を捉えようとも頭に入ってくることは無い。


 紗季は頭の中をぐるぐると巡る己の過去を疎ましく思いながら、「……寒い」と、電気毛布に手を伸ばしてソファに腰かける。スイッチに手を伸ばした時、ふと、紗季は毛布に若菜の温もりを感じた。彼女の温かさと優しさを思い出した途端、胃液が上がる。


 唐突な嘔吐感に襲われ、「う」と紗季は口を押えながら目を見開いて立つ。


 胸部に穴でも開いているんじゃないかと錯覚するような鈍痛が、際限の無い吐き気を送り込んでくる。忘れようとしていた、目を背けようとしていた現実を思い出した紗季は、酷い頭痛に襲われて立ち眩みを覚える。


 壁に手を付いて倒れるのを踏み留まり、荒い呼吸をどうにか整えようとする。


 しかし、再び襲ってくる吐き気を前に、紗季は喉を殴りつけるように首を絞め、吐き気を堪える。数秒して、酷い咳と共に膝を突いて、胃酸を飲み込んだ。


 嘔吐感のせいか、涙が目尻に浮かんでくる。


 水を飲もう――そう思いながら、紗季はキッチンへと歩いていく。しかし、ふと気を緩めた途端、眩暈に再び倒れかけ、紗季は流し台に手を突いて留まった。見開いた目で虚空を見詰め、震える唇が吐息を漏らす。


 脳裏を過るのは若菜の顔。ついで、紅葉と葵。最後に、遺影だった。


 ――『何て言った?』 聞き馴染んだ自分の声が自分にそう尋ねてきて、「明日、話すって」と答える。眩暈がして、視界がぐらぐらと揺れる中で、意識を懸命に保つ。『過去を思い出させるんだ』。そんな失望したような声で呟き、「だって」と言い訳をしようとする。


 そんな朦朧とする意識の中、紗季の目に包丁が止まった。


『【死】ってそんな軽いものじゃないよね。……謝ったって償えないよ』


 手が包丁に伸びた。自分の意思じゃないようだった。


「……うん、分かってる」


 分かっている。母親を病気で失った時、それを痛感した。


 柄を握る。冷たい感覚に、思考が冷めていくような気がした。


『罪の意識があるなら、死ね』


 冷たい自分の声が呟いて、紗季は包丁の妖しい銀光に目を揺らす。


 直後、我に返った紗季は目を見開いて呼吸を荒くさせ、震える手でそっと包丁を離し、がらん、と落とす。


 それから、どさりと座り込んだ。


 自分が何をしようとしたのか、理解できなかった。


 しかし、すぐにその思考が間違っていると気付く。


 何かをしようとしたのではない。――何もできなかったのだ。


 自殺をするような勇気すら無かった。


 紗季は何もできない手を茫然と見て、臆病な自分に失望したように顔をくしゃくしゃにする。唇を噛み締めるも、堪え切れない涙が落ちる。無言でそれを拭い続け、泣いていい立場ではないだろうと叱責するも、止まらない。紗季は滴る涙を嗚咽と共に拭った。


 死ぬのが怖かった。


 そんな自分が情けなかった。


 俯いてキッチンマットを涙で濡らしながら、紗季は自己嫌悪の感情に苛まれ続ける。


 分針が半周近く動く間、紗季はキッチンの傍で座り込み続けた。


 ようやく涙も枯れ、鈍い頭痛が慢性的に紗季を襲っている。


 腫れた瞳でカーテンの隙間から星空を仰ぎ、垣間見えた月に瞳を揺らす。まるで若菜を見ているような気分だった。


 今日は早めに寝ようか。そんなことを考えていると、ポケットに入れていた携帯電話が震える。誰だろうか――そう取り出して確認すれば、発信者は水城だった。


 紗季は画面を眺めたまま悩み、その末に指を動かす。


「……こんばんは、水城さん」


 紗季は沈んだ声色で電話に応じる。


 すると、声色で何かを察したように水城は押し黙る。大方、今日のデートが終わった頃合いを見計らって様子を聞きに来たのだろうが、声色が物語っている。


 数秒して、彼女は呟いた。


『何かあったね?』


 相変わらず、よく気付いてくれる人だった。彼女の温かさが胸に沁みた。


 紗季は俯いたままぼんやりと考え込む。彼女からの交際の申し込みは、彼女の名誉に関わる話だ。紗季はそれに触れないよう、ただ要点だけを伝えた。


「全て……話すことにしました。明日」


 薄々と察していたらしい彼女に驚きは無い。ただ、間があった。


『辛いぞ。君が、一番』

「そうであることを望みます」


 自分より彼女達の方が傷付くような目に遭うのなら、こんなことは断じてできない。


 紗季の返答を聞いた彼女は、再び数秒の間を開けてから呟いた。


『――詳しい話は聞かない。でも、君が軽率にその判断をしたとは思わないし、私は君の勇気ある決断を否定もしない。そして、これだけは忘れないでくれ。私はその結果がどうであろうとも、どうなろうとも、君の味方で居続ける』


 彼女の温かい言葉が自分の醜さを浮き彫りにするようで、紗季は再び瞳から湧き出す涙を知覚する。紗季は懸命に涙を堪えながら、これ以上醜さを浮き彫りにしないてくれと願うように、涙に震える声で叫ぶ。


「優しく、しないでください……! 私は、そんな人間じゃないです」

『私が君に優しくするのは、君が誰より優しい人間だからだよ』


 嗚咽と共に紗季は首を横に振って、言葉も無く否定をする。水城は『私が一番近くで見てきた。君の父親よりも、君自身よりも』と、言葉を続けた。


 慈善活動も、他人に良い顔をしてきたのも、全て自分が許されたいからだ。


 善良な人間なんかではない。そう自己否定を繰り返す。


 紗季は嗚咽の中で、水城に訴えるように語り掛けた。


「若菜さんを……好きになってしまいました。初めて……誰かに恋をしました」


 紗季は初めて誰かへの恋心を自覚した。そして、それを伝えた。


 水城は少しだけ驚いたような気配を見せ、それから、優しい声で相槌を打つ。


『仕方ないさ。彼女は魅力的な人柄をしている』


 そうだ。彼女はとても真っ直ぐで、素敵な人柄をしている。


 だから彼女へ恋愛感情を抱いてしまったことは、きっと仕方が無いことなのだろう。けれども、今はその事実が何よりも紗季の心を蝕む。彼女から離れるのも、彼女との関係を深めるのも、今はその全てが痛く苦しい。その全てが怖い。


 紗季は胸を押さえ、膝に涙を落としながら呻くように呟いた。


「恋なんて、したくなかった」


 弱々しい泣き言のような呟きを、水城は静かに聞き届けた。


 諭すことも同調することもできず、水城はただ、『そっか』と寂しそうに呟いた。


 幼い頃から紗季を知っている水城は、彼女が心を許せるような相手は自分しか居なかったと知っている。そんな彼女が初めて、誰かを友達と呼んで、誰かに恋をした。親に代わっていたつもりの水城にとって、その報告は何よりも嬉しかった。


 だから、その初恋を否定する紗季の言葉は、寂しく、悲しいものだった。


 それでも水城は彼女の幸福を願う。誰よりも心優しく、誰よりも苦しんできた孤独な少女を知っているから、彼女の行く末に明かりが灯るよう願う。


『でも、いつか――』

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