第21話

 十九時半。天望回廊を満喫した二人はデッキまで降りた。


 ドレスコードを確かめ合った二人は、それから地上三百四十五メートル、空の世界に構えられたレストランへと足を運ぶ。石田と水城から授かったチケットを提示するや否や、窓際の鮮やかな夜景が映える席へと案内された。


 クリスマスという特別な一夜、この空間に居るのは綺麗に着飾った大人の男女ばかりだった。本当だったら石田はこの席に恋人共に来るはずだったのだろうと思うと、少しだけ罪悪感が湧いて出た。


 ほんのりと薄暗い、けれども穏やかな照明に照らされた店内。


 十分程度待つと、クリスマス特別メニューなる大層美しいフレンチ料理がテーブルを彩った。緊張にぎこちないながらも正式なテーブルマナーを心掛けながら、二人は食事を楽しんだ。食事も終わりを迎え、二人の緊張もほどけてきた頃。


 紗季はふと視線を窓の外に投げ、遠く広がる東京の夜景に見惚れた。


 人の命の灯が綺麗な窓にじわりと滲み、自分が幾億の命の一つに過ぎないのだということを再認識させる。目に映る何もかもが綺麗で、ただ、その中に唯一存在する自分という汚点を夜景の向こう側に反射して見る。


 逃げずにそれを受け止めてから、紗季はそっと視線を若菜に戻した。


 すると、紗季の横顔をまじまじと観察していた若菜と視線がぶつかる。彼女は曲がり角で誰かと遭遇した時のように慌てて視線を逸らし、苦笑で誤魔化した。しかし、その傍らで紗季の身体は少しだけ熱くなる。見れば、若菜の頬も赤く染まっていた。


「あ、あのさ」


 若菜は言葉に詰まりながらそう切り出す。


 紗季が戸惑いながら視線で先を促すも、彼女は言いづらそうにしながら言葉を選んでいる。しばらく、沈黙が華やかなレストランの一角で漂う。他の卓の談笑が静かに鼓膜を打つ中で、若菜は手元の水に口を付け、瞳を伏せながら照れたように切り出す。


「今日、楽しかった」


 途端、脳裏を過るのは、たった数時間の今まで歩んできたどの歳月よりも幸福で実りある時間だ。思い出して胸が温かくなる感覚を覚えながら、そっと頷いた。


「私も楽しかったです。……とても」


 簡素な返答では言い表せない本心を拙い言葉で飾り、どれだけ手を広げても示せない溢れる想いを伝えた。「よかった」若菜は安心したように、嬉しそうに笑った。綺麗で、可愛くて、大切な彼女の笑みを見た若菜は、本当に幸せな時間だったと振り返る。


 しかし、心の奥底に澱む膿を知覚する。


 それでも、それから目を逸らして微かな笑みを浮かべた。


 若菜は安堵したように語り出す。


「しつこく私から誘ってたばかりだったから、内心では鬱陶しく思われてたりしないかな、とか、少しだけ思ってたんだ。実は楽しめてないんじゃないか、とか」


 そう告げる彼女に、紗季は少しだけ慌てて頬を挟むように触る。


「す、すみませんっ、つまらなそうに見えましたか?」

「あ、いやっ、そういうことじゃないんだ! 紗季ちゃんが退屈そうだったとか、そういうんじゃないよ。ただ、こういう距離感とかを測るのがあまり得意じゃなくて、楽しいとか嬉しいとかの感情も、独り善がりなんじゃないかと怖くなる時があるんだ」


 申し訳なさそうな顔で「ごめんね」と、どうしようもない自分を叱責するように詫びる若菜。そんな彼女の意外な一面を見た紗季は、『そんなことはないです』と否定をしようとする。しかし、寸前で踏み留まって、『返事』に留めるべきではないと考え直す。


 彼女の行動に受動的であるばかりで、紗季は彼女に何かを伝えるということをしてこなかった。その結果が彼女の不安の芽を伸ばしたのなら、摘むべきは自分自身だ。固唾をのんで言葉を選び「その」と躊躇いがちに切り出す。


「あまり感情表現が得意ではないので、誤解をさせてしまうかもしれませんが――若菜さんと一緒に過ごして、何かを共有して。そういう時間が、私はこの上なく好きなんです。貴女と出会えてよかったって、心の底から思っています」


 少しだけ恥ずかしかったが、本心から思っている偽りない想いを伝えると、若菜は目を丸くして頬を紅潮させた。嬉しそうに緩みかけた頬を手で覆い隠して、彼女は耳まで赤くしてから言葉も無く視線を逸らす。手で覆い隠した口の、更に奥の方で小さく「うん」と漏らす。


 そんな反応が愛らしくて胸が疼くように痛み、同時に、喜んでくれるのなら伝えた意義もあるものだと、紗季は嬉しくなった。


 しばらく、二人の間を居心地のいい沈黙が漂った。


 チョコレート売り場のような、甘く心地よい空間。今だけは、と、窓の外を眺めながらその空間に身を委ね、時が止まってくれることを祈る紗季。対して、対面する若菜はほんの少しだけ頬の紅潮を残したまま、紗季を盗み見て様子を窺っている。


 まるで、何かを切り出そうとするかのように。


 紗季は彼女の視線に気付いて瞳を交え、若菜は緊張を表情に宿しながら思案した。


 秒針が止まってくれるように祈るのが紗季だとすれば、カレンダーを捲ろうとするのが若菜だった。彼女はしばらく悩ましそうに考え抜いた後、「あの、さ」と呟いた。



「紗季ちゃんは……女の子同士ってどう思う?」



 絶句。それが、紗季の最初の反応だ。


 驚きに目を見開いて若菜を見れば、彼女は酷く緊張した様子で紗季を見ている。


 言葉の意味は分かる。そして、その意図も分かってしまう。


 その向こう側にある感情にさえ気付かなければ、紗季ももう少し気が楽だったろう。


 どくん、どくんと心臓が激しく脈打ち、視界が明滅するような眩暈を覚えた。口元を手で覆い隠しながら悩むような素振りを見せて誤魔化す。


 その質問を彼女がする意味は疑う余地も無く、紗季は白を切ることを選ぶ。


「女の子同士……というのは?」

「その、なんというか……恋愛関係みたいな」


 若菜は言いづらそうにしながらも絞り出す。


 紗季は「ああ、なるほど」と納得したような笑みを浮かべるが、その笑みは微かに強張っていた。隠しきれない動揺と苦悩を瞳の奥で揺らしながら、言葉を探す。『どう思うか』という質問は、何と酷なのだろうか。


 『貴女が好きです』と言えたなら、どれだけ楽だっただろうか。


 紗季は全てを捨てて、今、ここで打ち明けてしまいたい気持ちを抱きながらも堪え、浅い呼吸で心を整える。『やめてください』『迷惑です』心にもない嘘でこの場を凌ぐことだってできた。


 けれども、彼女を傷付けるのは駄目だ。


 彼女の為に吐く嘘を紗季は肯定する。彼女の為に吐いた真実が彼女を傷付けるのも――場合によっては、肯定しなければいけないのかもしれない。


 しかし、彼女を傷付ける嘘は絶対に駄目だ。それだけは、死んでも駄目なのだ。


 瞳を瞑って熟考し、開いてからそっと答えた。


「私は――抵抗や忌避感はありません」


 しかし、この返答はまるで彼女に対する想いを伝えているようで。


 若菜はその表情に、安堵と、それから明らかな緊張と期待を滲ませた。


 逃げてしまいたかった。今、耳を塞いで、彼女の傍から離れれば、きっとそれでいい。ただし、この中途半端な居場所から逃げ出すことは、彼女を傷付ける。


 分かっているのだ。彼女の行楽を受け入れて、指先が触れ合うような傍で彼女と同じ時間を過ごして、彼女に対する恋愛感情は言葉にせずとも伝わっている。だからきっと、彼女も、その想いが互いに共通していると思ったから踏み切った。


 それは間違いではない。


 彼女が紗季に恋愛感情を抱くように、紗季も彼女に恋愛感情を抱いている。


 しかし、そこまでなのだ。その感情を抱くことと、その関係に発展する願望があるかは別の話だ。彼女のことは好きだ。しかし、交際以上に発展することは無い。


 たとえば、自分の母親の死因が病気ではなく殺人で。


 その犯人と交際をしたいかと考えよう。とてもではないが、紗季にそんなことはできない。だから、若菜にそんなことはさせられない。


 嘘を吐かず、けれども彼女を傷付けず。


 どうにか話を逸らそうとする紗季に、緊張した様子の若菜が言葉を続けた。


「恋人も……居ないんだよね?」

「そう、ですね」


 今日のチケットの所有権を彼女に委譲した時、紗季はその旨を伝えている。


 嘘は吐けずに肯定すれば、若菜は「そっか」と期待を膨らませる。


 胸が痛くなるほど心臓が跳ねだして、紗季はどうにかこの話を終えるべく頭を回す。


 血の気が引いていく。身体が冷たくなっていくような感覚を覚えた。


 そうだ、手洗いにでも行こうか。そうすれば彼女にも少し考え直す時間が生まれる。或いは、逃げたと察してくれるかもしれない。


 そうすれば――そんなことを考えながら、ふと彼女の顔を見る。


 その表情が酷く恐れているように見えた。


 紗季は頭の中が真っ白になるような感覚がした。


 彼女は快活で優しく、肝要で、大胆な気質だと思っていた。それは間違いではないのだろう。けれども、それは彼女が何も恐れないということには繋がらない。


 彼女だって、自分が直接的な否定をしないからこそ期待をし、けれども臆しているのだ。彼女だってこの関係が壊れること、自分に拒絶されることを恐れている。


 それなのに、自分のことばかり考えていたことに気付いた紗季は、思考を失う。


 足場が壊れたような浮遊感を心に抱いて、「あのさ」と、彼女が固唾を飲んでから意を決して告げた想いを聞き遂げた。



「紗季ちゃんさえよければなんだけど、付き合ってみない?」



 どこか照れくさそうに笑いながら、若菜はそんなことを告げた。


 途端、微かな雑音の一切が世界から消え去った。


 鉄の茨が紗季の心をきつく縛る。砂場で拾ったシャベルが臓腑を一つずつ抉っていくような鈍痛と嘔吐感。白を目の前に映えてしまった自分の性質が真っ黒だったことに気付いた紗季は、脳に蜈蚣が這うような本能的な自己嫌悪を抱いて返答に詰まる。


 脊髄が腐り果てていくような不安定な体幹で、紗季は何年と浮かべてきた得意の作り笑いを浮かべる。途端に自己嫌悪が膨れ上がって、浮かんだ吐き気を、膝に爪を立てて堪えた。


 紗季は心の機嫌を窺いながら、懸命にその作り笑いを自然体の表情に作り替える。


「付き合う……っていうのは、その、交際のことですよね」

「あ、うん! その、紗季ちゃんがよければだよ?」


 繰り返す紗季に対して、若菜は恥ずかしそうに頷いた。


 ふと、脳裏を過るのは二つの情景。一つは自分が心の底から望む彼女との未来。彼女への恋愛感情が映し出す、彼女の笑顔だ。そしてもう一つは、階段の上に立つ父と、階段の下に倒れる筑紫明人。遺影に映っていた彼の頭部からは誰の目にも致命的な量の血が。


 感情の筆が願望の白を過去の黒で塗りつぶす。


 灰となって散っていく一つの情景を見送り、紗季は苦悩する。


 若菜は落ち着かない様子で言葉を続けた。そこには緊張が見える。


「私達、上手くやれると思うんだ! けっこう話は合うし、趣味も近いじゃん? 何か間違ったりしても、私達ならお互いを正せると思うんだ。だから、友達のままじゃなくて……もう少しだけ、特別な関係になりたい。私は――もっと紗季ちゃんと一緒に居たい」


 彼女は言い切って、緊張に瞳を揺らす。


 その奥に見える彼女の本心は、彼女の告げた言葉と何一つ違わず、不純物の混じらない実直な感情が紗季の心を大きく揺さぶる。茨が食い込んで、顔をしかめそうになる。


「そういう関係が全てじゃないと思うし、友達のままでいるのが嫌な訳でもないんだ。だけど、最近……紗季ちゃんのことばかり考えてる」


 彼女のそんな言葉に喜ばない訳が無い。嬉しい。嬉しく思うからこそ、心が摩耗していく。真綿で窒息しかけながら、紗季は逃げることを決意する。


 駄目だ。どれだけの言葉を尽くされようとも、彼女との関係が発展することはあり得ない。その手を握って、一緒に笑いながら歩くような幻想を抱こうとも、過去がそれを塗りつぶす。過去は消えず、死んだ人間は生き返らない。


 白崎孝弘を父親に持つ以上、幸福を辿る権利など無い。


 だから紗季は、彼女の提案を断ることを選ぼうとする。


 紗季は謝罪を伝えようと口を開くも、彼女をも傷付けるような言葉を紡ぐのには難儀した。紗季はもはや取り繕うのも難しく、微かに苦しそうな表情を浮かべそうになる。それでも、言わなければいけないだろうと自分を諭して告げようとする。


 そんな紗季に、若菜が言葉を重ねた。


「好きなんだ、紗季ちゃんが」


 紗季は目を見開き、開こうとしていた口を閉ざす。


 彼女は、紗季と同じくらい苦しそうな顔だった。


 驚きに見開いていた目を細め、紗季は苦しそうに顔を歪ませる。もはや隠すこともせず、自己嫌悪と罪悪感に押し潰されながら顔を俯かせた。唇を噛み締めなければ、内側に宿る感情を言葉にしてしまいそうだった。


 そんな紗季の反応を見た若菜は、その反応が肯定的なものではないと理解したようで、はっと目を開く。それから、申し訳なさそうに表情を暗くさせた。紗季はずきずきと痛む額に手を当てて、思考を巡らせる。感情がめちゃくちゃだった。


 彼女が好きだ。それでも、自分には彼女と幸せになる権利は無い。


 何故なら、自分の父親こそが、彼女の家族を奪った人間だから。


 それを隠したまま交際なんてできる道理も無い。


 では、事実を伝えるべきなのか? しかし――乗り越えた過去を掘り返す行為は、突き詰めれば自分の為だ。自分の肩の荷を下ろすだけのために償うべき相手を傷付けることが、果たして許されるのだろうか。


 ふと顔を上げて、紗季の言葉を待ち続ける若菜を見た。


 恐れながらも覚悟を決めて言葉を待ち続ける若菜を見て、紗季の脳裏には彼女の言葉が思い浮かぶ。『無理だよ。誰も傷付けずに生きるなんて』――無理じゃない筈だ。今、ここで自分の感情を押し殺して、重荷を背負い続ける行為を選べば、きっと。


 そう考える紗季に、過去の彼女が続ける。


 『だから、紗季ちゃんの重荷が落ちるなら、少しくらい私を傷付けてよ』。


 ――ほんの少しだけ頭痛が引いて、思考が明瞭になった。


 視野が広がったような感覚と共に、紗季は肩の力を抜く。


 今にも泣きそうな顔で、紗季は笑った。


「伝えなければいけないことがあります」


 そう切り出すと、若菜は驚いたように目を丸くする。


 少し、その言葉を吟味してから彼女は「うん」と戸惑いながら頷いた。


 いつか必ず伝えると約束した。その『いつか』が思っていたよりもずっと早く来ただけだ。


「明日、家庭教師のアルバイトが終わってから――時間をください」


 今、彼女にだけ話す訳にはいかない。聞くべき人間は他にも居るはずだ。


 『若菜さん達を傷付けてしまうかもしれない』と、そう告げた紗季の言葉を思い出したのだろう。若菜は何かに気付いたように驚きを表情に浮かべてから、微かに頷いた。


「私は卑怯な人間なので、ずっと黙っていました。本当に言っていいのか、とも。もしかしたら、これを伝えることの方が卑怯なのかもしれません。でも、これを伝えずに若菜さんと交際をすることは絶対にできません。だから――」


 紗季は酷く弱く脈打つ胸に手を当て、ビルの屋上で脱いだ靴を揃えるように呟いた。


「私の秘密を聞いた上で、まだ想いが冷めていなかったなら。もう一度、聞かせてください」


 そんなことは絶対に無いだろうから。そんな確信と共に、紗季は告げた。


 少しずつ喧騒が耳に入ってくるようになった。


 何も知らずに聖夜を過ごす人々の中、若菜は紗季の言葉を反芻するようにそっと瞳を瞑る。驚きや緊張や、内に抱えた不安の感情を消した彼女は、紗季を激励するように笑みを浮かべる。それはきっと、紗季が初めて見た彼女の作り笑いで。


 でもそれは、自分のものとは全く異なる、誰かの為の温かい笑みだった。


「……告白をした後に言うのは変かもしれないけど」


 彼女は一度だけ言葉を区切って、少しだけ笑みを濃くした。


「初めて、紗季ちゃんに近づけた気がする」


 その後のことは、よく覚えていなかった。

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