第20話

 時刻は十七時。


 待ち合わせ場所は紗季と若菜の最寄り駅の中間にある大きな駅だ。


 乗り換えの改札前に着いた紗季は若菜を待つ。どれくらいで到着するだろうかと、落ち着かない心で彼女を探せば、『今来たところ』という言葉が真実になるくらいのタイミングで彼女も到着した。改札の方から、見知った彼女が歩いてくる。


「メリークリスマス!」

「メリークリスマスです」


 笑みと共に手を振ってくる彼女に、紗季は会釈と共に応じた。


 どちらも無宗教だが、これが日本人だ。


 改めて対面して、二人は互いの装いを見る。


 水城から、或いは石田から受け取ったチケットにはスカイツリー天望デッキ内にある高級レストランでのディナーも付随しているのだが、その店ではスマートカジュアルのドレスコードが敷かれているのだ。そんな訳で、高校二年生二人は頑張って背伸びをした。


 どちらもヒールは慣れておらず、ローファーを。


 ロングスカートにトレンチコートを羽織った紗季に対して、若菜は黒のシャツワンピースにパンツの、ボーイッシュな纏まりをした格好だった。若菜は紗季の目の前で両手を広げ、どこか不満そうにしながら自身のファッションを見せる。


「落ち着かない!」

「若菜さん、いつもカジュアルな服装ですもんね。でも、とても綺麗ですよ」


 普段はぶかぶかのシャツやパーカーを着ている彼女は、こうした畏まった格好は苦手のようだったが、いざ目の前にすれば、思わず目を奪われてしまうくらい、似合っている。尤も、少なくない惚れた故の贔屓目もあるのだろうが。


 若菜は紗季の賛辞を受けて、「ホント?」と一転、嬉しそうに自身の服を見回す。微かに頬を緩めた彼女は、ふと思い直したように紗季の姿を見る。


 そして、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。


「でも、紗季ちゃんの方が綺麗だ」


 途端、紗季は自身の頬が紅潮するのを感じた。


 何とも単純な話だが、どうやら意中の相手からの褒め言葉というものは、冬の寒さも忘れさせてしまうようなものらしい。顔を赤く染めながらも、紗季はほんの少しだけ笑みを浮かべて素直に賛辞を受け取った。


「あ、ありがとうございます」


 けれども心の片隅では喜ぶ自分への叱責が根付いている。


 意中の相手との時間に浮かれようとする心を懸命に抑圧し、けれども、友人との時間を楽しむ少女を演技するべく、紗季はそれに注力した。そんな紗季に若菜は笑みを向け、改札を示す。「行こうか」と歩き出した彼女に「そうですね」と紗季は続いた。




 十八時半。到着した頃、スカイツリー内部は人でごった返していた。


 天望デッキへのエレベーターにはおぞましい程の行列が並んでいたが、カウンターにて石田から授かったチケットを提示したところ、どうやらエレベーターへの優先貸し切り搭乗権が付随していたらしい。二人はスタッフのエスコートによって速やかに天望デッキへと上がり、冬の暮れ、斜度を付けて設置された窓ガラスに映る絶景に息を呑んだ。


 眼下から遥か遠くまで広く伸びる東京の街並み。


 隙間なく詰め込まれた建造物に灯る明かりが人々の吐息の在処を示しており、自分達の暮らしていた場所がこの広大な景色の一部に過ぎないことを再認識する。乗ってきた路線を走る電車を目の当たりにして、ずっと遠くまで来たのだなと実感した。


「……凄いね」

「都心に立つ地上三百五十メートルの景色ですからね」


 感嘆の声を漏らす若菜と、茫然と景色を眺めながら噛み締めるように呟く紗季。


 例えば、高い山に登って山頂から見下ろす景色は圧巻だろう。富士山頂は標高三千七百七十六メートルにも及び、この天望デッキの実に十倍以上の高さだ。しかし、山頂から見下ろす雲海や眺める地球の丸さとは違う世界がここには広がっているのだ。


 自然が生んだ山に自然の広大さがあるのだとすれば、人の手が作った塔には人々の歩んできた歴史が刻まれている。人の命の脈動が明かりの明滅に重なっているのだ。


 ふと、茫然と眺める二人の前を他の客が横切り、二人は我に返る。顔を見合わせた。


「あと――」

「――お客さんの数も凄いですね」


 なんて言葉を交わして笑いながら、人の多い天望デッキを散策するべく歩き出そうとする。そんな時、そっと一歩を踏み出した紗季のトレンチコートの袖を誰かが引く。


 それは、少しだけ緊張した面持ちの若菜だった。


 目を丸くしてどうしたのかと問いたげな紗季に対して、彼女は誤魔化すように「人、多いね」と笑う。それはもちろん、紗季も認識していることであり、「え、ええ」と戸惑い混じりに応じた。しかし、相槌を所望していた訳ではなかったようで、若菜は袖を摘んだまま、微かに頬を染めつつ視線を床に逃がす。


 小首を傾げる紗季に、彼女は固い笑みを浮かべながら続けた。


「さ、寒かったりとか……しない?」

「え? いえ、特には――お気遣いありがとうございます」


 どうやら心配をしてくれたらしいと嬉しく思いながらも、紗季は空いている手で自身のトレンチコートを示す。しかし、その返答も彼女のお気には召さなかったようだ。


 彼女は唇を引き結んで目を瞑り、恥ずかしそうにしながら弱々しく唸る。


 それから、顔を赤くさせてどこか責めるような視線を紗季に。トレンチコートを掴んでいた手を離すと、彼女はその手でそのまま紗季の手を握った。きゅ、と温かく柔らかい、想い人の手が紗季の手と結ばれた。互いの指の間に指を絡め、俗に言う、恋人繋ぎを。


 紗季は心臓が強く跳ねるのを自覚した。目を丸くして喉奥から変な声を漏らしそうになりながら、絶句して彼女の顔を凝視してしまう。そんな紗季の視線を浴びた若菜は、耳までもを赤く染めながら顔を俯かせた。数秒の沈黙の後、上目に紗季を見た。


「……駄目かな」


 駄目と言える筈が無かった。


 彼女は知らないだろうが、紗季は彼女が好きだ。友人としても、恋愛対象としても。そんな相手に手を繋がれて、嫌だと思う筈が無い。しかし、だからこそ、自分にそんな行為を受け止める権利があるのかという自問が浮かんでくるのだ。


 それに――これではまるで、彼女も、自分のことを。


 ふと、そこまで浮かんだ思考を、そんなはずは無いだろうと否定する。


 彼女は友人を大切にする性格で、距離が少し近いだけ。そうに違いないと自分に釘を刺す。しかし、万が一にそうでなかったら? 彼女がもしも、自分に――考えると、段々と苦しくなってくる。胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、紗季は、もしもその可能性が可能性の域を越えたら、どうするべきなのだろうかと苦悩する。


 その想いにどう応じればいいのか、分からなかった。しかし、分かることもあった。


 自分に、彼女の想いを受け取る資格は無い。


 彼女が好きだ。しかし、この想いはそこで留める。


 だから、彼女の思いも受け取る訳にはいかない。


 彼女を好きになればなるほど蝕まれていく心から目を逸らし、紗季は火照る顔で彼女を見詰めながらその手を握り返した。それはまるで、宿題に手を付けぬまま迎えた夏休みの最終日に、友人と遊ぶような感覚に酷似していた。


 紗季は何も言わず、緊張に覆われた顔で彼女を真っ直ぐに見詰める。


 そんな紗季の視線を受け止め、彼女は満面の笑みを浮かべて手に力を入れる。それから、紗季の手を引くように、そっと天望デッキを歩き出した。ほんの少し見返り、鮮やかな夜景の灯にその顔を照らす筑紫若菜が紗季を見る。その美貌に声を失い言葉を呑む紗季は、少しして気を取り直してから、その手を握ったまま彼女の隣を歩いた。


 天望デッキを一通り散策した二人は、それから再び貸し切りのシャトルに乗車する。


 ガラス張りのシャトルが映し出す鮮やかな夜の景色に見惚れながら、地上四百五十メートルに繋がる天望回廊へ。


 回廊に到達した二人は、その圧巻の景色に言葉を失う。


 夜のスカイツリーはライティングによって独特の雰囲気を漂わす。そして今日、このクリスマスという夜に、天望回廊は特別なシャンパンゴールドに照らされている。回廊に出た二人は、淡い緑のクリスマスカラーの照明と、その向こう側の夜景に目を奪われた。


 スロープ状の回廊にデッキほどの人影はなく、先程よりもずっと静かな空間が広がっていた。どこか神聖な雰囲気の漂う空間を、二人はそっと歩き出す。


 先程より百メートル高い空の景色は圧巻だった。


 人々の吐息が、命が宿る光の数々を眺めながら進んでいく。間で繋がった手を離すことはなく、静かに歩き続ける。


 そんな時、若菜がそっと紗季へと視線を向ける。


「ちょっとだけ踏み込んだ話をしてもいいかな」


 それは『前置き』ではなく『質問』であり、拒絶すれば彼女は諦めてくれるだろうという確信が紗季にはあった。話の内容には凡その察しが付く。きっと、鍋パーティーの時に彼女に見せた、紗季の家庭事情についてだろう。


 それは、突き詰めれば互いの父親に繋がるような話だ。


 それ故に快諾するのは憚られたが、どうしてか断るのは気が引けてしまった。


 顎を引くように首肯をした紗季に、若菜は申し訳なさそうに笑う。


「……話したがらないことを無理に聞く気は無いんだよ? でも、知りたいって気持ちは確かにある。だから一度、伝えておくべきことは伝えたかった」


 そう語り出した彼女は、繋がった手を強く握った。


「人間、誰だって隠し事はするし、全てを打ち明けるべきだって考え方は凄く不健全だと思う。だから紗季ちゃんが何も言いたがらないなら、それは、そのままでいいんだ」


 若菜は一瞬だけ紗季を横目に見て、同じく紗季も寸分だけ若菜を見る。


 視線の邂逅の果てに、「でもさ」と彼女は言葉を続けた。


「もしも背負うものが重たいと思ったなら、ほんの少しでいいから吐き出してほしい」


 若菜はそっと胸に手を当て、真剣な表情でそう語った。


 紗季は思わず言葉を失い、目を丸くして足を止める。


 最初に浮かんだのは、そんなに素晴らしいことを言ってくれる彼女への、驚きを含んだ賛辞や感謝。次に浮かんだのは、そんなことをできる訳が無いだろうという、自己嫌悪を孕んだ諦観だ。紗季は驚きを滲ませた表情を苦く染め、微かに俯く。自嘲に緩みそうになった頬に手を当てて押し殺そうとして、止め、そっと呟いた。


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」


 慣れてしまった作り笑いを浮かべ、紗季は若菜にそう答えた。


 そうして再び歩き出そうとする紗季だったが、その紗季の手を、若菜が強く握って引き留める。驚き、思わず彼女の顔を見ると、若菜は少しの怒りと心配を含んだ顔で紗季を見詰めていた。そういう表情は――あまり見慣れなくて、戸惑う。しかし、意味は分かる。


 それは、心から自分を想ってくれている人の顔だった。


「そういうところ!」


 少しだけ怒りを含んだ声色で、彼女は紗季にそう叱責をする。


 紗季の戸惑いの表情に、若菜は怒りと心配を、寂しさへと変える。


「そういうところだよ、紗季ちゃん。その顔は――言いたくないって顔じゃなくて、言えないって顔なんだ。嫌なら聞けないけど、遠慮はしてほしくないよ」


 自らの中に内包されていた嘘を看破され、紗季は途端に顔を歪める。作り笑いを奪われて、どういう表情を浮かべればいいのかも分からなくて。紗季は今にも泣きそうな顔で眉尻を下げながら若菜を見ることしかできなかった。


 少しだけ、彼女と繋がっている手を緩めて逃げようとする。


 しかし、東京の夜景に溶け消えそうだった亡霊の手を、彼女は確かに繋ぎ止める。


「紗季ちゃんがどう思ってるかは分からないけど、私はもう、紗季ちゃんを大切な友達だと思ってる。大切な――大切な人なんだよ」


 静かに、けれども力強い熱のこもった言葉が紗季の心を揺さぶる。


 瞳と心を揺らす紗季に、若菜は芯の固い、揺れない瞳をぶつけた。――否、ほんの少し、その瞳は不安に揺れている。それが誰かのためのものであるということは、疑う余地も無い。


 若菜はどこか寂しそうな表情で、胸に手を当てる。


「私は……辛いのも苦しいのも嫌いだし、逃げたくなることの方が多い。立ち向かうような立派な人間じゃないし、嫌だと思ったら誰かに相談をするんだ。だから私も、私の傍に居る人達が苦しんでるなら、寄り添って一緒に向き合いたいと思う」


 紗季は彼女ほど立派な人間を見たことが無かったが、彼女は自分をそんな風に扱き下ろす。そして、だからこそ、自分が誰かを頼るように、誰かにも頼られようとする。


 そんな眩しい生き様を前に、紗季は胸が張り裂けるような痛みを覚える。


 胸を掻き毟り、唇を噛み締めた。


「心から嫌なら、絶対に無理強いはしない。でも、もしも紗季ちゃんが苦しんでいるなら、私はどうにかしたい。どうでもいいと思うような相手を、こんな風に誘わないよ」


 彼女はスカイツリーの回廊を手で示し、そう告げる。


 ああ、確かにその通りだった。彼女から向けられる感情の全てを理解している訳ではないが、彼女から確かな友愛を向けられていることは、今日の約束も、今の会話も、そして過去の全てが物語っている。そして、今日、彼女の誘いを受け入れてここに立っているという事実が、自分が彼女へと並みならぬ感情を抱いていることへの証左だ。


「私は紗季ちゃんを大切な人だと思ってる。それが独善や傲慢じゃなくて、もし少しでも同じ思いを抱いてくれているなら、私を頼ってほしい。何があっても、目を背けないから」


 想いを言葉に乗せて紡いだ彼女は、最後に一言を添えた。


「立場が逆だったら、紗季ちゃんもそうするでしょ」


 途端、紗季はほんの少しだけ目頭が熱くなり、誤魔化すように歯を食い縛って俯いた。


 当たり前だ。そう言いたかった。


 こんな自分でも、だからこそ彼女の為になら幾らでも行動をしよう。そんな下らない、けれども自分の中では大切な信念を彼女が理解してくれていることが、嬉しかった。


 自分を見てくれているのだと実感できて、余計に罪悪感が膨れ上がる。


 紗季は目尻に浮かんだ涙を二回のまばたきで払い落とした。


 このまま隠し続けるのも難しいのかもしれないと悟った紗季は、苦しそうな表情を持ち上げて、若菜を真っ直ぐに見詰めた。胸が苦しくてそれを押さえるが、それでも真っ直ぐ。



「この秘密は……若菜さん達を傷つけてしまうかもしれないんです」



 全ては語れない。


 けれども初めて、紗季はこの隠し事が彼女に関与していることを明かした。


 流石の若菜も、それは想像していなかったようだ。驚きに目を見開いて紗季を注視するが、すぐにその表情に穏やかな笑みを宿す。まるで紗季を安心させるように、紗季の為に。「紗季ちゃん」と彼女は微かな苦笑を差し込んで続けた。


「無理だよ。誰も傷付けずに生きるなんて」


 その言葉は炉で熱したナイフのように、紗季の心室から血を焼き払う。


 強く心臓が跳ね、脳がその言葉を瞬間に反芻する。


 その言葉は――紗季の氷河のような心にするりと入り込んで、膿のような血を蒸発させたのだ。誰よりも潔癖で実直だと思っていたからこそ、彼女のそんな言葉は紗季の価値観を壊す。動揺に目を揺らす紗季に、若菜は笑った。


「だから、紗季ちゃんの重荷が落ちるなら、少しくらい私を傷付けてよ」

「……若菜さん」

「私が重荷を背負ったら、今度は紗季ちゃんに押し付けるからさ」


 彼女はおどけたように笑って、紗季の憂いを払った。


 胸に残っていた膿が消え流れていくような感覚を覚え、紗季は俯きがちに口を開く。


「……今はまだ、覚悟ができていません」

「うん」


 数秒、躊躇った。しかし、変わろうと思った。


「でもいつか――必ず、お話しします」


 俯きがちだった顔を上げてそう言えば、若菜はほんの少しだけ驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。その言葉を確かめるように目を瞑って、小さく頷く。


「『約束』をします。だからもう少しだけ、待っていてください」


 海岸で貝殻に耳を当てるように、穏やかに紗季の言葉に耳を傾ける若菜。


 そんな彼女の前に立つ紗季は、苦しさの中で微かに固まりつつある決意を表情に浮かべる。『彼女を傷付けない』という信念を彼女の言葉で捻じ曲げて、今は少しだけ自分の在り方に自信を持てずに居る。


 それでも、彼女がそう言ってくれたなら、それに向き合おう――と思えた。


 若菜はゆっくりと目を開いて、紗季の手を握り直す。柔らかい指先が心を奪うように紗季の指に絡まって、冬の中でも熱いその指先に、彼女の鼓動を感じた。


「うん、待ってる」

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