第19話
通声穴の開いたアクリル板で区切られた無機質な部屋。扉を開けて入室した刑務官は、腕時計を一瞥する。そして、続いて入室した少女を隅に立って見た。
「時間は三十分です。私も同席させていただきます」
「……はい。お願いいたします」
少女――島津紗季はパイプ椅子を引くと、アクリル板に向き合って座る。
紗季の表情は酷く暗く、そんな紗季を見た顔なじみの刑務官は痛ましそうな表情で微かに帽子の鍔を落とす。
そんな二人から隔離されるように、アクリル板の向こう側に灰色の舎房衣を着た四十代前後の成人男性が居た。原型刈りで清潔そうな格好だが、その顔は酷く弱々しい。
男性は入室した紗季を見ると、今にも泣き出してしまいそうなほどに顔をくしゃくしゃに歪め、悔恨と自責に押し潰されるように項垂れた。
紗季はそんな彼に穏やかな笑みを浮かべて語りかけた。
「久しぶり。二か月ぶりだね、父さん――元気そうでよかった」
白崎孝弘は重々しく顔を上げると、悲痛な面持ちで紗季を見た。
彼女に合わせる顔が無いと言いたそうに。そんな彼の表情には欠片も『元気』なんてものは見当たらなかったが、妻を失ったあの時よりはずっと、活気に溢れている。
「数日前に書留で現金を送ったよ。届いたかな」
「あ、ああ……届いたよ。いつも、ありがとう。本当に」
孝弘は深い罪悪感と共に謝辞を告げ、それから思い出したように弱々しく首を振る。
「……いつもより多かった。大丈夫なのか……? その、生活は」
「新しく家庭教師のバイトを始めて、余裕があるんだ」
孝弘は泣きそうな顔をして、絞り出すように呟いた。
「俺は……前も言ったけど、紗季からのお金には手を付けていない。君にも君の生活があるだろうし、これ以上は送らなくていい。面会だって、嬉しくは思うけど必要は無いよ」
彼は紗季を案じるような表情でそう説こうとしてくるが、紗季はただ笑みを浮かべて「うん」と頷くだけだった。そんな紗季の反応が、父親の説得に応じた娘のそれからかけ離れていることは、いかに彼女が小学生の時に入所した孝弘であれども理解できた。
孝弘はそんな紗季の表情を見てやるせない顔をしながら俯いた。
しばらく、沈黙だけが漂う。
時間ばかりが過ぎていく。時計も無い面会室には秒針の音すら聞こえず、三人分の弱々しい鼓動と呼吸が誰の耳にも届かずひっそりと繰り返されるだけだった。
――迷っていた。
筑紫家と面識を得たことを話すべきか、否か。
ここで彼に話したところで、筑紫家には何一つとして迷惑を掛けることは無いだろう。問題は、孝弘がそれをどう飲み込むか。人の内面を覗くことはできないが、彼が己の過ちと向き合っていることは紗季には分かる。だからこそ、慎重に選択したかった。
学校を早退して電車に乗る時、それ以前からずっと悩んでいた事だが答えは出ない。
そんな紗季の考えなど知らず、孝弘は恐る恐る切り出した。
「紗季は……変わりは無いか? 上手くやれているか?」
まるで父親のような問い掛けに、孝弘は自嘲気味な弱い笑みを浮かべている。
対する紗季は彼からの話を珍しく思いながらも、同時に機を悟る。そうして何げなく口を開きかけるが、しかし、思い直して閉じ、孝弘の顔を見詰めた。
酷くやつれ、自責に追われる日々に老いた顔。
これ以上、彼に心労を負わせるのは紗季の本意ではなかった。
殺人――人の命を奪うという行為を、紗季は擁護できない。白崎孝弘はその観点において、紛れも無い悪人であり罪人だ。しかし、同時に島津紗季にとって、ただ一人の血の繋がった家族だった。永劫不変の悪であればまだ、楽だった。けれども変わろうと、償おうと藻掻く家族に背を向けられるほど、紗季は立派な人間ではなかった。
「何も無いよ――うん。何も、無いかな。元気に上手くやってるよ」
偽物の笑みばかりが上手くなっていく。
紗季は彼に笑いながら答えつつ、心の片隅で考える。
愛想笑いや苦笑や、微笑みや、偽りの笑みではない、何も憂うことなく心の底から笑ったのは、いつが最後だろうか。そんな自問はどうでもよくて、紗季はすぐにその疑問を捨てた。
刑務所を出ると、既に外は紫紺に覆われる薄暮の頃だった。
ふと、紗季は刑務所の前に見知った車が停車していることに気付く。紗季が驚きに目を開くと、ガラスが下りて一人の女性教諭が顔を覗かせた。嘉悦水城だった。
「先生」
「君が早退したと聞いてね。まさかと思って、帰り道に寄ってきた――教師としてここに居る訳じゃないから、『先生』はよすんだ」
水城は顎で助手席を示し、窓から手を伸ばして鞄を奪っていく。
教師が一生徒を送迎しては角が立つかもしれないが、彼女が幼馴染の嘉悦水城だというのなら、問題は無いのかもしれない。立場というものを良いように使い分けるなあと苦笑しつつ、紗季は「ありがとうございます」と言葉に甘えた。
紗季を乗せた車は静かに走り出し、紗季の住むアパートへと駆ける。夕刻を過ぎた大通りは車で溢れかえっており、渋滞とも呼ぶような列の中、信号の度に長く停車する。
ふと、水城の手が胸ポケットに伸びた。
しかし、煙草の箱に触れると同時、紗季の存在を再認識したように一瞥して手を引っ込める。彼女を注視していた訳ではないが、その動きに気付いた紗季は構わず、と促す。
「乗せていただいている立場ですから、お気になさらないでください」
「……いや。子供の近くでは吸わないようにしてるんだ」
信念があるのならば否定はできまい。
彼女の思想に憧憬を抱きながら、紗季はそれ以上の言及をしない。
次に口を開いたのは、水城だった。
「若菜から聞いたよ、三日後のクリスマス。二人で行くんだってね」
「……あの後、彼女から打診があったので」
「断れなかった、と」
水城は微かに嬉しそうに笑う。対照的に、少しだけ表情を曇らせる紗季。
彼女との時間を楽しみに思う気持ちと、同じだけ自身のその行為を咎める自分が居た。彼女と楽しい時間を過ごすなど、どの口で、どんな人間が抜かしているというのだろうか。そんな紗季の表情を見て、水城は内に在る苦悩を察する。コンビニエンスストアで煙草の銘柄や番号を告げるような調子で、紗季の肩の力を抜いた。
「誠実は美徳だけど、過ぎたるは悪徳だよ。君は十を提供されたら十を完食しようとするきらいがある。それで溜め込んで人を心配させちゃあ、悪徳と言うしかない」
紗季はシートベルトを軽く握り、その言葉を噛み締めるように俯いた。
「腹八分目にしておけ、ということですか?」
水城は気怠そうな瞳を前方へ向ける。
青信号を確認して、前方車両のブレーキランプが切れたのを見て、彼女はアクセルを踏んだ。ゆっくり、ゆっくりと車が進んでいく。
「一割や二割でいい」
思いがけない数字が数学教師から飛んできて、紗季は思わず彼女を見た。
「人間の脳だって同じくらいしか仕事していないらしい。それくらいでいいんだよ。過去から目を背けろとは言わない。でも、君はもう少し肩の力を抜いて、彼女に振り回されてもいいんじゃないか? ――楽しんで行ってきなよ」
彼女に振り回されるくらいがいい。そう言われると、ほんの少しだけ肩の力が抜けるような気がした。しかし、彼女と同じ時間を過ごしていると、ふと我に返る時があるのだ。自分がどういう人間かを思い出させるように、白崎孝弘と筑紫明人の顔が過るのだ。
人の命を奪った以上、その償いに専心するのは必要なことだ。
そうして生きていくと決めた以上、その事柄で発生する全てに向き合う義務が紗季にはある。その結果で水城に心配ばかりさせるのは本意ではなかったが、仕方が無いのだ。
納得できない様子の紗季を見て、水城はどこか寂しそうに笑う。
「……少しは楽をしたって、誰も咎めないよ」
砂漠に撒いた水のように、その言葉は紗季の胸に染み渡る。
しかし、焼けた石に投げた水のように、途端に霧散していく。
紗季はシートベルトから手を離し、膝の上に置く。
「――家族を失う苦しさは知っているつもりです。だから、家族を奪った人の肉親として、遺族への償いは何より最優先にしなければいけません。法にも、誰にも罰されなかった以上、私は向き合い続けないといけないんだと思います」
不意に、車のルーフを雨が叩いた。仰いだ空は綺麗な星空から、天気雨が降り注いだ。
視界の中、雨がコンクリートで跳ね踊る。
フロントガラスに落ちた雫を二人は眺める。水城はそっとワイパーを動かし、それを拭った。紗季の表情は悲痛で暗く、しかし、長い歳月に及ぶ苦悩の末に導き出された、芯を持つ決意が宿っている。
水城が彼女にどれだけの言葉を掛けても、その想いを変えることはできなかった。
寂しいとは思わない。結局、どれだけ彼女の味方をしようとも、彼女の父親が害したのは筑紫家であり、加害者でも被害者でもない嘉悦水城という第三者の友人にできることは極僅か。涙も拭えず、ただ、支えてやることくらいしかできないのだ。
再び信号に差し掛かって、水城はブレーキを踏む。
前方車両がブレーキランプを灯して完全に停車して、寸分遅れて車が止まる。
「家庭教師のバイトは?」
「今日はありません」
「それじゃあ夕飯でも食べに行こうか。奢るよ」
ハンドルに手を添えながら、水城は呟いた。
意外な申し出に、昔はよく彼女と食事をしていたなと懐かしむ。しかし、ただでさえ車を出してもらっているのに、そこまで世話にはなれないだろう、と首を横に振った。
「いえ。そこまで甘える訳には――」
「――たまには甘えろ」
呆れ混じりに伸びてきた手がわしゃりと紗季の頭を掴み、撫でる。
温かく優しい手だった。それでいて、弱い心を補完するような、有無を言わせない力強さが在った。気の済むまで紗季の頭を揺らした水城は、戸惑う紗季に「こっちも寂しいんだ」と本音を付け加えた。
そんな彼女の本音に目を見開いて言葉を失った紗季は、水城の崩した髪を直すように、或いはその感覚を思い出すように自身の髪に触れ、ずっと――ずっと傍で支えてくれる恩師に深い感謝の念を抱き、瞳を伏せながら謝辞を述べた。
「……いつも、ありがとうございます」
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