第17話

 水城の帰宅後、彼女の残した和牛と鱈を入れて鍋パーティは続行する。


 真尋が訪れた時のような微かな気まずさも無く、狸型ロボットの映画は続いた。


 紗季と若菜は同じソファで同じ電気毛布を膝に掛けながら、静かで穏やかな時間を過ごしていた。紗季の頭の中からはチケットのことが消えていき、次第に初めて食べる和牛の味ばかりが脳内を覆い尽くしていた。


 そんな時だった。若菜のスマートフォンの中で語り合っていた二人の少年の声が、イヤホンから聞こえなくなった。演出かとも考えたが、効果音やBGMも消え、無音ばかりが続く。画面内では口を開閉する人物たちが見え、どうやら無線イヤホンの不調らしいと悟った。


 イヤホンを付け直す紗季を見た若菜は「あれ、調子悪い?」と呟く。


「ええ、聞こえなくなっちゃいました」

「何かガイド音声とか聞こえた?」

「いえ、急に」

「じゃあ不調だね。んー、前からちょっと調子が悪いなとは思ってたんだよね。それなりに年代物だし、買い替え時かな――こっち使おうか」


 どうやら気に入っていたものらしく、どこか惜しそうな表情をしながら鞄を膝に置き、その中から今度は有線イヤホンを取り出す。紗季は彼女から右耳のイヤピースを受け取って、それを差し込む。右に座っている若菜は、左耳用のものを。


 しかし、無線の時とは違って有線イヤホンには物理的な限界距離がある。


 それは、若菜が今、スマートフォンを手に取ったように端末から装着者までの距離という意味でもあるが、一つのイヤホンで二人が聞く際、両者間の距離にも制限が生まれる。先程までは広々とソファを使っていた二人だが、そうはいかない訳だ。


 若菜がイヤホンを付けようとするが、コードがピンと張るのを二人は見る。


 視線を合わせると、先に動き出したのは若菜だった。


 彼女は電気毛布の下でそっと腰を浮かして、肩が触れ合うような距離まで近付く。思わず彼女の所作を眺めていた紗季の鼻先を、彼女の美しい金髪が撫でていき、シャンプーの香りが肺を満たしていく。彼女が腰を落とした時、その手が置いていた紗季の手に重なる。「あ」という二人の声も重なって、どちらからともなく引っ込めた。


 脚や肩が呼吸の動きで触れ合い、その度に温もりを感じた。


 理由は分からないが――紗季は少しだけ鼓動が早くなるのを感じる。それは恐らく、他人とここまで近い距離で接した経験が無いが故の緊張だろうと解釈する。


 若菜は隣で紗季の顔を覗き込み、申し訳なさそうな顔で笑った。


 こんなにも近くで彼女の笑顔を見たことは無かったが、どれだけ近くで見ようとも、変わらずとても綺麗だった。紗季は彼女のイヤホンが差さった右耳が段々と熱くなっていくのを自覚しながら、懸命に平静を装って彼女の持つスマートフォンの画面に集中した。


 若菜は自身の髪を耳に掛け、イヤホンを差す。


 それから、残り僅か、佳境へと突入した劇場版アニメのクライマックスを鑑賞する。


 しかし、どこか集中できない紗季は、思わず若菜の方を盗み見る。顔は画面に向けたまま、瞳だけを彼女へ。すると、時を同じくして彼女も紗季を盗み見ていた。ばっちりと視線が合って、互いに言葉も無く視線を逸らした。紗季は、彼女がどうして自分を見ていたのか、それどころか、どうして自分が彼女を見たのかも分からないまま画面を注視する。


 青い狸のロボットが画面の中で六十世紀の道具を取り出して事態を解決する様を眺めるも、その出来事は認識と同時に忘却の彼方へ消えゆく。


 隣に座す若菜は、どこか暑そうに服の襟を摘んで扇いでいた。


 再びちらりと若菜を盗み見ると、再び若菜と視線が合った。彼女は気まずそうに慌てて顔を逸らす。それから、どこか落ち着かない様子で画面の方を注視していた。


 数分後、映画が終了してエンドロールが流れ始める。


 後半の方は全く覚えていない。いつかまた観ようと誓いながら、紗季は食べ終えた鍋を片付けようかと立ち上がる。形式的に「面白かったですね」と若菜に語り掛けながら片づけを始めると、彼女も「だね」と、どこか取り繕うような笑みを浮かべて立ち上がろうとする。


 その時だった。


 動こうとした若菜は、電気毛布のケーブルに足を引っかけて躓く。


 「あ」と小さな呟きをこぼして転びそうになる若菜だったが、傍に立っていた紗季は反射的に彼女を支えた。手首を握り、肩を支え。ダンスパートナーのような姿勢で止まる。


 危ないところだった――そっと胸中で安堵する。


 数秒ほどの沈黙の後に、ふと、二人は鼻先が触れ合うような距離で視線を合わせる。


 唇が触れてしまいそうな距離で顔を合わせた紗季は、強く鼓動が跳ねる感覚を覚える。吸い込まれるような綺麗な瞳と柔らかそうな唇と、思考力が奪われる甘い香り。


 だが――それよりも紗季の心を蝕んだのは、紗季が握った若菜の腕。手首。


 意識しなくても伝わってくるくらい、若菜の手首から強い脈拍が感じられた。転びそうになった緊張と焦燥からだろうか。きっと、そうだろう。そう確信しているのに、何かを確かめるように紗季は彼女の手首を握り続けた。親指が動脈を這う。


 ソファの上のスマートフォンがエンドロールを流し続ける。イヤホンから微かなエンディングテーマが漏れて聞こえるくらいの静寂。互いの鼓動だけが部屋に響いた。


 官能的な誘惑を抱いた紗季は、同時に脳裏に筑紫明人の遺影を思い出す。


 甘く柔らかく、そして温かい微睡の世界に氷の刃を突き刺し、気を取り直す。時を同じくして、紗季に焦点を合わせた若菜が、微かに頬を染めて笑う。


「あ、ありがと……ところで、腕……」

「え――? あ、すっ、すみません!」


 紗季は慌てて手を離し、彼女に詫びる。


 しかし、紗季が手を離すも束の間、今度は若菜の指先が紗季の袖を捕らえた。


 指先を引っ掛けるように引っ張って、動きを止めた袖を摘む。一瞬、行動の意味が分からなくて紗季は戸惑いを表情に浮かべる。そんな紗季に、若菜は口を開く。


「あ、あのさ」


 彼女の声にしては珍しく、それは緊張を孕んでいた。若菜の表情には、疑うまでも無い確かな緊張が宿っており、まるで何か、大切な話でも切り出すかのような様子だ。


 紗季がそんな彼女の様子に戸惑っていると、微かに頬を赤く染めた彼女が切り出した。


「クリスマスって、なにか予定ある?」


 一瞬、質問の意味が分からなかった。それは彼女の言葉が不完全だった訳ではなく、その質問の意味を本能的に理解できたからこそ、衝撃に、思考が止まった。理性が意味を理解した途端、紗季は顔が熱くなる感覚を覚えた。きっと、彼女には真っ赤に見えていることだろう。そんな様から、質問の意図が伝わったことも彼女は分かっているだろう。


 予定――そんなものは無い。ちょうど、冬休みの始まりの日だ。勉強をして過ごそうと考えていた。彼女の誘いには頷ける。けれども、心の奥底に宿る澱みがそれを許さない。


 胸を張って彼女の友人だと言えるような人間でもない癖に、どうして誘いを受け入れられようか。自分にそんな資格は無い筈だ。紗季は浮かれそうになった心に深く深く釘を刺しこんで、胸に締め付けられるような苦しみを覚える。


 苦しみを堪えて前を向き、偽りを言葉にしようとする。


 しかし、顔を上げて彼女の表情を改めて見た紗季は、更に胸を締め付けられる。


 若菜はその表情に少しの緊張を宿して、けれども勇気を出して紗季を誘おうとしてくれている。卑怯にも、自分は逃げ出そうとしていたのに、彼女はこちらを真っ直ぐに見詰めてくれているのだ。そう、狡く醜い自分を再認識する。


 初めて筑紫家の食卓に紗季を誘ってくれた彼女の顔がフラッシュバックする。


 勇気を出した彼女の気持ちを無下にするか、罪悪感を理由に逃げ出すか。


 臆病な紗季に、後者を選ぶことはできなかった。


「――いえ、なにも」


 紗季は激しい頭痛と倦怠感、嘔吐感の中で彼女を真っ直ぐと見据えて答える。


 その返答の内側でどれだけの葛藤を抱いていたかを知らない若菜は、その表情を太陽のように明るく晴らす。


 「ほんと!?」と、表情に高揚と歓喜を宿し、水城から受け取ったチケットを取り出す。


 紗季の袖から手を離した彼女は、そのチケットを両手で持って示した。


「あの……紗季ちゃんが嫌じゃなければ、なんだけど」


 彼女は顔色に緊張を覗かせて、一拍の呼吸を挟んで伝える。


「クリスマス、一緒に過ごしたい」


 どこか不安そうな表情だった。


 予定は無い、と、そう告げてしまった時点で、既にこの誘いを断ることはできない。


 幾本もの罪悪感で出来上がった心の剣山を掻き毟るように胸に手を当て、すっかり慣れてしまった偽物の笑顔を浮かべた。けれどもその半分は、どれだけの葛藤の中であれども彼女と同じ時間を過ごせるという事実への隠せない喜びが宿っていて、そのどうしようもない事実が、余計に紗季の心を蝕んでいった。


「……私で、いいんですか」


 そうじゃない筈だ。『ごめんなさい』と言うべきだった。


 その言葉に、若菜は満面の笑みを浮かべてくれた。


「うん、紗季ちゃんと行きたいよ」


 先日の、映画館に行った日を思い出す。


 あの日、紅葉が『誰かの代わりは嫌だ』と言った日を思い出した。今、本当の意味であの言葉の意味を理解した。若菜が誰かの代わりではなく真っ先に自分を誘ってくれたことが嬉しくて、今はそれ以上に恨めしいことなどこの世には存在しなかった。


「私も……若菜さんと行きたいです」


 何が一番嫌かと言えば、この言葉が一切の偽りない本心であることだった。

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