第16話

 ソファの上に並んで座った二人は、その膝上に電気毛布を掛ける。


 テーブルには鍋と若菜のスマートフォン。鍋の中身は既にかなり減りつつあり、スマートフォンには国民的アニメの劇場版が映されていた。先程のことを憂いながらもできる限りそれを隠す紗季と、それを微かも感じさせることはなく映画を楽しむ若菜。その二人の耳には、それぞれ片方ずつ、ワイヤレスのイヤホンが差さっている。


 画面の中で弱虫の少年が立ち上がり、未来の道具を使って迫り来る敵を撃破した。


 若菜は鍋から白菜を大量に取りながら画面を食い入るように見る。


 彼女は先程の真尋の言葉を、真尋のことをそれから一切言及することはしなかった。それを紗季が嫌がっていると知ったから、彼女は決して触れない。本当に、素敵な人だと罪悪感と謝意を強く胸に抱く。どこか映画に集中できない気分だったが、彼女に感謝すればこそ、尾を引いて憂い続けるべきではないだろうと心持を改める。


 そんな時だった。


 再び、部屋のインターフォンが鳴らされる。


 紗季と若菜は反射的に顔を上げ、玄関の方を見た。反応は対照的だった。


 緊張感を表情に浮かべながらも迎え入れようとする紗季と、隠そうともしない警戒心を全面に押し出した若菜。立ち上がろうとする紗季だったが、「私が行くよ」と若菜がそれを手で制した。これではどちらが家主か分からない。


 しかし、家主として、客人は迎え入れなければなるまい。


 紗季は「いえ」と彼女と共に立ち上がって玄関へと向かう。


 真尋が何か忘れ物でもしたのだろうか、と、防犯上の観点から覗き窓を覗く紗季。そして、その扉の奥に居る人物を見た紗季は「あ」と間の抜けた声を漏らしながら微かに頬を緩める。そんな紗季の反応を怪訝そうに見ていた若菜だったが、紗季が鍵と扉を開けると、その反応の意味を理解したらしい。「あー!」と、来訪者を見て表情を明るくさせる。


「やあ、鍋パーティーは終わっちゃったかな?」


 そこに居たのは、嘉悦水城だった。シックな私服を身にまとった彼女は、片手にビニール袋を。わざわざ二人で迎え入れる紗季と若菜に驚きつつも挨拶をした。


 島津真尋と直前に接敵していた二人は、恩師とも呼べるような彼女を目の当たりにして、どこか安堵の表情を浮かべる。


「水城さん! いらっしゃいませ」

「どうもです、先生。どうしてここに?」

「この辺りに来る予定があったものでね。先日、紗季から若菜と鍋をするって話を聞いた。材料を買ってきたから好きに使ってくれ」


 そう言いながら彼女が差し出した袋を、若菜が受け取る。


 ひょいと覗き込んだ彼女は「――和牛!? 鱈!?」と目を剥いて絶叫めいた悲鳴を。紗季は絶句して、袋の中を覗き込んでから「い、いいんですか……?」と、恐る恐る水城を見るが、彼女は愉快そうに笑いながら「『嘉悦先生』として来ている訳じゃないからね」と笑った。


「と、取り敢えず上がってください。狭い部屋ですが……」

「うん、邪魔するよ」


 紗季は真尋の時とは違い、彼女に速やかに上がるように促す。


 紗季は座布団を適当な場所に取り出して、水城にはソファに座るように手で示す。しかし、彼女はそんな紗季の身体をソファの方へと押すと、ドサリと座布団の上で胡坐をかく。こういう時、彼女には何を言っても無駄だと知っているが、紗季は物言いたげにする。


 しかし、何をいうこともせず、若菜と共に言葉に甘えてソファに。


 若菜はポットから温かい紅茶を紙コップに入れると、それを水城に差し出した。


「しかし、わざわざ二人でお出迎えとはね。仲が良さそうで何よりだ」

「紗季ちゃんの叔母さんかと思いまして。追い返してやろうと」


 水城の言葉に返したのは若菜だ。彼女は頬を膨らませて怒り心頭とばかりに断言する。そんな彼女の言葉に、水城は意外そうな表情を浮かべる――真尋の性格は水城も知っている。若菜が苦手とする類の人間だということは理解しているので、その反応は意外ではない。


 重要なのは、彼女は島津真尋を知っているということだった。


 それは、紗季が隠していることの一端に触れたということ。情報の開示状況を理解できなかった水城は寸分だけ紗季の表情を窺う。紗季は意図を察し、語る。


「先程、真尋さんが家に来まして。最近の実入りの良さを怪しまれたようで」

「ああ、なるほど……確かに家庭教師業は、特に筑紫家のアルバイトは稼ぎが良い。その分だけ仕送りを増やしたなら、それは異変を察するには十分だろう。そしてあの性格だ、何か余計なことを随分な口調で言ったんだろうな」


 彼女がどうして紗季を毛嫌いするか等の肝要な部分には触れず、水城は上手に話す。


「陰口は言いませんし、人様の家に口は挟みませんけどね! でも、相手が誰であれ酷い言葉は遣っちゃ駄目です。もし次に会ったら徹底抗戦ですよ!」


 若菜は腕を組んで分かりやすく怒りを表現して、そんな彼女の生き様を見て、水城は眩しそうに目を細める。ほんの少しだけ頬を緩めながら「ありがとう」と、小さな声で囁いた。その言葉は若菜の耳には届かなかったが、紗季には届く。


 ふと、水城はテーブルの上のスマートフォンや鍋を見る。


 それから、ソファに並んで座る紗季と若菜を見ると、嬉しそうに呟いた。


「随分と仲が良くなったみたいだね」


 そう言われた紗季は、真っ先に肯定するのも気が引けて若菜を見る。しかし、見えたのは横顔だけ。若菜は微かも臆することは無く水城に頷いて笑った。


「そりゃもう、親友ですよ」


 驚いて言葉を呑む紗季だったが、君はどうなんだ、と水城の瞳が問い掛けてくる。


 真尋の件も含め、自分は彼女に多くのことを隠している。そんな彼女を友人と呼んでいいのかという葛藤があった。しかし、同時にそんな自分をそれでも親友と呼んでくれた彼女の優しさが胸に沁みた。理性は制止を促したが、感情が言葉を紡いでしまった。


「はい、親友です」


 友達と親友の言葉の境界線は知らないが、彼女がそう呼んでくれるのなら、きっとそういう関係なのだろう。二人の言葉を聞いた水城は「そっか」と嬉しそうに笑う。


 若菜は思い出したように手を叩き、水城に鍋を示す。


「そうだ、先生も鍋食べていってくださいよ! せっかく良い具材を持ってきてくれたんですから」

「あ、そうですね。すぐにお皿を用意します」


 水城に馳走を振る舞おうとする二人であったが、「いや」と水城は笑いながら手を振る。立ち上がりながら、動きを止めた二人の前でコートを羽織り直した。


「悪いけど、私はそろそろお暇するよ」

「えー! 来たばかりじゃないですか!」

「さっきも言ったけど、この辺りに寄る機会があっただけなんだ。それに、教職員に土曜日は関係ない。私は先日の小テストを採点しなきゃいけないんだ。無給の出勤日だよ」


 肩を竦めながら小言を漏らす水城に、紗季は同情を禁じ得ない。


「いつもありがとうございます、水城さ――嘉悦先生」

「やっぱ小テストって大変なんですね。やめればいいのに」


 若菜は軽く笑って自分が楽になる道へと促そうとするが、水城は苦笑を返す。


「生徒には自身の理解度を自覚させる機会が必要なんだ。君のように不真面目な生徒には分からないかもしれないけどね」

「平均点は越えてるんで大丈夫ですー」


 若菜はへらっと笑ってそう言いのけ、水城は「そうかい」と笑うだけだった。


 そうして玄関に踵を返そうとする水城。見送るべく紗季と若菜も立ち上がるが、その時、「ああ、そうだ」と思い出したように水城がポケットを探る。何か飴玉でもくれるのだろうかと見ていれば、彼女が取り出したのは一枚の紙幣程度の紙だった。


「小切手ですか!?」

「馬鹿か君は。――チケットだよ、東京スカイツリーのプレミアムペアチケット。一週間後、クリスマス当日の夜だ。イルミネーションも楽しめる。貰いものだけど、私は使わないから君達にやるよ。君達二人で使ってもいいし、じゃんけんでもして所有権を決めてもいい」


 そう言って差し出されたチケットを、紗季と若菜は視線を合わせてどちらが受け取るか空気を読み合う。一先ず、労働者の腕に配慮をして紗季が「えっと、ありがとうございます」と、浮かび上がってくる疑問をいったん置いて、礼を告げた。


 チケットを二人で覗き込むと、入場券、レストランディナーコース、シャトルの貸し切り搭乗等、様々なプランが付随していることが分かった。「おおー」と二人で揃えて感嘆の声を上げた。これは中々、凄そうである。


「本当に、こんなものいただいていいんですか?」

「というか、なんか凄い高そうですけど、誰からこんなの貰ったんですか? もしかして公務員って営業相手から色々貰えたり?」


 若菜が公務員を目指しそうな声色で尋ねるも、水城は呆れたように肩を竦める。


「都立高校の教員が誰に営業をするんだ。それに、そういうものを受け取るのはコンプライアンス的に問題でね。汚職ってやつだよ」

「それじゃあ誰に貰ったんですか?」

「現国の石田先生だ。隣の席でね、歳も近いから仲が良いんだ」


 現国の石田女史とは――きっちりとした性格と表情と、それを表すかのような締まったスーツ姿が印象的な女性教師だ。現代国語の担当教師でもあり、紗季も若菜も世話になったことがある。しかし、浮ついた話を聞かない人なので、まず意外という感想が浮かんだ。


 紗季が小首を傾げる。


「石田先生も、どなたかから譲り受けたんですか?」

「いや、御本人が買っていらっしゃった。十月末の販売開始日に。六万五千円で」

「六万五千!? それじゃ猶更、どうして先生に渡しちゃったんですか? 意外ですけど、石田先生にも良い相手が居るってことですよね?」


 若菜が当然浮かんできた疑問を率直に言葉に起こすと、水城は嘆息をして、どこか物悲しい表情を浮かべる。その表情を見た途端、紗季も若菜も全貌を察した。


 良い相手が居るのではない。良い相手が居たのだ。


「あまり吹聴する話ではないが、釘を刺すためには言っておくべきだろう」


 誰も話を止めなかったから、水城は全てを語ることとした。


「――つい先日に破局したと、一昨日居酒屋で聞かされた」


 紗季と若菜は顔を覆って涙を堪えた。頑張れ石田先生。


「その場で破り捨てるか無償で譲り受けるかの二択を迫られたものでね、受け取るしかなかったよ。それから、これを譲る相手には経緯の説明と伝言を頼まれている――『私の分まで楽しんでください』だそうだ。くれぐれも、教員生徒を問わずに吹聴をするなよ」

「こ、心得ました」


 紗季は決して口を滑らせないようにしようと固く誓う。


 隣の若菜も頻りに頷くばかりだった。


 紗季は手にしたチケットを眺める。曰くつきの物品ではあるものの、価値にして六万五千円のチケット。しかし、自分が使おうなどとは考えられなかった。


 紗季はそのままチケットを若菜へと差し出し、目を開く彼女に告げた。


「私は特に恋人とかも居ませんので、よかったら若菜さんが使ってください」

「え? でも、私だって独り身だよ」

「それでは紅葉さんを連れて行って差し上げてください。時には休憩も大事ですよ、と言葉を添えていただければ、彼女もきっと付いていくかと」


 にこりと笑って伝えれば、若菜は何かを言いたげな表情で紗季を見る。


 しかし、少しだけ悩むような素振りを見せた後に、瞳を瞑って吐息を漏らし、承諾した。


「……分かった。それじゃ、お言葉に甘えて私が貰おうかな」


 そんなやり取りを、水城は何かを言いたげな面持ちで眺めていた。


 しかし、余計な口出しをすることはせず、紗季の選択を尊重する。


 踵を返して、玄関へと向かう。


「円満に決まったようで何より。私はもう帰るから、後は二人で楽しんでくれ。いい肉を買ったんだから、しっかりと味わうんだよ」


 水城は微かに笑ってそう言い残し、紗季と若菜は玄関にて靴を履く彼女を見送った。


「勿論です。先生はお仕事頑張ってください」

「和牛のレポート課題なら受け付けますー」


 まったく正反対な二人の様を見て、水城はその笑みを深くした。

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