第15話

 それから一週間後、十二月十八日の日曜日。決行日を迎えた。


 紗季は冷える室内でそわそわと、落ち着きなく片付いた部屋を見回す。壁の時計を何度も確認して、予定の時間を待ち遠しく思えども、時計の針は一向に進まない。クロノスタシスを実感しながら、ソファの上でジッと待っていると、不意に不安が襲ってくる。


 普段は来客など無いから気付かなかったが、もしかして、このアパートのインターフォンは壊れているのではないだろうか。思い立ったが最後、確認せずには居られずに紗季は立ち上がる。そうして短針が十一を示した時、家のインターフォンが鳴らされた。


 思わず立ち止まった紗季は、自分を恥じるように胸を撫でおろしながら、スマートフォンを確認。『着いたよ!』の文字列と可愛らしいイラストアイコンのメッセージが届いている。


 紗季は慌てて玄関へ向かい、途中、洗面所で鏡を確認する。


 寝癖は直した。おかしな部屋着でもない。「よし」と。


 覗き窓で確認をして、速やかに開錠をして扉を押し開けた。


 冷気に絹のような金髪を揺らして、コートにマフラーと厚着をして、頬をほのかに赤く染めた若菜がそこに立っていた。彼女は大きく膨らんだリュックを背負い、片手には買い込んだ食材を。満面の笑みを浮かべながら、空いたもう片方の手で手を振った。


「お邪魔しまーす!」

「はい、いらっしゃい」


 先日は水城にあんな苦悩を打ち明けておきながら。


 単純なもので、彼女の顔を見た途端、紗季は自分の頬が緩むのを感じた。




「いやあ、本当に寒いね。夜とか大丈夫? 風邪ひかない?」


 若菜はワンルームの寝室兼リビングの六畳間に所狭しと並べられた、中古の書籍や水城のお下がりソファ、テーブルを見ながら尋ねてくる。紗季は彼女が取り出した鍋をコンセントに繋ぎながら、「慣れてますからね」と簡単に応じて見せる。


 鍋の準備を終えた紗季は、彼女からコートとマフラーを受け取って壁に掛ける。


 「さみー」と腕を擦る彼女に防寒着を返そうかと視線を向けるも、彼女は笑い、リュックの中から電気毛布を取り出した。


「じゃーん、電気毛布を持ってきました! 買い替え予定なのでこちらはあげます!」

「わっ、凄い高級そうな毛布ですね。本当にいいんですか?」

「気にしないで、もし仮に買い替え予定が無くても、友達がこんな雪国で暮らしてたらプレゼントの一つもしたくなるもん。あ、でも今日は一緒に使わせてね」


 彼女は近くのコンセントに電気毛布を繋げながら笑う。こんな寒い部屋で、更に元々は彼女の所有物。断る理由も道理も無くて、紗季は「勿論です」と苦笑をした。


 随分と小綺麗で新品同様の、肌触りが良さそうな毛布だ。それも、かなり大きめで掛布団としても使えそうなサイズである。


 彼女は電気毛布をソファに乗せ、テーブルの上のグリル鍋を覗き込む。


「さて、鍋パだよ、鍋パ。寒い冬には鍋なんだ」

「彼の正岡子規も『鍋』を冬の季語としましたからね」


 二人で覗き込み、それから買ってきた食材を机の上に並べる。


 紗季の袋には白菜、葱、豆腐、豚肉、肉団子にえのき。


 若菜の袋には鶏肉や牛肉、椎茸や大根が入っていた。


 何も示し合わせず、『取り敢えず買いたいものを買おう』という話が進んだ結果、見事に被ることが無かった訳だ。しかし、愚かにも若菜のグリル鍋は全ての具材を飲み込むには少しだけ小さすぎた。せいぜい、この七割程度しか収容できまい。


 二人で顔を見合わせ、紗季はグリル鍋の鍋部分だけを持ってキッチンへ。


 紗季は手早く白菜や肉を切って鍋に詰めていき、その手際の良さを感嘆の眼差しで眺めながら、若菜は傍らで珈琲豆と紅茶の茶葉、そして器具を取り出す。そして、紗季に並行して飲み物の準備を進めながら、若菜はぐるりと部屋を見回す。


「しかし、尋ねていいのか分からないけど……お家賃はお幾らで?」

「三万円です」

「なるほど納得だ。これなら都内で三万円だ」


 田舎寄りのワンルームとはいえども、東京都内で駅から近く交通の便は良いこの一室は、それくらいの金額なら妥当なのだろう。明らかなボロ屋に、若菜の「建築基準法とか大丈夫なのかな?」という呟きに、紗季は「しっかりと耐震基準を通過しているそうです」と笑う。


 紗季は諸々の食材を敷き詰め終え、それでも尚、残っている食材を冷蔵庫へと置いておき、片手鍋で昆布だしを取りながら具材だけ入った鍋をテーブルのグリル部分にセットする。


 ふと、若菜がぼんやりと紗季の部屋中を見回していることに気付く。


 まだ気になることでもあるのだろうかと視線を返せば、彼女は難しい表情を浮かべる。


「こういうの、あんまり聞くことじゃないのかもしれないんだけどさ」

「……? なんでしょうか」


 穏やかに笑って応じた。


 他人が本気で嫌だと感じることをする人間ではないことは知っている。


 通例や一般論で聞くべきでない事柄でも、徒に知ろうとしている訳でないことは分かる。


「……紗季ちゃんの家族はどこで暮らしてるの?」


 紗季は沸騰し始めようとしていた鍋から昆布を取り出そうとして、その動きを止める。


 脳裏を過ったのは、刑務所に居る父親。次に、自分を引き取った叔母家族。


 その表情は微かに強張り、若菜はその表情を見ても疑念を止めない。


 湧きたつ鍋の音だけが静かな部屋に漂う。


 口火を切ったのは、紗季を案じるような顔をした若菜だった。


「諸事情で一人暮らしっていうのは聞いてたけどさ、こういう環境で家賃とかも自分で払って――断じて見下したり同情をしたりって訳じゃないんだけど、苦しいでしょ、生活」


 いつものように取り繕った笑顔で上っ面の障りの良い言葉で誤魔化して――そういったことをさせないように少しだけ強い口調を遣う。段々と自分のことも理解されてきたんだろうと考えながら、紗季は重たい表情で鍋に箸を伸ばし、昆布の代わりに鰹節を入れた。


「人様の家族に酷いこと言う権利なんて無いから、言葉は選ぶよ。だけど、この環境は普通じゃないよ。喧嘩してこういう環境になったなら、『早く仲直りできるといいね』で済むんだ。でも、紗季ちゃんはそういう風には見えない」


 若菜は心の底から紗季を心配するようにそう告げる。


 彼女の心配は有難く、その気持ちは骨身に沁みるようだった。そして、自身を引き取ってくれた叔母家族を悪く言わないでくれる彼女の配慮にも頭が上がらない。しかし、だ。家を追い出された身とはいえ、麻薬中毒の殺人犯の娘を家に置いておきたくない気持ちは重々承知だ。紗季と近い年頃の娘も居るのだから、猶更だろう。


 それを知らない彼女の気遣いも道理で、それを知る叔母家族の判断も道理だ。


 道を踏み外したのは紗季の父親で、この生活はその皺寄せに過ぎない。


 何よりも彼女の家族を殺めておきながら、他でもない彼女に配慮は貰えまい。


 紗季は少しだけ難しい表情で黙るも、それでも笑みを作って誤魔化した。


「ご心配、ありがとうございます」


 否定も肯定もしない。彼女の配慮には感謝をして、けれどもその内容には決して触れない。


 笑顔を浮かべた紗季の返答が、これ以上、この話を掘り下げてほしくないが故のものだと彼女は悟ったようだ。物言いたげに押し黙って、やがて、何かを言おうと口を開きかける。しかし、そんな自分を戒めるように彼女は自身の両頬を引っ張って「うに」と唸る。


 手を離し、赤くなった頬を擦って渋々と納得した。


「……聞かないよ」


 彼女には言えない。これが、ただの友人だったら或いは、泣き言の一つや二つは言ったかもしれない。けれども彼女に伝えることだけはできない。元を辿れば彼女の家族を殺めたことに繋がり、そんな身でありながら泣き言など言えよう筈も無い。


 紗季が微かに笑って「ありがとうございます」と謝意を告げた時だった。


 穏やかな空気を切り裂くようにインターフォンが鳴らされた。


 若菜は意外そうに目を丸くして玄関を見る。


「他に誰か呼んだの?」

「いえ、そんなことは……誰でしょう」


 紗季は来客に心当たりが無く、小首を傾げながら玄関へと向かった。


 そういえば、水城には日時も含めて話したが、彼女だろうか。


 ふと覗き窓を見て、紗季はその思考が間違いであることを知る。


 扉の奥には見知った女性が立っていた。紗季は「……家族です」と一言だけ添えて、表情を引き締めながら鍵を開けた。キッチンから様子を窺うような視線を若菜が向けてくる中、来訪者は素早く扉を開ける。


 立っていたのは、ほんの少しだけ紗季に似た面影を持つ三十代程度の女性だ。


 綺麗な黒髪を伸ばしたパンツスタイルで、手荷物は無い。


 その姿は非常に若々しく、中には二十代かと勘違いする者も居るだろう。


 表情はまるで路傍の石を眺めるように無機質で、その無感情の奥には密かな紗季への嫌悪感が存在した。明らかな悪感情を瞳に、彼女は紗季を見る。


「お久しぶりです、真尋さん」


 紗季が挨拶をするも、真尋――そう呼ばれた女性は挨拶など返さずに紗季を見る。


 ふと、濁った雰囲気を心配そうに見ていた若菜に気付いた彼女は、紗季にしなかった会釈を一つする。若菜は「お、お邪魔してますー」と笑みとお辞儀を返した。しかし、それ以上彼女に言及をすることもなく、面倒そうに本題を切り出した。


「最近、随分と羽振りがいいみたいだから何か怪しいことでも始めたのかと思ってね。この辺りに来る機会があったから、ついでに顔を出した」


 まったく『会いに来た』という意図を感じさせない口ぶりに、若菜が表情を曇らせた。


 真尋は紗季の肩越しに不躾に部屋を覗き込んで、怪しいもの、とやらが存在しないことを確かめる。羽振りがいい、という言葉の意味は理解できなかったが、紗季は少しだけ考えて得心する。彼女は正確には紗季の後見人という形式になっている。


 家賃や光熱費といった生活費の類は自身の口座から引き落としにしているのだが、紗季はかつて家に居た期間の養育費を、彼女の口座に振り込むことで少しずつ返しているのだ。


 紗季は彼女の疑念を払拭するため、腰を折って低い姿勢で伝える。


「新しく家庭教師のアルバイトを始めました。以前より収入が増えたので、口座への振込額を少しだけ増やしています」

「家庭教師……? へえ」


 真尋は不躾な視線をそのまま若菜へと投げると、む、と敵対心を仄かに匂わせた若菜が視線を返す。この数刻の話を聞いて彼女の人柄を理解し、自分に向けられている視線の意味にも気付いたのだろう。彼女は善良な人柄だが、それは口が無いことと同義ではない。


 産毛が逆立つような緊迫感の中、真尋は鼻を鳴らして視線を紗季へと戻した。


 用件はそれで終わったのか、彼女は半身ほど振り返ってノブに手を置く。


「まあいいわ、あの人みたいに変なことしてないならそれでいい。お願いだから、二度と私達に迷惑を掛けるような真似だけはしないでね――真っ当に生きて、真っ当に死んで」


 突き刺すような、凍てつく冷めた目で紗季を射抜いた彼女の言葉は、若菜から温もりを受け取って温かくなっていた心に氷を刺す。紗季は「……はい、承知しております」と絞り出すような声で謝罪をする。


 そんな紗季の殊勝な態度を見て、満足そうに真尋は去っていこうとする。


 しかし、その背中を呼び止める者が居た。


「ちょっと。待ってくださいよ」


 紗季の前に塞がるように立ったのは、確かな怒気を表情に宿した若菜だった。「若菜さん!」と紗季が制止をするも、彼女はそんな紗季を手で抑え、真尋と睨み合う。


 彼女の制止の声に真尋は眉を顰めながら振り返り、面倒そうに溜息を吐いた。


「何?」

「どういう事情があるのかは知りませんけど、『死んで』っていうのは駄目でしょう」

「どういう事情があるのか知らないなら、口を挟まないでもらえるかしら。ウチにはウチの事情がある、人様の家庭に口を出せってご両親に教わったの?」

「生憎、友達が困っていたら助けろ――って教わりました」


 芯の宿る力強い瞳で反論された真尋は、怯んだように面食らう。


 若菜は畳みかけるように言葉を続けた。


「紗季ちゃんの経済状況とか、どうして振り込んでるのかとかは聞きませんよ。でもね、こんな一人暮らしで大変そうにしている家族に掛ける言葉はもう少し選びましょうよ。貴女、紗季ちゃんとどういう関係なんですか?」

「……叔母よ」


 実母ではなく叔母。その言葉を聞いた若菜は眉を寄せ、その意図を汲もうと思案する。


 彼女は紗季の父親が殺人犯であることを知らない。母親が病没し、叔母が後見人になったことを知らない。そんな若菜の反応を見て、真尋は「ああ」と得心したように呟く。


「その子から何も聞いてないのね」

「……何の話ですか?」


 まずい、と脳が警鐘を鳴らす。ここで全てが露呈するのは最悪だ。


 彼女が自分を庇ってくれたのに、その行為の客観的な善性を損なわせてしまう。何よりも、乗り越えた遺族の足と後ろ髪を引くような行為だ。それだけは避けなければいけない。彼女が自分を庇ってくれるのは嬉しいが、紗季にとって、最優先は若菜だ。


「若菜さん」


 静かに紗季は若菜を呼び、彼女の袖を掴む。


 振り返った彼女に、紗季は申し訳なさそうに笑う。


「……ありがとうございます。大丈夫ですから」


 彼女は、優しい。そして、紗季の選択を尊重してくれる。


 今、真尋によって『紗季が隠している聞かれたくない事実』が確かに存在することを教えられた。それがどんなものであるか、気にならない訳が無いだろう。


 それでも彼女は質問の言葉を飲み込む。しかし、どこか寂しそうに瞳を伏せてから真尋に向き直った。


「……すみませんでした」


 若菜が頭を下げると、真尋は忌々しそうに舌打ちをする。


 それでも若菜は頭を下げ続け、真尋はそんな彼女を見て鼻を鳴らしてから、扉を蹴るようにして開ける。そして、そのまま玄関から出て行った。


 しばらく若菜は頭を下げ続け、紗季は真尋の去って行った扉を眺めてから、自分の前に立ち塞がってくれた友人の背中を見る。――そして、胸が締めつけられるような苦しみを覚える。彼女は自分の為に立ち上がってくれて、自分はそんな彼女に隠し事をして。


 父親のことは、彼女を傷付けまいと隠した過去だ。


 それでも、彼女には言わなければいけないのではないか、と。言うべきなのではないかと心が揺らいだ。紗季は眉尻を下げ、震える喉を、生唾を呑んで宥める。そして。考えも纏まらないまま、沈黙を破るように口を開いた。


「あの、若菜さ――」

「――大丈夫だよ」


 若菜は全てを聞くことはせず、振り返りながら紗季の言葉を遮る。


 屈託のない笑みを浮かべた彼女は、打ち明けるか否かの狭間で葛藤する紗季を安堵させるように、落ち着いた声で繰り返した。


「聞かないよ」


 醜くも、島津紗季はその言葉に甘える以外の選択はできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る