第14話

 それは、帰路での出来事だった。


 若菜と別れ、電車を降りて。


 駅周辺の飲み屋や店が連なる人工的な輝きと、そこに集う明るい喧騒の中を縫って自宅へと向かう。若い少年少女が騒いでいる様を一瞥、サラリーマン達が居酒屋から顔を覗かせる様を見る。光は段々と後ろへと行き、次第に紗季を照らすのは街灯と自然光だけになっていた。喧騒も遠くに消え、時折、車が傍を駆け抜けていく音だけが響く。


 ふと、自宅へと向かっていた紗季の携帯電話が震える。自身の番号に電話を掛けてくる人間など限られている。若菜か、水城か。若菜だとすれば忘れ物の話だろうが、水城の場合は予想が付かない。


 携帯電話を取り出して画面を見れば、そこには『嘉悦水城』の文字があった。


「もしもし、紗季です。こんばんは」


『ああ、夜分遅くに悪いね。今は大丈夫か?』


「ええ、帰り道の途中です」


 交通に気を付けながら応じる。水城は素早く用件を切り出した。


『現況を聞こうと思ってね。仮にも手引きした手前、知る義務がある』


 なるほど、と胸中で呟いて得心する。確かに、彼女は引き合わせるだけ引き合わせて、無責任に放り投げるようなことをする人間ではない。


 少しだけ言葉を選ぶように、夜の道をゆらりと歩きながら束の間、星を仰ぐ。


 冬の空気は冷たく澄んでいて、肺がそれを取り入れれば、脳の膿と熱を奪っていくような感覚がした。


「紅葉さんの授業は順調です。彼女の元々の志望校は既に楽に合格できるかと――後は、彼女がどの程度までを目指すのか、次第です。彼女と話し合い、物理に重点を置くことに」


『どうやら、若菜とは大分と違うようだね』


 彼女は小馬鹿にする訳でもなく、どこか懐かしむようにそう笑った。


「それと、今度、私の家で若菜さんと鍋パーティーなるものをすることに」


 告げれば、通話の奥で驚いたように息を呑む音が聞こえた。少し経ってから、嬉しそうな声色で『そうか』と彼女が相槌を打つ。


 紗季も馬鹿ではない、彼女がこの変化を喜んでくれていることは分かる。


 しかし、紗季にはどうしても拭えない葛藤が存在する。胸の奥深くに、細く強靭な糸を引いて突き刺さる楔が存在するのだ。掻き毟るように胸を押さえ、疼くような痛みに呟く。


「彼女は私のことを『友達』と呼んでくれました。私も、彼女を『友人』と呼びました」


 きっとこの関係は『友人関係』と呼称することができるものだろう。


 しかし、それだけではない。この関係を示す言葉は、他にも多く存在する。そして、若菜は紗季にとって『償うべき相手』であり、若菜にとって紗季は『父親を殺した人の娘』だ。それを隠したまま何食わぬ顔で友人として接する。


 それは、許されていい行為なのだろうか。


 紗季の言葉を聞いた水城は、喜ばしいことだと讃える。


『良いじゃないか。彼女のような人間は稀少だ、良き友人関係になれるだろう』


「彼女の父親を殺したのが私の父だと、それを隠したまま……ですか?」


 嫌味を言うつもりでは無いが、このままでは、水城はその話題に触れようとはしない。自分達の関係の変化をそのまま受け入れさせようとしてくるだろう。彼女は、考え込まなくてもいいことだと言ってくれるが、紗季にはそれが受け入れられない。


「ここ最近、悩んでいます。私は自らのことを隠したままでいいのか――しかし、告白することは正しいのか。水城さんの仰った言葉は全て事実だと思います。私は、私の背負う荷物を下ろすためだけに、乗り越えた過去を掘り返して付き付けようとしているんです」


 紗季は立ち止まり、人工灯と自然光を仰いで唇を噛み締めた。


 額を押さえ、前髪をくしゃりと掴む。悲痛に歪めたその表情は、紗季が今まで誰にも見せたことのない苦悶の表情であった。


「不誠実な沈黙と身勝手な告白、どちらが正しいのか分からないんです。水城さん……私に、彼女の友人を名乗る資格はあるのでしょうか」


 震える声で絞り出される弱い本音を聞くことのできる人間は、この地球上には彼女しか存在しない。嘉悦水城は静かに紗季の言葉を聞いていた。話を聞き終えてからも数秒、何かを考え込むように沈黙して、やがて、語り出す。


『もしも君が加害者であったのなら、君には告白をする義務があった。でも君は、そうじゃない。君にはどうしようもない出来事であり、君が謝罪をすべき事案でもない。権利――という話をするのなら、紗季。先ずは自己否定を止めるべきだ』


 きっと彼女の言葉が正しくて、自分が間違っているのだろうということは漠然と理解できた。だからこれは、感情の問題でもあるのだろう。紗季はこんな自分を許せない。


「それでも私のことを知れば、きっと私に対する認識が変わります。結局私は、糾弾されることを恐れて、自分の為に黙っているんじゃないかと思ってしまうんです」


『君がそういう人間じゃないことは私が知っているよ』


「私は知りません。私は……自分が酷く醜い人間だって思っています」


 暗い表情で断言をする紗季に、水城は紡ぐ言葉も無く押し黙る。


 しばらく、遠く離れた二人の間に静かな時間が流れる。


「……すみません、水城さんに八つ当たりをしてしまいました」


『いや、いいさ。吐き出して楽になれるなら、好きなだけやれ。君の気持ちを考えず、半ば無理やり筑紫家に引き合わせたのは私だ。……こうなるなら、黙っているべきだったな』


 それは違う、と訂正をしたかった。彼女が居たから今の自分が居ると思っている。それくらい、自分にとっては掛け替えのない幼馴染で、恩師なのだ。しかし、実際、他でもない自分の現状が彼女の言葉を肯定している。


『すまない、紗季。私は君の疑問や葛藤に答えを出してやれない――私は、逃げても構わないんだという最も楽な道しか提示できないんだ。もしも君が茨の道を進むなら、私は傍で支えることしかできない。答えを教えることも、手を引くこともできないんだ』


「いえ……それだけでも、とても有難いです。本当に、本当に水城さんにはいつも、お世話になってばかりです。助言に耳も貸さない私に、いつも……いつも」


 感謝と謝罪の念が尽きない。紗季は思わず言葉に詰まらせる、気を抜くと彼女の温かさに涙をこぼしてしまいそうだった。そんな紗季に、水城は優しく語る。


『辛くなったらいつでも電話をしていい。いつでも聞いてやるから』


 一つだけ、粒が頬を伝う。紗季は袖でそれを拭い、冬の乾気にそれはすぐ消える。


「はい。ありがとうございます。今日はもう……大丈夫です」


 少しだけ勇気と元気が湧いてくる。胸に深く突き刺さった楔が緩んだような気がした。


『そうか、それじゃあ切るよ。おやすみ』


「はい、おやすみなさい」


 ツー、と携帯電話が無機質な音を鳴らす。


 紗季はそれをポケットにしまうと、酷く冷えた手を口元に当てて息を吐く。冬の夜は寒く、けれども心に宿った熱のお陰で、それも少しだけ我慢できた。

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