第12話
「――うん、凄く順調ですね。数学はこれ以上私から教える必要は無いかもしれません」
「ほ、本当ですか?」
難易度を上げて用意した課題テキストの正答率を確認した紗季は、脱帽の思いでそう告げた。――難関高校の数学過去問題を数字だけ入れ替えて半分。残る半分を様々な高校入試から寄せ集め、紗季なりに煩雑に改変した。結果は、底意地悪く何重にも捻った紅葉の焦燥を誘発するための問題を除いて、全問正解。間違えた一問も単純な掛け算のケアレスミスで、制限時間も一般的なものの七割程度に絞って焦らせた上で、だ。
文句は無いだろう。ここから先は彼女の自主学習で問題ないはずだ。
「後ほど数学の授業を削ってはどうかと葵さんに打診しておきます」
「あ、それじゃあ物理の時間を増やしてほしいです!」
「それは葵さんの匙加減ですね……でも、そうですね。理科は数学よりも難航しているので、試験までは重点的に強化した方がいいかもしれません。仮に授業という形式を増やせなくても、進行度を考慮した課題テキストを余分に用意します」
時間外労働の予告に紅葉は申し訳なさそうな顔をするが、紗季は穏やかに笑って彼女の罪悪感を拭う。彼女への、筑紫家への償いという部分も多い。しかし、彼女のように伸び代のある芽が摘まれるようなことだけは避けたい。「ありがとうございます」と深々と頭を下げる紅葉に、いえいえ、と紗季も頭を下げ返した。
「……正直なところ、物事を根幹から理解しようとする癖は紅葉さんの成長を滞らせています。試験問題を解くのに公式や係数の奥深くまで解析する必要性は薄いですから。でも、それを悪癖と思っては駄目ですよ」
授業の時間が過ぎたのを確認した紗季は、ぽつりと呟く。
紅葉はそんな紗季の言葉に耳を傾ける。
「人々が歴史を学ぶのは、それに意義があると考えているから。成り立ちから考えようとするのはいけないことじゃありません。飛躍に時間が掛かるのは、その分だけ助走をしているからです。紅葉さんは、一度羽ばたいてしまえばもう無敵です」
ぐっと拳を握って激励をすると、紅葉は嬉しそうに表情を明るくさせる。頬を緩めて、そんな様はまるで年相応で可愛らしかった。若菜によく似た満面の笑みを浮かべて、「はい」と彼女は胸を張った。
「試験も近付いてきました。頑張りましょう、私はずっと応援していますよ」
「ありがとうございます! 頑張ります!」
彼女は椅子を立って深く頭を下げ、紗季も反射的に頭を下げ返す。
そうして授業を終え、紅葉はテキストを物理のものへと変える。そろそろ夕食の時間だが、恐らく、食べ終えた後に取り組む予定なのだろう。素晴らしい心掛けだった。
「あ、そういえば――今日、夕食後に姉さんと何かするんですか?」
不意の問い掛けに、紗季は言葉を詰まらせる。疚しいことをする訳ではないのだが、人様の宅で夕食を囲い、挙句には家に邪魔をするなど、家庭教師の振舞いではないだろう。
何より、紗季は彼女達に償うべき立場なのだ。
少しずつ、馴染んで、友愛を抱き始めていた心を締め直すように冷やす。
「姉さんがやけに上機嫌にお菓子とか買い込んで、母さんにも先生を部屋に招くから、と言っていたので。何かするのかなぁ……と。あっ、言いづらいことでしたら全然!」
どうやら、随分と考えていることが分かりやすい性分らしく、紗季の表情を見た紅葉は遠慮がちに胸の前で手を振る。紗季は慌てて弁明した。
「い、いえ! 勝手にお家に居座って申し訳ないと思っていただけです。実は一緒に映画を観ようと誘われまして」
「ああ、そうでしたか」
紅葉は得心したように頷いた。それから思い出したように笑って、呟く。
「前から映画をよく観ているとは思ってましたが、先日お二人で映画を観に行って以降、それが少し顕著になりました。よほど楽しかったんでしょうね」
紗季の前ではそんなことは欠片も匂わせなかった。驚き、目を丸くする紗季。「そうなんですか?」と尋ねれば、紅葉は笑いながら頷いた。
「分かりやすい性格ですから」
確かに、そう難しい性格はしていないだろう。
表情にも言葉にも素直に気持ちを表し、けれども他者は不快にさせない性質だ。微かに笑って、紗季は「そうですね」と呟いた。
「しかし、ご迷惑ではないですか? 頻繁に交遊の誘いが来ているかもしれませんが」
「いえ、迷惑なんてとんでもないです。こちらのスケジュールも配慮してくださっていますし、私も友人が多い訳でもなければ、付き合いが上手な訳でもありません。若菜さんのように、誘いに来てくださる人は有難いです」
「……そう言っていただけると安心できます」
まるでどちらが姉だか分からないが、昼間の若菜の話といい、何だかんだと、姉妹揃って相手を想っているようだ。彼女は安堵したように笑った。
「ああ見えて、けっこう寂しがり屋なので。先生さえよければ付き合ってあげていただけると嬉しいです」
今日の筑紫宅の夕飯は和食だ。魚の煮付けと唐揚げ、そしてほうれん草の胡麻和えとお吸い物。どれも高級料亭で食べる逸品と遜色なく(行ったことはない)、昼間はサンドイッチだけで済ませていた紗季にとって、これらは絶品と呼ぶのに相応しい晩餐であった。
黙々と箸を進めていると、最初に食事を終えた若菜が「ごちそうさまでしたー」と立ち上がって食器をシンクに置いた。
「それじゃあ準備しておくからね!」
満面の笑みで手を振った彼女は、「あ、はい!」と紗季の返事を聞いて部屋へと戻っていく。本当に、楽しみにしてくれているようで、嬉しさの中に少しだけ恥ずかしさを覚える。
「忙しい子ねぇ」
葵は湯呑を手に、そんな彼女を見送った。
再び黙々と食事を進めると、今度は「ごちそうさまです」と紅葉が立ち上がった。
彼女も同様に食器を片付けると、今度は若菜の分も含めて水に浸けておく。
「それじゃあ、私ももう少しだけ勉強をしますので」
「はいはい、根を詰め過ぎないようにね」
「ほどほどに、頑張ってください」
彼女は笑みを浮かべて会釈をすると、自室へと上がっていった。
夕飯は一緒に食べ始めるが、食べ終わりはいつもこんな具合だった。それから二人きりになった葵と紗季。紗季は黙々とテレビを眺めながら箸を進めていく。あまりにも美味しい煮付けに頬を緩めてしまう。
ふと、そんな紗季をジッと見詰める葵の視線に気付く。昼間の既視感を覚えながらも食べ辛さを覚えると、そんな反応に気付いた葵は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、本当に美味しそうに食べてくれるものだから」
「ごっ、ごめんなさい! 食べ方とかおかしかったですか!?」
紗季は自らの不勉強に怯えながら自らの身体を一瞥するが、葵は苦笑しながら訂正する。
「嫌味とかじゃなくて、本当にそのままの意味よ。美味しい?」
「はい! とても、美味しいです」
「よかった」
美味しそうに食べる努力などはした覚えも無かったが、喜んでいただけるのなら幸いだ。紗季は強く首肯して絶品である旨を伝えれば、葵は嬉しそうに笑った。
しかし、紗季は改めて夕飯までご馳走になっている現状を鑑みて、詫びる。
「すみません……いつも夕飯までいただいてしまって」
「こっちから誘ってるんだから迷惑なんて無いわ。それに、私は遠慮して言いたいことを言えないような人間じゃないから、口から出てるのは全て本音だと思って」
恐らく社交辞令でないだろうということは分かるが、それでも罪悪感は拭えない。
「あの……やっぱり、材料費だけでも受け取って頂けると……」
「大丈夫よ。三人が四人になってもそう変わらないし、何よりも娘の勉強を見てもらっていることに感謝したいくらいだから。そうね……紅葉の学力が伸びていることへのボーナスの代わりってことにしてくれれば」
有難い申し出に、紗季は頭も上がらない。深々と頭を下げて「ありがとうございます」と、あふれ出る感謝を言葉に紡いだ。しかし、それでも、結局は紗季を納得させるための方便のようなものと理解して、鬱陶しいだろうと思いつつも食い下がる。
「もしもお返しできることがあれば、遠慮なく仰ってください。尽力させていただきます」
「真面目ねえ、別にいいのに。ああ、でも――そうね」
苦笑をしながら提案を棄却しようとした葵だったが、ふと何かを思い直したように顎に手を添えると、若菜の部屋がある方を一瞥した。
「物事の代わりにお願いするようなことじゃないかもしれないけど、母親として。紗季ちゃんさえよければ、これからも若菜と仲良くしてあげて」
紗季の瞳を真っ直ぐと見据えた葵の言葉に、思わず言葉を詰まらせる。
家庭教師としての雇用主と思いながら接していた彼女の顔が、いつの間にか母親のものに変わっていたのだ。
「客観的に見た上での友達っていうのは多いんだけど、あれであの子、潔癖なの」
「潔癖……ですか?」
「そう、潔癖。『学生』って数十人の男女が一つの括りになって年間を過ごす訳じゃない? そうなると、必然的に嫌悪や嫉妬なんかの悪感情も生まれるし、それを吐き出す人も居る。要は、苛めや陰口っていうのは少なからず存在する」
「……そうですね」
紗季のクラスは女子同士の対立こそあれども、陰湿な苛め行為というものが無いのでまだ過ごしやすい。しかし、中にはそういうクラスもあることだろう。
「あの子は誰かの陰口とか人を傷付ける行為が大嫌いなのよ。よろしくない行為ではあるけど、誰しもある程度は許容や加担せざるを得ない中、それでも拒む。だから、潔癖」
「望ましい形ではある筈ですけども……現実的に悪いものは存在しますからね」
「ええ、あの子もそれは理解しているから、上手く宥めながら過ごしているけれども、とても生き辛そうなのよ。特定の誰かと深く関わるって話は多くない」
なるほど、と胸中で静かに呟く。
彼女は善良な人柄だと思っていたが、それ故にそういうものは好まないのだろう。
納得する紗季の前で、葵は沈殿した茶葉を揺らして溶かす。
「だから、夕飯の度にあの子が貴女の名前を出すのは、そういうことなんだろうな、って」
思いもよらない話を聞かされ、紗季は束の間、言葉を失った。
「……ええと」
「どうやらあの子、紗季ちゃんのこと凄く気に入っているみたい」
葵はどこか嬉しそうな調子でそう告げる。
本人の居ない場所でこんな話を聞いていいのかという罪悪感はあったが、同時に、友情を感じていたのは自分だけではないという証左を耳にして、嬉しいという気持ちもあった。
照れくさくて言葉を紡げない紗季に、葵は笑った。
「私にも分かる。貴女はとても真っ直ぐに生きている。大変だろうなって思うくらい、真面目に、ひたむきに。そして、あの子はそんな真っ直ぐな人に惹かれている」
真っ直ぐに褒められるとどう返事をしていいのか分からず、「……恐縮です」と頭を下げた。しかし、本音のところでは、『そんなことはない』と否定をしたかった。
真っ直ぐに生きているのではなく、そうすることだけが償いだと思っているのだ。真面目でひたむきなのは、そうしなければ自己嫌悪に押し潰されてしまうから。
「そんな人に出会える縁というものはそう多いものじゃない。だから、迷惑じゃなければ仲良くしてあげてくれると嬉しいわ」
確かに、紗季だって若菜のような友人は有難く、かけがえのない存在だと思っている。
寧ろ、こちらこそ頭を下げるべき立場だとも思っている。
だから紗季は、こちらこそよろしくお願いします――そう言って頭を下げようとする。しかし、葵がそっと続けた言葉によって紗季の口は閉じられる。
「きっと、夫も向こうで安心してると思う」
微かに笑って仏壇を一瞥する葵。途端、紗季の臓腑は凍てつく。
表情は強張り――そして、彼女が紗季のことに気付いているのではないかと錯覚する。しかし、表情を見る限りではそういったものとは無関係に告げた言葉のようだった。
筑紫明人が、自分を殺した相手の娘が素性を隠して家に居ることへ、安堵を示すだろうか。そんなことを考え、紗季は段々とその表情を強張らせる。今、ここで。全てを打ち明けるべきだろうか。水城は時と場合を選べと言った。それは、今なのだろうか。
相手が話題に出した時か。それとも、自分が罪悪感に押し潰されそうになった時か。
いつなら、話していいのだろうか。
グルグルと思考が巡って行き、けれども答えは出ない。
しかし、今の彼女の言葉にはどんな理由があっても頷けなくて、紗季は笑みを繕った。
「私は、そんな真っ直ぐな人間じゃないですよ」
一見すれば謙遜のような言葉を聞いて、葵はそう解釈したらしい。「どうだか」と笑った。
真面目で、ひたむき。そう見られるように生きることと、そうであることは全く別の話だ。
紗季は、自らのことをいつ話すべきか、それとも告白しないべきか。葛藤を抱きながらも、それを表には出さないように気持ちを切り替える。
少しの談笑の後に食べた魚の煮付けは、それでも、とても美味しかった。
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