第11話

 一か月が経過した。初冬も少しずつ真冬へと歩み寄っていく。


 紗季は昼食時間にて、サンドイッチを片手に授業用のテキストを確認する――少しずつ入試に近付いてきたこの時期だが、紅葉の習熟度は滞りなく進んでいる。元々に想定していた志望校は、この世に絶対など存在しないという観点から『ほぼ確実』と紗季は考えていた。


 だが、彼女は『行けるところまで行こうと思っている』と言った。だとすれば、彼女の家庭教師として、そして彼女の父親を殺害した者の家族の償いとして、それを満足いく形で成就させなければいけない。


 ――忘れるな。私は加害者の家族なんだ。


 胸に刻み付けるように胸中で呟いて、テキストの難易度を少しだけ上げることにする。彼女は打てば響くだけの地力の高さがある。きっと、可能だ。スマートフォンの編集アプリを開いて書き換え、今日の家庭教師のバイト前に印刷しようとメモもする。


 その時、昼食の談笑に支配された教室の扉が開く。紗季を含めた何名かが視線を向け、その大半が視線を戻す中、紗季だけはその人物に視線を注ぎ続けた。入室者の女生徒は、離れた場所で友人と動画を見ている女生徒に手を上げた。


「しーちゃん、椅子借りていい?」

「いーよー」


 クラスを跨いでも勝手知ったる間柄なのか、紗季の前の席であるしーちゃんこと篠原女史に確認を取った若菜は、弁当を紗季の机に置いた。


「やっほ。一緒に食べよ」

「ええ、是非――しかし、今日はご友人と一緒じゃないんですね」


 一緒に映画を見てからというもの、彼女は週五日の学校での昼の内、二回を紗季と共に過ごしている。月曜日と木曜日、自身のクラスの友人に断りを入れてこちらに来てくれているとのことだった。しかし、今日は金曜日だ。


 彼女は弁当の包みを広げながら頷く。


「今日は紗季ちゃんと話したい気分だったんだ。あ、それ紅葉用のテキスト?」

「ええ、最終確認中です。先程、少しだけ課題の難易度を上げたところです」

「どう? 紅葉は。合格できそうかな、私に何か手伝えることとかある?」

「元々の志望校は現状でもほぼ確実に合格すると思います。後は彼女がどこまで目指すかですね……我々の出る幕ではないかもしれません。しかし、偏差値や前年度の過去問題の突破率から勘案すると、偏差値七十以上の高校も視野に入れてもいいのかな、と」


 先日に葵へと報告した内容をそのまま語れば、彼女は口に入れようとしていた唐揚げをそのままに、目を見開いた。「な、七十……?」と驚愕の声が漏れる。紗季は実姉を差し置いて我がことのように誇らしく思いながら、笑って語る。


「彼女、かなり頭がいいですよ。文系科目に限れば難関高校の合格も現段階でほぼ確実。理数系は物事の本質や肝から解釈しようとする癖が災いして引っ掛かることが多いですが、理解すれば独擅場、今まで一度も詰まってないです」


 紗季が事実を並べると、若菜の表情が驚きに染まっていく。


 そして、彼女は何とも複雑そうな表情で腕を組んだ。


「アイツ、そんなに頭が良かったのかぁ……」

「ええ、所謂『天才』なんだと思います。それで、『努力家』ですから」

「むむむ、姉の威厳というヤツが」

「そんなこと言ったら、私だって先生の威厳が無いですよ」


 共に偏差値六十と少しの高校だ。一般的には高学歴と言われるレベルなのかもしれないが、単純なステータスだけを見た場合には、彼女の入学校次第では教えを乞う側になりかねない。紗季は寧ろそれを望んでおり、なんだかんだと、姉である彼女もそのようだ。


「……まあ、今の内にバイト代を溜め込んでおくかぁ」


 今までの話とどういう繋がりなのか理解できずに首を傾げる紗季。「なんの話でしょうか?」と尋ねれば、彼女は苦笑をしながら告げる。


「欲しがってるレコードがあるんだ。プレミア付いててさ、七万くらいしたかな? 中学生でバイトもできないし、しょうがないから合格祝いに買ってやろうかと」


 何げなく語って肩を竦める彼女だったが、その貌は紛れも無く筑紫紅葉の姉のものだった。仲が良いのか悪いのか、普段の会話では判別が難しかったが、二人の間に姉妹の絆があることは確かで、紗季はそれが羨ましかった。


「素敵なお姉さんですね」

「そんなこたーないよ。勉強教えられなかったし」


 彼女は情けなさそうに苦笑とため息をこぼした。


 紅葉の課題を確認し終えた紗季は昼食を再開する。サンドイッチを咀嚼する紗季だったが、ふと、眼前の若菜はそんな紗季をマジマジと見詰める。あまり過敏な性格をしているとは思っていないが、こうも直視されると食べづらいというものだ。


 少しの恥ずかしさに頬を微かだけ染めて首を傾げれば、彼女の視線が自分からサンドイッチに移るのを確認する。今日の昼食は八枚切りのパン二枚で作ったサンドイッチ二つ。具はレタスとマヨネーズのみ。若菜は、ス――、と自身の弁当を差し出した。


「……食べる?」


 申し訳ない限りだった。日頃より筑紫宅で夕飯を頂いている手前、紗季には昼食まで貰うという選択肢など選べない。普段はもう少しマシな食事をしているのだが、昨晩は遅くまで紅葉の課題を練っていた都合上、朝に少し寝坊をしてしまったのだ。


 この質素な食事はそのせいであり、自己管理の甘さが招いたことともいえる。


「いえ、これは……朝食が多かっただけです」


 勿論、寝坊をしたなどという話をするのは恥ずかしいので、紗季は適当な嘘で誤魔化した。若菜は「ふーん」と半信半疑といった様子だったが、これ以上は疑うことも無く食事を再開しようとして、ふと、思い出したように手を叩いた。


「そういえば紗季ちゃん。今日も夕飯食べていくでしょ?」

「……ご、ご迷惑でなければ」

「あ、いや迷惑とかそういう話をしたい訳じゃなくてさ。いつもは食べたら帰ってるけど、よかったらその後も少しだけ家に残れたりしない? 明日、土曜日だしさ」


 紗季は明日の予定を思い出して、しかしその予定は多少の夜更かし程度なら影響しづらい午後のものであったと思い直す。それから、頷いた。


「ええ、可能ですけど……何のご用件でしょうか?」

「映画見放題のサービスに前から観たかった映画が登録されたんだ。私の部屋にテレビがあるからさ、繫いで一緒に見ようよ!」


 ビデオ・オンデマンド――月額契約制で、登録タイトルを見放題という映画好きには垂涎もののサービスだ。紗季は経済的な事情で契約していないが、やはりというべきか、若菜は契約しているようだ。


 紗季は翌日午後に予定があったことを思い出し、しかし翌日に影響を及ぼすほど拘束される訳ではないだろうと思い直す。それに、こうして昼食で会いに来てくれるような相手の誘いを無下に断るのも嫌だった。紗季は軽く頷いて少しだけ笑った。


「葵さんたちにご迷惑でなければ私は構いませんが――紅葉さんに断られましたか?」


 先日のやり取りを思い出して笑っていると、若菜はぶすっと頬を膨らませた。


「違いますー! 誰かの代わりじゃありませんー!」


 不貞腐れたように弁当を食べ始める彼女だったが、家に寄るついでとはいえ、こうして誘ってくれたことを嬉しく思って笑った。「ごめんなさい」そう言いながらも笑みを浮かべる紗季を不満そうに若菜は見ていたが、しばらくして、彼女も笑った。

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