第10話

 映画館を出る頃には、外も冬を体感させるような本格的な寒さをしていた。


 帰りは筑紫宅に寄ることも無く直帰をする。駅でお別れだ。その時間を惜しむように、駅までの夜道を二人でゆっくりと歩きながら、先程の映画の余韻に浸る。


 互いに考えるものがあったようで、会話はずっと取り留めのないものばかりだった。しかし、若菜は自分の考えがまとまったらしく、小さな溜息と共に笑った。


「面白かったね」

「……はい。とても」


 とても考えさせられる作品だった。特に、自分のような人間にとっては。


「誘ってくださってありがとうございました。とても楽しかったです」

「こちらこそ、来てくれてありがとう。凄く楽しかった」


 若菜は笑みをこぼして、自分との時間をそう評する。少しだけ、嬉しかった。


 ふと、若菜はその笑みに微かな陰りを落として、小さく呟くように訪ねてきた。


「さっきの映画――紗季ちゃんはどう思う?」


 不意の質問だった。彼女は、その意図を続ける。


「ジョージは元妻の両親には許されたけど、その他大勢には依然として殺人者として軽蔑されてた。当然のことだとは思うんだけどさ、人を殺してしまった人は、そのまま大勢に許されないものなのかな。許されないのが普通なのか、って」


 不意の問い掛けは、まるで紗季のことを見抜いているかのようだった。


 けれども、そんな訳がないことは理解している。


 彼女の立場であれば、そんな疑問も浮かんでくることだろう。――許せる筈がない。自身の父親を殺めた人物を、許したいとは思わない。そして周囲もそれを許さない。そんな状況をあの作品では『現実的だけど悲しい行為』として描いていた。


 だから彼女も不安になってしまったのだろう。


 だが、そうじゃない筈だ。人を殺すという行為こそ、最も悲しい行為だ。そして、それを否定し、それに怯える行為は何も間違っていない筈なのだ。それに義憤を覚えるのも、きっと正しい筈なのだ。――少しだけ眩暈を覚えながら、紗季は語る。


「盗んだものは、返せます。暴行は、相手が生きていれば償うことができます。それらは結局、相手が許すことで完結するんです。でも、殺人は――償うべき相手をこの世界から追放する行為です。死者は決してこの世界に帰らず、元通りなんて絶対に起こり得ない」


 声が熱を帯びていく。少しだけ、語気が強くなった。


 代わりに、少しずつ胃が捻じれていくような吐き気を催す。紗季は反射的に口を押さえて、喉までせり上がってきたポップコーンを嚥下する。言葉に詰まったのだと誤魔化して、眩暈の中で自らの考えを語る。


「罪は死ぬまでその背を追いかけます。そして、それを取り除けるのは被害を受けた人だけ。だから殺人は、決して誰にも許すことのできない行為で、その行為を働いた人を周囲が許せないのも、仕方がないことだと私は思っています」


 そっと、自らの首を絞め殺すように言葉に力を入れた。


 ――だから、安心して私と父を憎んでほしい。


 そう胸中で伝える紗季だったが、若菜は真剣な表情だった。


「なるほど……そういう考え方もできるね。確かに、もう絶対に元には戻らないものを償うのは難しいよ。傷は癒えるかもしれないけど、無くなったものは戻らないもんね」

「若菜さんは、違う考え方なんですか?」


 若菜の口ぶりから察するに、彼女は別の思想を持っているようだった。


 彼女は吐息と共に空を見上げた。




「私の家って父親居ないじゃん? 実はさ、八年前に殺されたんだ。麻薬中毒の人に」




 そっと紡がれた言葉を聞いて、紗季は絶句して目を見開く。


 眩暈と頭痛が酷くなった。口が謝罪を伝えようと開きかけて、寸前に留まる。


 知っていた事実だ。確信を持っていた。けれども、確かに今、目の前の彼女からその事実を伝えられたということに対して、全身が凄まじい罪悪感に押し潰される。重圧が胃を絞り上げて、紗季は胸をかきむしるようにそれを堪えた。


 驚きと苦しみを表情にする紗季に、若菜は慌てて笑みを浮かべた。


「あ、ご、ごめんっ! 急に変な話をしちゃって――別に同情とかを求めてるわけじゃないから、昨日の夕飯の話を聞く感じで聞いてほしいんだけど」


 とは言うが、そんなことをできる道理もない。


 この胸にあるのは同情なんかじゃなくて、贖罪の炎に煮詰まった罪悪感だけだ。今、目の前に、その麻薬中毒の娘が立っている。彼女はそれを知らない――その事実が、余計に紗季を苦しめた。


「でね、殺した人はまだ服役してるんだけど……正直なところ、私は許せる自信が無いんだ。子供の頃は憎かったけど、大きくなったら変わるかなって思ってた。変わらないもんでさ、依然として胸の中には燻る怒りがあるんだ」

「……当然のことだと思います」

「だよね! だってさ、自分を生んでくれた親だよ? 七歳の時に死んじゃったから、そりゃ母さんに比べれば思い出の数も少ないけど、凄く良い人だったって覚えてるんだ」


 絞り出すようにして肯定をする紗季と、思い出を語る若菜。


「何よりも私達を優先してくれていた。それに、その麻薬中毒の人って職場の同僚だったらしいんだけど、様子がおかしいことの相談に乗った時に殺されたって聞いた。結局、最後まで誰かの為に行動できる人だった。自慢の父さんで――だから私は、許せる自信が無い」


 そう。それが当然だ。そう胸中で一人呟く紗季だったが、「けど」と若菜は続ける。彼女は自分に呆れたような笑みを浮かべながら、紗季を見て告げた。


「それでも、たった一人でもいいから、その人が出所した時には、エドのように迎えに来てくれる人が居てほしいんだ。私だって何かの間違いで人を殺してしまうかもしれない。だから、できるなら、そういう世界であってほしいんだよね」


 紗季はそんな彼女の言葉に絶句してしまう。


 彼女は――いちばん辛いだろう被害者遺族の彼女が、加害者のことを気遣っている様に、何も言うことができなかった。


 自分が自分の償いで精一杯になっている時に、彼女はそんなことを考えていた。紗季は何か気の利いた相槌の一つもしたかったが、それでも言葉は出てこずに押し黙る。


 しばらく黙って、紗季は相槌ではなく心の奥底の膿から湧いた疑問を言葉にした。


「それでも、もし誰も――家族さえ、その人を許そうとしなかったらどうしますか? 誰一人として、彼を許さなかったら……普通はきっと、そうなるでしょう」


 紗季は彼の味方だ。そして、その償いの手伝いもしよう。


 だが、同様に当事者である紗季は彼に『もう自分を許していいんだよ』なんて言えない。紗季は彼を許せない。だとすれば、果たして誰が彼を許せるのだろうか。


 抱いた疑問を共有すれば、若菜は難しそうな顔で「うーん」と唸る。腕を組み、数秒ほど沈黙する。それから、仕方がないなぁと言いたげな表情で笑った。


「そしたら、私がその一人になるよ」


 映画に感化されたか。或いは、深く考えない綺麗事か。


 確実に違うと、この一週間の付き合いで筑紫若菜という人間を理解した紗季は、確信する。彼女は、心の底からそう思っているのだ。本気で、白崎孝弘を許そうと考えている。許すことが難しいという本音と本心の上で、誰一人許せないままの世界を否定した。


 吸血鬼にでもなった気分だった。目の前の太陽を前に、消えてしまいそうだった。


「私が頑張ってその人を許すから、その人の家族と、その人の周囲に居る人たちにも、できればその人を受け入れてあげてほしいかな……恨むのは当事者だけで十分だもん。あ、でも根っこからの悪人だったらこんなこと言わないよ? その人さ、奥さんが亡くなったせいで薬に溺れちゃったらしいんだ」


 どうやら、孝弘が罪を犯した経緯まで知っているようだった。


「それを免罪符と認めて許すなんてしないけど、過ちを過ちと理解できる人なら――今度こそ真っ当な人生を進むなら、その背中くらいは押したいよ。父親の仇を相手に、親不孝も大概な話だけどさ」


 ちょっとだけ自嘲気味に笑う若菜だったが、そんな思想を笑うことなんて紗季にはできなかった。彼女の言葉が真冬の暖炉のように、心に熱を与えてくる。


 胸に温かさを覚えて、けれどもそれを受け取る資格があるのかと自問して、苦しくなった。彼女の素敵な人柄を知って、彼女に人として惹かれていく度に、紗季は自らの罪を嘆く。


 不意に――微かな笑みを浮かべていた若菜の顔がぼやける。


 瞳に月と街灯の明かりが滲んで見えて、頬を熱いものが伝った。


 紗季は胸中で自身を叱責してどうにか涙を抑え込もうとする。


 父には味方が居た。自分にはなれなかった、理解者が居てくれた。どんな酷い罪を犯しても、絶縁まではできずにいた家族を許そうとしてくれる人が居た。紗季はその事実を噛み締める度に、頬に涙が伝うのを知覚した。


 口元を覆うも、隣を歩く若菜がそれに気付かない筈がなかった。


「ご、ごめん! 急に重かったよね! 忘れて忘れて!」


 彼女は紗季の異変に気付くと、慌てて謝罪をした。


 紗季は袖で涙を拭い、嘘を吐く。


「……すみません。涙もろい性分で、若菜さんに感情移入をしてしまいました」


 そう伝えると、若菜は困ったように紗季を案じる。どうしたらいいか分からずにおろおろとしているようだった。嘘を吐くことには胸が痛む。しかし、今ここで真実を語ることだけは絶対に避けなければならない。彼女の首を彼女の言葉で絞めかねない。


「とても含蓄のある話で、深く考えさせられました――もしも私の立場であれば、家族を殺した相手を許すなんて絶対にできないと思います。きっと、とても辛いことだとも。その心中は察するに余りあります」


 紗季は涙を拭うと、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。半分くらいは作り物で、もう半分は心の底から湧いて出た、素敵な人柄の彼女に感化されたものだった。


「若菜さんは、凄いですね」


 そう一言で締めくくれば、彼女は目を丸くする。


 それから、少しだけ笑って首を振った。


「そんなこと無いよ。紗季ちゃんの方が凄い人だ」


 大したことをした覚えは無い。世辞というものだろうと笑みを返す紗季だったが、彼女は少しだけ真剣な表情で、冗談を感じさせない声色で語る。


「私、初めてなんだ――父親のこと誰かに話したの。たぶん、徒に吹聴するような人じゃないって確信を持てていたから話した。そう思わせるだけの誠実さがあるんだよ」


 微かも臆することはなく、面と向かって若菜はそう断言をする。


 実直にそう褒められるとどう反応をしていいか分からず、紗季は「えっと……」と困ったように頬を染めた。誰かに褒められるのにはあまり慣れていなかったが、若菜といい紅葉といい、この姉妹は人を褒めてばかりだと、感心するばかりだった。


「それに、『話してもいいか』じゃなくて『話しておきたいな』って思ったんだ」


 言葉の違いは分かるが、どうしてそんなことを思ったのか。分からなかった紗季は小首を傾げる。そんな紗季に、若菜は満面の笑みを浮かべて言った。


「『友達』って言ってくれたの、実はけっこう嬉しかった――この髪の時もそうだったけどさ、そういうのをしっかり言ってくれるの、紗季ちゃんの魅力だと思う」


 自身の金髪を摘んだ若菜はそう語って紗季を褒めちぎる。


 しかし、それを言うなら若菜も同じだろう。今、まさしく人の魅力を言葉にして伝える彼女にも言えることだった。熱を帯びていく胸と心を抱き締めて、紗季は思わず頬を緩める。「ありがとうございます」若菜は快活で明るい笑みを浮かべた。


 駅に近付いてくると人も増えてくる。今日という友人との行楽の一日が終わりを迎えようとしていることを理解して、紗季は改めて彼女に礼を告げた。


「繰り返しになりますけど……若菜さん、今日は本当にありがとうございました。人生で初めて、友達とここまで楽しく過ごすことができました」

「私こそ、ありがとう。本当に楽しかった。本当だよ?」


 社交辞令ではないと言いたいのだろうか。面白い注釈を加える彼女に少しだけ笑って、「私も本当です」と返した。


 しばらく歩けば二人は駅に到着する。エスカレーターで上り、改札を抜ける。


 互いに同じ線を利用しているためプラットフォームまで同じ。しかし、向かう先は正反対であり、あと数分で到着する若菜の電車が到着したら、お別れだ。人もそう多くはなく、電車を待つ人達はスマートフォンを見詰めてどこかの誰かと繋がっている。そんな中、若菜は電光掲示板を見上げた後に、眉尻を下げて笑った。


「なんか寂しいかも」


 本心を言えば、紗季だって寂しかった。


 初めて、ここまで誰かと親しくなった――普段はボランティアやアルバイトで人付き合いは悪く、性格が幸いして敵を作ることこそ無いものの、特別に親しい相手など居なかった。だから、そんな紗季は一緒に映画を見に行った若菜に友愛を抱いた。


 しかし、同時に加害者家族であることを秘匿して接する自分には、彼女との別れを寂しがる資格があるのかと考える。不義理を働いているのに、どんな顔をして寂しがればいいのか。少しだけ詰まりながらも、紗季はその想いに応じた。


「私も……少しだけ寂しいです」


 その時だった。駅のアナウンスが鳴り出す――『六番線、電車が到着します――』声に顔を上げた若菜は、不満そうに頬を膨らませる。そして、「あ、そうだ!」と手を叩くと、携帯電話を取り出した。何か母親に連絡でも入れるのだろうか、と首を傾げる紗季に、若菜は突き付けるように携帯を見せた。


「連絡先! 交換しようよ!」


 高揚した表情でそう提案してくる若菜。しかし、紗季はすぐにでも到着しそうな電車の音と電光掲示板を一瞥して、「でも、電車……」と呟く。このご時世、電話番号やメールアドレスだけではない。メッセージアプリやSNSなどのアカウントも連絡先と呼ばれる。


 紗季も携帯電話は所持しているが、操作には慣れていない。慣れていたとて、電車を乗り逃すかもしれない。だから躊躇ったが、若菜の表情に憂いなど無かった。


「いいよ、たったの十分くらい。一人じゃないから寂しくないよ」


 そう言われて、紗季は目を丸くする。


 一人じゃないから寂しくない。それは彼女の言葉だったが、紗季も全く同じ気持ちだった。彼女と一緒に居る時間は、紗季の人生で最も退屈から遠い時間だ。彼女に対する罪悪感や憂いも多くあるが、同じくらい、彼女に友情を感じ始めていた。


「……慣れていないので、手ほどきを頂いてもいいですか?」


 二人はプラットフォームのベンチでスマートフォンと睨み合う。


 いつでも、どこの誰とでも繋がれる便利な必需品――今、二人は隣に居る友人と、いつでも繋がれるように連絡先を交換した。


 星が瞬く夜、二人の吐く息は初冬の夜空に溶けていく。

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