第9話
夕食を筑紫宅で済ませた二人は、日もすっかり暮れた頃、最寄り駅から一つ離れた場所にある映画館へと足を運んだ。既に辺りは暗く、気温も大分と下がっていた。
映画館はこの近隣では比較的に大規模と言えるような大きさをしているが、そもそも、この辺りの人口との兼ね合いから都心部に比較すれば利用客はそう多くない。加えて平日の夜ということもあって、映画館内部にも人の姿は少なかった。
「映画館のカーペットを踏むと気分が高揚するんだよね」
「黒を基調にした内装も趣があっていいですよね」
「紗季ちゃんは映画館とかよく行くの?」
「六歳の頃、家族三人で観に来た一回だけです」
二人で館内の入場口まで向かいながら、独特の風情を感じさせる館内について語り合う。若菜は紗季の言葉を聞いて、少しだけ聞きづらそうにしながらも尋ねる。
「そのころは流石に同居してたんだよね」
――今と昔とでその『家族』が示す相手も変わりつつあったが、そんな重たい話はこんな場所でするべきではないだろう。それに、話すつもりも無かった。紗季は笑みを作る。
「ええ、そうですね」
久方ぶりに訪れる映画館に少しだけ心が躍るような感覚を覚えながら、紗季は彼女が手に持つチケットを確認する。殺人を犯した人間の再起を描いた洋画であり、邦題は『マーダー』。その内容に自身の境遇を重ね合わせてしまった紗季は、何とも数奇な巡り合わせだと驚いたものだった。内容を知ったのも同行を伝えた後で、今更引き返すことはできない。
ふと、若菜が館内の売店を見る。ポップコーンやドリンクなどが販売されているコーナーだ。映画館の売り上げの多くは売店が担っていると聞いたこともあるので、是非とも買って経営を支えたい気持ちもある反面で、売店のメニューはどれも高価だった。
苦虫を噛み潰したような表情で苦悩する紗季。
そんな紗季に、若菜は売店を示しながら笑った。
「今日は私が付き合わせてるからさ、奢らせてよ。じゃないと申し訳が立たないんだ」
思いがけぬ提案に、怯んだように言葉を詰まらせる。しかし、こればかりは流されて頷くわけにはいかないだろう。首を横に振る。
「いえ、自分で付いていくと言ったんですから、お気になさらないでください。折角、今週分のバイト代をいただいたばかりなので、そちらから……だ、出します」
言葉尻で惜しくなってくるも、懸命に言葉を紡ぎきる紗季。
「いやいや、家賃とか光熱費とか食費とか、自分で出してるなら大変でしょ。こういう部分で迷惑かけないと思ったから誘ったんだ」
「だとしても、普段から夕食までいただいてるのに出してもらう訳にはいきませんよ」
それでも紗季は固い意志で拒む。
そんな紗季の強い意志を前に、若菜は不満そうに頬を膨らませる。彼女の厚意が嫌いな訳ではなく、ありがたい申し出であり、正直に言えば助かる。だが、こればかりは譲れない。たとえ友人関係であったとしても頷けないのに、この関係でどうして受け入れられようか。
「それに――友人とこういった場所に来るのは初めての経験なんです。だから、同じように、同じものを買って、同じものを食べてみたいんです。ずっと、憧れてたので」
若菜は意外そうに目を丸くして、それから、嬉しそうに笑った。
彼女を納得させられたら、という意思が無かったと言えば嘘になるが、これは本音だった。幼少期に家族と訪れて以降、縁の無かった場所だ。そういった場所へ友人に誘われて、だったらその思い出は、誰かの借りで終わらせたくはない。
「そっか……ごめん。それじゃ、ポップコーンは半分ずつ出して分けようよ!」
「……ご、ご配慮痛み入ります」
格好つけた癖に、やはり惜しいなと思ってしまう貧乏性を見抜く若菜と、見抜かれる紗季。素直に謝意を告げた紗季に、若菜は声を上げて笑った。
紗季は恥ずかしくて顔を真っ赤に染めた。
映画館の座席というのは、どうしてかとても心地よく感じられる。
さて、平日の夜。それなりに大きいものの都心部から外れた映画館にて、上映終了間際の人気映画というのはあまりにも集客力が無いようで、客は紗季と若菜の他に二名しか居なかった。後ろの方の席を取った二人は、そんな貸し切りにも近い状況に高揚する。
ドリンクホルダーに差し込んだトレイ上のポップコーン。キャラメル味のそれにそっと手を伸ばすと、若菜の手とぶつかった。
互いが遠慮して視線とジェスチャーで譲り合って、どちらも手を出さないまましばらくして、声を出さずに笑い合った。順番に粒を拾って食べて、甘いポップコーンを噛み締める。
初めて友達と訪れた映画館。初めて友達と共にした行楽先での食事。この塩味の混ざったキャラメルの味はきっと、ずっと忘れないことだろう。
――そして、上映が始まった。
映写機から伸びる光がスクリーンに男性を映し出す。
彼は心から愛していると言える妻を持っていた。しかし、彼の仕事中、隠れて妻は別の男性に心を向け、身体を許している。男性はその事実を知ってしまい、衝動的に妻へ暴力を行使し、不幸にも殺めてしまった
男性は禁固刑二十年を科される。面会においては両親や兄に失望され、軽蔑され、友人からも罵声を浴びせられ、絶縁を言い渡される。過失とはいえ人を殺めてしまった事実を重く受け止め、一時には自死さえ考えるほどに追い詰められる。
そんな男性に一人の面会者が訪れる。
それは、大学時代に世話になった教授であった。
彼は男性の罪を厳しく咎め、反省を促す。同時に、男性に深い反省の意を見ると、今度、被害者の両親も呼ぶから同様に謝罪をするようにと言い渡される。
元妻は男性と同じ学科の生徒であった。
後日、男性を訪ねてきた元妻の両親へ、男性は自身の提示できる最大限の謝意を見せた。両親はとても悲しみ、怒っていると語る。けれども、そうしたところで娘は帰ってこないのだと、男性の行いの意味を男性に説き続けた。そして、今度は両親が男性に深く謝罪した。
不貞を働くような娘に育ててしまったのは自分達の非である、と。
男性は慟哭し、ただただ自らの行いを悔いた。悔いても誰も帰ってこないのだと理解しても尚、悔い続けた。そして、男性は自らの命を贖罪に費やすと決める。
場面が切り替わって二十年後、青年から壮年へと変貌した男性の出所を迎える者は誰も居なかった――そう思っていた男性だったが、明らかに自身を待つオープンカーが一台。
そこに乗っていたのは、既に大学教授も引退した恩師であった。
彼は壮年の男性を助手席に乗せると、礼と困惑を言葉にする男性に、渋い声で告げた。
『私の終活に付き合ってくれんかね、ジョージ。知人を訪ねて旅をする』
ジョージは驚くも、自らの面会に、そして迎えにまで来てくれた恩師の頼みを断れ得る道理も無く、『是非』と承諾する。彼はこの旅を出所後初めての償いとした。
教授――エドの知人はアメリカ全土に広く住んでいた。
オープンカー一台で隅から隅まで旅をするのには、かなりの時間を要した。
知人は主に、彼が教授として関わってきた研究仲間や生徒達だった。その多くは家庭を持ち、その家族ともエドは繋がりを持っている。エドは知人を訪ねては、自身の死後にどれくらいの遺産やどういう立場を譲渡する、そんな話をするのだ。
そして、去り際にはこう言う。
『この男は殺人を犯した。その償いとして私の手伝いをさせているのだ』
ジョージは自らの罪を言いふらされることを好ましくは思わなかったが、自らの行いを隠し通して生きることもできなかった。だから、それを受け入れた。しかし、それを聞いた知人の多くはジョージに畏怖や軽蔑の感情を向ける。
当然の対応だったが、ジョージはそれを聞くたびに自己嫌悪の感情を強くさせていく。そして、エドがこの旅にジョージを誘った理由を、罪を理解させるためなのだと理解する。
ジョージはそんな日々を苦しく思いながらも、自らの行いを償う為に、訪ねたエドの知人の家で、必ず一つの善行を積むことにした。犬小屋の修理、皿洗い、昼飯を作ったり、老人の介護をしたり。悩みを聞いて、それを解決することを繰り返す。
けれども去り際には、ジョージが元殺人犯だと聞くと、誰もが恐れる。
消えぬ罪悪感と向き合いながら旅を続けた。
中には元知人の家も訪れたが、彼等はジョージの顔を見ただけで『帰れ!』と叫び出す。ジョージの両親の家でも、兄の家でも同じ対応だった。
そんな二年にも及ぶ旅の終着点は、ジョージ達の地元。
エドが尋ねたのは、元妻の両親の家だった。
驚き、訪ねることを拒むジョージだったが、エドはそんな彼を引き摺って両親の前に差し出す。合わせる顔も無いが、詫びなければいけないだろう。そう考えて腹を括るジョージに、元妻の両親が告げた第一声は、彼が考えもしないことだった。
『出所おめでとう』
彼等は豪勢な料理でジョージとエドを迎え入れた。
思いもよらない言葉に困惑をするも、出所後、初めて誰かに許され、迎え入れられた経験を前に、ジョージは号泣をする。元妻の両親は彼の受刑を償いと認め、そしてそれ以上は求めず、変わろうとする男性を認めて受け入れた。
皮肉にも、最も拒むべき立場に居た彼等だけが、ジョージを赦したのだ。
旅を終えたエドは、ジョージにこう語る。
『君は恐らく、【エド・トラフトンは人々に非難させることで俺に罪を自覚させようとしたんだ】、なんて思ったことだろう。しかし、今も尚、そう思うかね?』
出所直後に比べ、表情に変化が訪れたジョージは首を横に振る。
『いえ、違うと思います。何となくですが』
煙管を取り出したエドは、そんな彼の具体性の無い確信を笑ってから、静かに語った。
『人を殺した君は、あのように咎められるべきだとは思うがね。いつまでも過去の罪過に囚われるのは長い人生の無駄だろう。だから、教えたかったのさ。あのように許してくれる人が居るから、君はまだやり直せるんだ、と』
ジョージは言葉も無く、ただエドの語った全てを噛み締める。
しばらくして、そっと笑った。
『長い人生、ですか? 私も四十五ですよ。老い先短いおじいさんです』
『馬鹿言え、私は七十でもこうしてピンピンしてるんだぞ。君も少なくともあと二十五年は生きられるんだ。二年でアメリカ全土をオープンカーで走れる。二十五年もあれば、車一台で世界だって巡れるかもしれん。時間は有限だが、可能性は無限だ』
彼は老体いっぱいに煙を吸うと、それを空へと吐き出した。
『知人に分けていった遺産、残りは全部君にやる。幾ら残るかは知らんが、それで好きに生きるといい。罪を忘れて遊び惚けるのも、罪を償うために使うのも君の自由だ。もっとも――旅での君の行動を見る限りでは、君がどうするかなんて手に取るように分かるがね』
二年の旅を経て培われた、教授と生徒ではない、二人の男性の絆が二つの笑みで映される。そして、洋楽のバラードが流れ出す。
――エンドロールが下りてきた。
紗季は作品の余韻に浸るように、ただそれを眺め続ける。ふと、目尻に熱いものが感じられた。紗季は言葉も無くそれを拭うと、噛み締めるように瞳を瞑る。
ふと、若菜の方を盗み見る。
彼女はとても真剣な表情で、画面を見ていた。――彼女は元妻の両親に自分を重ねているのだろうか。彼女はあの二人の選択をどう思ったか。聞いてみたいが、聞くのは、狡いような気がした。紗季は彼女から目を逸らし、今はただ、一つの物語のピリオドを見届けた。
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