第8話
それから一週間が経過して、再び紅葉に数学を教える日が訪れた。
家庭教師は週に二回。理数系を苦手とする彼女に、それぞれ一日ずつ、各日二時間理科と数学を彼女に教えるのだ。――とはいえ、出会った時、地力は非常に高いという印象を受けた。その印象に違わず、捻くれた問題の多くない物理科学は、肝の考え方のズレを直すだけで、驚くほど順調に問題を解けるようになった。
そうして迎えた二回目の数学の授業も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
受験を目前に控えているということもあり、既にかなりの知識量を蓄えており、能力も磨かれていることが確認できた。この段階で、既に志望校の合格水準は大きく上回っていると予想できた。――単純に合格をしたいということなら、正直な話、紗季はもう要らない。
意を決してその旨を伝えたところ、
「いえ、可能ならもう少し上も目指そうと思ってて」
非常に素晴らしい向上意欲の持ち主を前に、紗季は自らの浅慮を恥じるしかなかった。
さて、そうして慣れてきつつあった家庭教師の仕事を遂行していると、不意に部屋の扉がノックも無く開かれた。どきりと心臓を跳ねさせてそちらを見れば、立っていたのは、不満そうに唇を尖らせた若菜だった。
「ねー紅葉―、映画観に行かな――っとそうか、授業中だったっけ」
ぶすー、と露骨に不貞腐れた調子で部屋に入ってきた彼女は、紗季を見ると思い出したように申し訳なさそうな顔をする。するものの、我が物顔で紅葉のベッドにどさりと腰を据えた。どうやら帰る意図は無さそうだが、そろそろ終わりにしようとも思っていた。
姉妹の会話に水を差さないようにと閉口する紗季。
紅葉は眉を寄せて苛立たしそうに「はぁ」と吐き捨てる。紗季は彼女が怖かった。
「すみませんけど姉さん、私はいま受験勉強中なので」
「いや、そろそろ終わるんじゃない? 二時間でしょ?」
「え、ええ。ちょうどいい頃合いなので終わろうかと思ってました」
紗季が素直に答えれば、紅葉は恨んでいいのか否か絶妙な表情で紗季を見て、紗季は愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「じゃあ、ちょうどよかった。実はさ――」
「――行きません。個別指導の終了は二時間ですけど、受験勉強の終了は合格するまでです。分かったらお一人で行ってきてください」
「なんだよノイローゼかー? 今からそんなんで本当に合格できるのかー?」
冷たい態度を取る紅葉に、若菜はいっそう不満を抱いたようで茶化すように火に油を注いだ。紗季は紅葉の脳の血管が切れるような音を聞いた気がしたが、生還のために静観を決め込んだ。冷や汗が止まらない。
しかし、紅葉は大人だった。近くに置いてあった音楽レコードに触れると、深呼吸をしながら指で額を何度か叩く。自らの機嫌を取った彼女は、呆れたような声色で返した。
「私は映画が嫌いじゃないし、姉さんと観に行くのも吝かではないです。けれども、行くなら自分の意思で行きたいですし、誘われるなら『この人と行きたいから』という意思で誘われたいです。分かりますか――つまり『誰かの埋め合わせで取り敢えず受験勉強中の妹を呼んでおけばいいか』という思慮の下で誘われたくないんです」
殴るような言葉の数々に、若菜は言い返す言葉も無かったようで、拗ねたように膝を抱えて唇を尖らせた。どうやら紅葉の話や若菜の口ぶりから察するに、予定していた誰かとの約束が反故になり、その埋め合わせを探しているのだろう。
沈黙している紗季を一瞥し、配慮したように紅葉が全貌を尋ねた。
「で、数日前から楽しみにしていた映画の話ですよね。何があったんですか?」
「んー……バイト先の店長から映画のチケットを貰ったって話をしたじゃん? 二枚ね。それで、中の良いバイト先の後輩と二人で観に行こうって約束してたんだけどー」
「してたんだけど?」
オウム返しで先を促す紅葉。若菜は、怒り心頭といった調子で答えた。
「先に別の友達と観に行ったって! 約束したのに!」
「……はぁ」
紅葉は面倒くさそうに肩を竦める。
「それで、行かないって言われたんですか?」
「うん」
「そりゃ選ぶ相手を間違えた姉さんの非ですよ。これに懲りたら今度からは誘う相手を選んでください。私なら約束を反故にしませんよ」
「じゃあ行こうよ」
「それは嫌です。相手が恋人や実姉や実母や家庭教師であろうとも、私は誰かの代替品として扱われるのが死ぬほど嫌なんです。どうしても聴きたい曲があったのに、不幸にも友人に貸し出していてレコードが無いとしましょう。我慢して他の曲を聞くんです。きっと最悪の気分ですよ。そういう感じです」
むー、と頬を膨らませて怒る若菜と、癖のある例え話で憤りを表現する紅葉。
なるほど、本当に対照的な姉妹だな、と感心するばかりだった。
「それに、今は勉強に集中したいです。息抜きが大事なのは理解しているつもりですけど、モチベーションが高い内に頭に叩き込んでおきたいんです」
「……分かったよ。誘ってごめん」
「謝らないでください。一緒に行かないってだけなので」
優しいのかドライなのか分からない励ましの言葉を並べた紅葉は、「すみません、お忙しいのに授業を引き延ばしてしまって」と慇懃に詫びてきた。実姉への凍てついた態度と比べると、まるで夏の沖縄と冬の北海道のような寒暖差だった。
「いえ、仲が良さそうでとても羨ましいですよ」
「そうですか? 私は先生のお誘いなら――」と提言しようとする紅葉。その時、彼女は自分の言葉を振り返るように閉口して、「あ」と何かに気付いたように顔を上げた。どうやら若菜も同じようなことを考えていたらしく、バッと勢いよく顔を上げると、
その場で唯一理解が及んでいなかった紗季は、二人が一斉にこちらを見てくるので小首を傾げるしかなかった。そんな紗季に、若菜が満面の笑みを向けてきた。
「紗季ちゃん! よかったら映画観に行かない!?」
「……へ?」
その流れで、こちらに来るのか。明らかに終わる流れだったのに。
そんなことを胸中で呟きつつ、紗季は予想外の提案に驚いた後、熟考をする。腕を組み、分かりやすいように少しだけ唸る。
「ええと……」
映画は嫌いではない。紗季も、稀にだがレンタルDVDで観ることがある。
本音を言うのなら、是非、といったところだった。
しかし、食いつこうとする紗季を止めるのは、胸に縛りついた鎖だった。
深く深く突き刺さった楔から伸びる鎖が、犬小屋に繋がれた犬のように、彼女への同行を拒む。彼女は素敵な人柄をした――自惚れも加味すれば、友人というような相手だ。勿論、彼女も映画も拒む理由は無いのだが、他でもないこの自分が、彼女とそんな時間を楽しむことに抵抗があった。
『あなたのお父さんを殺したのは私の父親です』。その言葉を言わずして、素性を隠して彼女と友人の紛い事を続ける不誠実に対する忌避感なのだ。
しかし、それでも若菜はそんなことを知らない。ただの友人を、誘っている。
「その、さっき紅葉は誰かの代わりは嫌だって言ってたし、そういうのは否定しないんだけど、もし紗季ちゃんさえよければ……どうかな。折角の券を捨てちゃうのも勿体ないし」
「遠慮とかは考えないでください。仕事で疲れて帰ってきたときに、子供の遊びを大変だと思うことはあっても、遠慮することは無いじゃないですか。これは、それです」
相変わらず歯にもの着せぬ紅葉の口ぶりだが、紗季がこの話をそう解釈するにはあまりにも豪胆さが欠けていた。人から提示された無償のものは、どうしても遠慮をしてしまう。
幾つもの理由で断ってしまいたかったが、行かなければ捨ててしまうのなら、それは勿体ない。何よりも、先日の晩餐時のような表情を若菜にさせたくはなかった。
紗季は腹を括って、綺麗な笑みを作った。
「それでは、ご迷惑でなければご一緒させてください」
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