第7話

 契約の確認と締結を終えて二時間。


 酷い嘔吐感と自己嫌悪も少しずつ姿を顰めつつある薄暮。


 二階にある紅葉の一人部屋で、紗季は彼女に数学を教えていた。


 広めの部屋に立派な勉強机が置かれており、それに向き合う紅葉の傍らで、紗季は様子を見守っていた。それにしても、容姿に関しては髪色以外、本当に若菜にそっくりだという印象を受ける。しかし、性格は対照的だ。奔放な若菜と生真面目な紅葉。若菜がお洒落や珈琲などの趣味を持つのに対して、彼女の部屋にある本棚には純文学やクラシックのレコード、棚にはレコードプレイヤー、イヤホンの伸びた音楽プレイヤーが置いてある。


 壁には綺麗で鮮やかな絵画も飾られていた。


「……これでいいんでしょうか?」


 彼女は先日まで悪戦苦闘をしながら解いていた応用問題をすんなりと解き、自身の回答に対して半信半疑になりながらも紗季に問題の正誤を確かめる。


 紗季は問題を解く過程の式も眺めながら、手元の回答と参照する。


「……はい! 完璧です! 凄い!」


 恐ろしく飲み込みの早い彼女の正答を前に、紗季は思わず賛辞をした。


 紅葉は安堵をしたような吐息を漏らした。それから笑みをこぼした。


「先生のお陰です。昨日までさんざんと躓いてたんですけど……なるほど、『コツを掴む』という言葉の意味が分かった気がします。本当に助かりました、まさか数学の応用問題をここまで簡単に解けるようになるとは」


 紗季に感謝を伝える紅葉だったが、当の紗季はそれを素直に受け止められない。本当に自分が必要だったのかと考えてしまうくらい、彼女の吸収力は凄まじかった。


「紅葉さんの吸収力の賜物ですよ。培ってきた土台が活きているんだと思います――当初予定していた説明の八割は既に理解されていたので、私の仕事なんて些細なものでした」

「その残りの二割に気付けないから、誰かの知恵を借りたかったんです。これは先生のお陰です」


 満面の笑みでそう断言をされると、それ以上の謙遜は悪徳というものだった。


 紗季は否定もできず、少しだけ恥ずかしくなりながらも「ありがとうございます」と礼を返した。そうまで言ってもらえるなら、少しだけ自信も湧こうというものだった。


 紅葉は時計を見て、驚いたような顔をする。


「っと、そろそろ時間でしたね。キリがいいところまで進んでよかった……今日は本当にありがとうございました、先生。初めてだなんて信じられなかったです」

「そ、そう言われると照れちゃいますね……でも、私こそありがとうございました。拙い部分もあったかと思うのですが、紅葉さんがしっかり聞いてくださったので、凄くやりやすかったです。その、堅苦しくて鬱陶しかったかとは思いますが」

「いえ! とても誠実で信頼できる人だなあと思いました」


 自信の無さが言葉に現れた紗季と、そんな紗季を満面の笑みで讃える紅葉。


 大人な対応だった。


「ところで先生、ウチの家庭教師以外でアルバイトとかやってるんですか?」

「ええ、個人経営の古書店で。店主も良いお年なので事務全般を」

「そうでしたか……家庭教師とかはあまり興味無いんですか? 私も初めてこういう形で教えていただくので、あまり詳しくはないですけども、先生、凄い教え上手ですし」


 思いがけぬ提案を聞き、紗季は腕を組んで唸った。


「ありがとうございます……ただ、空いている時間を全てアルバイトに費やす訳にもいかないんです。将来の為の勉強もしておきたいので」


 将来的には慈善事業に関わる職に就きたいと考えていた。その為にも社会勉強や、そちらの方面に関する勉強も必要だ。それに、今、目の前に償うべき相手が居るとはいえども、今まで続けてきたボランティア活動を終わらせたいとも思わなかった。


「そうでしたか。出過ぎたことを言いました、すみません」

「い、いえいえ! お気になさらないでください、そういうお話をしていただけると、距離が縮まったんだなあって嬉しくなります」


 それは、本心だった。どのように接していくかと悩んでいた昼間が嘘のように、彼女の丁寧な物腰と卓越したコミュニケーション能力のお陰もあって距離が縮まった。紗季が笑みを浮かべれば、紅葉も微笑みを返した。


「先生のような人柄の方は嫌おうにも嫌えません。ちなみになんですが、もしよければ将来の目標とかお聞きしてもいいですか? 後学も兼ねてなのですが」


 紅葉が微かな興味を瞳に宿して尋ねてくる。


 返答にあぐねた紗季は、けれども長い沈黙は訝しませてしまうと考えて焦る。ボランティアは隠すようなことではない。しかし、元々は筑紫家に対する償いをできないから、少しでもと始めたことで、そうして始めた慈善活動を言いふらすのは気が引けた。


「ぼ……」


 それでも反射的に言いかけた馬鹿正直な口を閉じ、紗季は曖昧な笑みを返した。


「簿記、とか……ですかね」

「ああ! なるほど!」


 紅葉は得心がいったように手を叩き、紗季はそんな彼女を誤魔化せたことに安堵の吐息をこっそりと吐いた。




 契約通りの個別指導を終えた紗季は、だいぶ緊張も解けてきたことに安心をしながら帰り支度を整える。紅葉に案内されるように玄関へと赴いた紗季は、紅葉と揃ってリビングに顔を出した。リビングからは美味しそうな夕飯の香りが漂ってくる。


 リビングルームと隣接しているキッチンで、若菜と葵が夕飯の支度をしていた。


「終わりましたー。先生をお見送りしてきますね」

「お陰様で無事に終了しました。本日はお邪魔いたしました」


 手を振る紅葉と、深々と頭を下げる紗季。


 しかし、そんな二人を見た葵は「あ、ちょうどいいところに」と笑う。何かお説教の言葉だろうかと微かに身構えてしまう紗季だったが、それをよそに若菜が言葉を継いだ。


「紗季ちゃん、一人暮らしって言ってたじゃん。夕飯の支度って済ませてる?」

「へ? いえ、帰ってからする予定です」

「もしよかったらバイトの日はウチで食べていかない? 女の子一人分の食事が増えるくらいじゃ困らないし、ウチも賑やかな方が楽しいからさ。ウチの都合でこんな微妙な時間でのバイトになっちゃってるし、ほんと、もしよければなんだけど」


 思いもよらない提案に、紗季は目を見開いて言葉を失う。


 対して、隣に立っていた紅葉は「ああ、楽しそうでいいですね」と、表情を明るくさせた。


 葵との話でそう決まったのだろう。硬直する紗季に、今度は葵が続ける。


「自分の料理以外食べられないって人も居るし、別に無理強いはしないんだけど。娘と同じ年齢の子が頑張ってるってなると、お節介を焼きたくなるのが母親なのよ」


 葵はそう苦笑をする。


 紗季は他人の料理であろうとも構わず口にできる。また、毎日の食事も同じようなものばかりだ。提案そのものは非常に有り難い。これが水城の家であれば、喜んでご馳走になっただろう。だが、筑紫家は――筑紫家は、駄目だ。


 これ以上、この家庭から何かを受け取ってはいけない。


 しかし、同時にこの家族が差し出してくれた厚意を無下にするのかという葛藤があった。どちらが正しいのか分からず、紗季は戸惑ったような表情で沈黙する。沈黙はまずい、せめて何か会話を繋がなければ、と焦るのも束の間、若菜が微かに苦笑する。


 その顔は、どこか自嘲気味だった。傷付いているとも表現できた。


 彼女はほんの少しだろうと親しくなった紗季に、善意でこういった提案をしてくれた。それがどうだ、迷惑そうと解釈されても仕方のない表情で沈黙して、相手がどう考えるのかは何も考えずに独り善がりな葛藤をしていたじゃないか。


「ごめ――」

「あのっ!」


 謝罪をしようとした若菜の言葉を、紗季は大きな声で遮った。


 急な大声に三人はビックリしたように紗季へ視線を向けてくる。そんな三対の視線を浴びて、自分が何をしているのかを客観視した紗季は、恥ずかしそうに頬を染める。しかし、もう後戻りはできないだろう、と恥ずかしついでに頭を下げた。


「ご、ご迷惑でなければ……いただいていってもよろしいでしょうか……」


 恐る恐ると頭を上げれば、若菜の心底嬉しそうな顔が見えた。


 紅葉は家のことに口を挟む様子は無く、ただ、否定的な様子は見えない。葵の顔色を窺えば、彼女は「もちろん。お口に合うかは分からないと思うけど、食べていって」と微笑んだ。ああ、明人さんは彼女のこういう所に惹かれたのかもしれない。


 そんなことを思いながら、淡く疼く胸の傷から目を逸らして、紗季は筑紫家の晩餐に邪魔することとした。




 筑紫家の晩餐は非常に素敵な時間だった。


 謙遜なんて信じられないような絶品の料理、テレビを見て交わす他愛のない会話。ごく普通の家庭にもある普遍的で日常的な一幕なのかもしれないが、その一滴の雫は乾いた紗季の心には極上の甘露のように感じられた。


 しかし、紗季の心に落ちた雫はもう一つ。それは、苦汁にも近い一滴だった。


 帰宅をしたのは二十一時を迎える頃だ。同じ苦汁でも美味しい苦汁だった若菜の珈琲を嗜んでから帰ってきた。誰も居ない、半ば吹き抜けのような薄ら寒く暗い部屋に帰った紗季は、電気を点け、ソファにドサリと腰を落とした。


「……楽しかった」


 思わず、ぽつりと呟いてしまう。


 楽しむためにあの家に行ったのではない、紅葉に勉強を教える為に、そして筑紫家に償いをするためにあの家に行ったのだ。それでも、楽しかったという取り繕う余地も無い純然な感情は誤魔化すこともできず、ただ無意識に紗季はそう呟いていた。


 同時に、楽しかったからこそ、苦しかった。


 紗季は唐突な嘔吐感に襲われ、胃と口を押さえて目を見開く。「うっ」と安物のカーペットの上にぶちまけそうになるも、せっかくいただいた料理を戻すなど失礼千万なことはできない、と、唇を噛み締めて堪える。


 頭痛と胃痛に苛まれながら、紗季は自己否定を繰り返す。


 本当に、楽しい時間だったのだ。だからこそ、本来、その楽しい時間を享受できる筈だった一人の男性からそれを奪い取ったという事実に嫌気が差した。


 奪ったのだ、殺したのだ。あんな素敵な笑顔を浮かべる人たちから、笑顔と大切な家族を奪う行為をしてしまったのだ。


 紗季はソファの上で膝と枕を抱える。そして、枕に顔をうずめた。


 数秒した頃、静かな部屋に小さな嗚咽が響き始める。


 しかし、自身の脚に爪を立てて懸命に涙を堪え、自身を罵った――被害者面をするな、本当に泣きたいのは自分じゃないはずだ、と。鼻をすすり、目尻の涙を拭う。


 しばらくして落ち着きを取り戻した紗季は、家庭教師のアルバイトに必要な書類を取り出して、今日教えた範囲と過去問題から構築した出題傾向とを見比べ始める。どれだけ苦しかろうとも、やるべきことは八年前から変わらない。


 ようやく掴んだ贖罪の糸だ。今はただ、これを手繰り続けるだけだ。

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