第6話
「あ、もう帰ってきてる――ただいまー! 紗季ちゃん連れてきたよー!」
「お邪魔します」
若菜とは随分と親しくなったもので、緊張もどこか遠くへと行ったが、筑紫家の邸宅に足を踏み入れるとなると、また鼓動が激しくなっていく。
住宅街の一角に悠々と立つ二階建ての一軒家。立派な門扉の先、庭の石畳の道を進んだ先にある扉を抜けて玄関へと踏み込んだ紗季は、若菜に続いて挨拶をした。
味わい深い木造建築に洒落たインテリアが幾つも置かれている。
自分の家とは正反対だな、と紗季は余裕の無い胸中で呟いた。
嫌な汗が出てきて手足の先端が痺れる中、リビングらしき部屋から「はーい」と澄んだ綺麗な返事と共に、一人の若々しい女性が顔を出した。
真っ黒なストレートヘアの、二十代半ばほどではないかと、それこそ水城と同年代ではと見紛うような若菜とそっくりの女性が顔を覗かせた。彼女が紗季を見て笑みを浮かべるのと同時に、紗季は彼女と若菜との続柄を理解して、心臓を一際強く跳ねさせる。
「いらっしゃい。家庭教師の件、引き受けてくれてありがとうございます」
「い、いえ、こちらこそ受け入れてくださりありがとうございました! 本日から紅葉さんの家庭教師を務めさせていただきます、島津紗季と申します!」
「よろしくね、私は筑紫葵です。一応、紗季ちゃんの契約相手ということになるのかしら。勝手で申し訳ないけど、ご家庭の事情とか水城から色々と話は聞いているわ。とりあえず、お仕事の話をする前に上がって。寒かったでしょう」
葵は穏やかに笑って、そっと手でリビングを示した。
葵の言葉を聞いた紗季は呼吸を詰まらせる。しかし、水城が勝手に紗季の事情を全て話すとは思えない。話したのは、きっと既に若菜へと話している、一人暮らしとかそういった部分なのだろう。気付いて安堵し、頭を下げる。
「はい、ありがとうございます。お邪魔します」
靴を脱いで整え、そのままリビングへとお邪魔することにした。
そして、前を歩く葵の背中を見て顔を俯かせる。――筑紫葵。明人の妻であり、この家の母親だ。水城からは再婚をしていないと聞いている。つまり、彼女は明人の亡き後、女手一つで女の子を二人育ててきたということだ。それも、若菜のような子を。
その苦労は推し量るに余りある。罪悪感で潰れてしまいそうだった。
「紅葉―! 先生来たよー!」
若菜は通りすがりに階段の方へと声を張り上げ、紗季の指導相手を呼んだ。
その数秒後、慌てたような物音が鳴り出す。それから、ドタドタと焦りを感じさせる足音で、一人の少女がリビングへと駆け下りてきた。
そして扉を開けると、非常に申し訳なさそうな顔で謝罪をした。
「すみません! イヤホン付けて勉強していました……!」
ラフな部屋着を着た小柄な少女だった。
若菜と違って真っ黒なミディアムヘアで、日焼けしていない白めの肌と大きな瞳が印象的だった。一言で言えば、非常に整った容姿をしている。
中学三年生――十五歳。八年前といえば、まだ小学二年生だった時だ。つまり、自分が母親を病気で失ったのと同じ齢の頃に、彼女の父親を奪ってしまったということでもある。分かっていはいたことだが、事実を再確認する度に心が蝕まれていった。
彼女は紗季の姿を見付けると、非常に丁寧な所作でお辞儀をする。
「お出迎えできずに申し訳ございませんでした、これからご指導いただく筑紫紅葉と申します。至らぬ所も多々あるかと思いますが、何卒よろしくお願い申し上げます」
中学三年生とは思えない丁寧な言動に、紗季は圧倒されながら頭を下げる。
「こ、これはご丁寧にすみません! 紅葉さんの家庭教師を任されました、島津紗季と申します。私こそ、言い訳にはしませんが、初めての家庭教師ということで至らぬ点があるかもしれません。万が一にもそういった点がございましたら、容赦なくお申し付けください」
妙に畏まった学生二人の譲らない頭の下げ合いが発生する。
若菜と葵はそんな二人を愉快そうに見ていた。
「ちょうどいいや、折角だから珈琲淹れるよ。母さんも飲む?」
「ええ、お願い。ああ、紗季ちゃん。座って座って」
葵はテーブルの一席に紗季を促す。
長方形の机。四つの椅子が並んでいる。そして、この三人家族。
余る一席が誰のものであるかは考えるまでも無い。紗季は静かに唇の端を噛みながら、礼を告げて椅子に腰かけた。
「ちょっと待ってね、契約書を用意してるから」
紗季の向かい側に腰かけた葵は、手元のファイルから書類を見繕う。
その僅かな時間にリビングルームを見回した紗季は、入り口扉の脇に置かれている仏壇を見付けてしまった。まるで家族を見守るように置かれていた遺影には、柔和な面持ちの、眼鏡を掛けた若い男性が映っていた。それを見た途端、紗季は胃が絞られるような吐き気を覚えた。眩暈を起こして、けれどもそれを顔には出さないように脚を抓って堪える。
とても、誠実で優しそうな男性だった。薬物中毒だった父親に話を聞くくらいするだろうと確信できた。
八年もの歳月を経て、ようやく父親が殺めてしまった相手の顔を見て、紗季は涙腺が緩む。目頭が熱くなって、今にも泣き出してしまいそうだった。
今すぐに己の罪を全て告白し、謝罪をしてしまいたかった。これが自己満足に過ぎなくても、そうせざるを得ない衝動に駆られてしまう。それでも、水城の告げた『傷を掘り返すだけかもしれない』という言葉を思い出し、堪える。
しかし、紗季が懸命に堪えるも空しく、葵は用意した書類を確認しながら紗季の顔を覗き込んだ。
「紗季ちゃん、大丈夫? 顔色が悪いけど、具合が悪いなら少し休む?」
「あ、いえ、その……!」
何をやっているんだ! と胸中で自分を厳しく叱責し、ご家族を心配させるなど言語道断だと、烈火のような怒りを自分に抱きながら言い訳を探す。
しかし、意外にも助け船はすぐそこから。
「緊張してるんだよ。初めての家庭教師らしいし不安なんじゃないかな」
それは、ドリッパーに湯を注ぎ終えた若菜の言葉だった。随分と様になる所作と共に助け舟を出してくれた彼女は、ぱちりとウインクをしてくる。彼女はきっと、紗季が本当に隠蔽したかったことなど知らず、ただ紗季の不安要素を取り除こうとしてくれたのだ。
それを聞いた葵は微かに安堵と笑みを浮かべる。
「ああ、そういうこと。それなら大丈夫、最低限の知識があることは水城から聞いているし、真面目に仕事をしてくれる子だってことも今理解した。誰にだって初めてはあるんだから、最初が拙いのは当然。気にしないで大丈夫よ」
「あと、外が寒かったのもあるかも。そろそろ珈琲できるから待っててね」
胸に染み渡るような二人の言葉に、紗季は感慨無量になって、今度は別の理由で泣いてしまいそうだった。「ありがとう、ございます」絞り出すように礼を告げる。
「あ、もう少しだけエアコンの温度上げときましょうか」
紅葉はリモコンに手を伸ばして空調の温度を変える。
本当に――本当に温かい家族だった。羨ましいと思う反面で、酷い自己嫌悪を抱く。
どうしてここに座っているのは自分なんだ。この温かい空間に居るべきだった人間を追いやって、そこに代わって座るのが、他でもない追い出した人間の家族なのだ。この場に居る誰も、紗季が加害者の家族だなどとは知らない。
それを隠して温かい珈琲を貰って、気を遣われて。
『お前はいったい誰なんだ』という心の中の声が、紗季を咎め続けていた。島津紗季であり、白崎孝弘の娘である白崎紗季でもあるのだ。紗季は抱いた吐き気の中に、自分という醜い存在に対する嫌悪感から来るものを感じた。
葵が頃合いを見計らって契約書の確認をし、若菜の珈琲が置かれ、紅葉がそれを傍らで見ている。貼り付けた笑みで正しく謙虚な島津紗季として、ただ対応を続けた。
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