第5話
高校の最寄り駅から電車で少し先の小さな駅。そこで、二人は下りた。
電車の中では他の乗客に迷惑にならない程度に他愛のない談笑を――とはいっても、硬い表情で相槌ばかりを繰り返す機械になってしまっていたが――交わして、二人の距離はほんの少しだけ縮まっていた。
二人で歩道を歩くと、若菜が紗季の緊張をほぐすように他愛ない話題を切り出す。
「駅から歩いて十五分くらいの場所に家があるんだ。一軒家」
「あ、けっこう通いやすいんですね」
「というか『都立』で『通いやすい』『校則緩めの高校』を選んだら必然的にあそこしか残ってなかったんだよね。お陰様で水城せんせーに散々としごかれたよ」
校則が緩い高校は随分と限られる。確かに、場合によっては数ランク上への挑戦になりかねない。しかし、そうまでしてお洒落をしようとは、見上げた女子力だった。
彼女は自分の髪を摘んで持ち上げ、懐かしむように語る。
「金髪に憧れてたんだ―、中学校はそういうの厳しくてさ。ロクなもんじゃない、って」
「そうですね、私の中学校も染色は禁止でした。でも、若菜さんを見てると憧れる気持ちも分かりますよ。とても綺麗ですから」
「ほんと!?」
心からの紗季の賛辞に、若菜は目を輝かせた。
頷き返せば、彼女は心底嬉しそうに笑った。
素直で、可愛らしくて、奔放で、けれども失礼な訳ではなくフレンドリー。とても魅力的な人柄をしている人物だと、紗季は胸中に憧憬を抱く。同時に、そんな彼女の笑みを奪うような過去の行為が脳裏をよぎって、心に微かな曇りを生む。
こういう関係でなかったのなら、彼女のような友人を持ってみたかった。そんなことを考えつつ、紗季は全てを隠す笑みを顔に貼り付けた。
しかし、若菜はそんな紗季の顔を何かに勘付いたようにジッと見て、自身の両頬に人差し指をそれぞれ当てる。
「もしかして、まだ緊張してる? 表情が硬い気がする」
瞬く間に看破された紗季は驚きに言葉を失って、目を見開く。
若菜は紗季を気にかけるような瞳で見ており、彼女への隠し事は難しいと悟る。
「……はい。実は、とても」
「やっぱり。大丈夫だよ、妹は聞き分けがいいし、学校じゃ先生たちからの評判も良いみたいだから。母さんも面倒くさいこと言うようなタイプじゃない。それに、家庭教師とか初めてなんでしょ? 平気平気、何かあったらフォローするからさ」
紗季を安心させるために彼女は穏やかな笑みを浮かべる。
ほんの少しだけ安堵をしてしまうような、優しくも力強い笑みに、紗季は少しだけ肩の力が抜けるような気がした。本当に、素敵な人だと感謝にも近い感覚を抱く。そして、緊張ばかりをしていても仕方がないと自信を戒める。
確かに彼女たちには頭が上がらず、どんな顔をすればいいのかも分からない。けれども、それで心配させるようなことだけは避けなければならない。教師が不安では、教わる生徒も不安になろうというものだった。
罪悪感は胸にしまい、表情には確かな自信を宿さねばなるまい。
そう決意を改め、紗季はほんの僅かだけ先程よりも自然な、彼女の励ましに心から浮かび上がった笑みを見せた。
「はい、ありがとうございます」
その笑みを見て満足そうに頷いた若菜は、妙案を思い浮かんだとばかりに手を叩く。
「そうだ! どうせ母さんや妹が帰ってくるのも、もう少し時間が掛かるだろうしさ。寄り道しようよ。この辺りに良い和菓子屋があるんだ!」
「よ、寄り道ですか」
突然の提案に驚く気持ちが半分。家庭教師として職場に赴く途中の寄り身に臆する気持ちがもう半分。そんな紗季の心を見透かしたように若菜は頬を緩める。
「大丈夫、すぐそこだから。それに万が一遅くなっても、私が引っ張り回したってことにすればいいんだよ。折角の縁だしさ、これからも度々ウチに来るなら親睦を深めて損は無いと思うんだ。嫌かな?」
「嫌という訳では……」
彼女の言い分には頷ける部分も多く、そして和菓子ならそう時間はかかるまい。何よりもできる限り、彼女たちの提案は呑んでいきたいと考えていた。
しかし、しかしだ。何を隠そうこの島津紗季、万年金欠なのである。
勿論、それなりに趣味や道楽に費やす程度の余裕はあるが、できれば出費は避けたいという気持ちもあった。親睦なら和菓子屋でなくても家で話せばいい。しかし、打ち明けるのも少しばかり気が引ける。――紗季は数秒ほど悩んだ後、苦々しい顔で告白した。
「すみません……あの、本当に、その。お財布事情が……ですね」
彼女の性格上、それで小馬鹿にしたり付き合いが悪いと苛立ったりすることは無いだろうが、それでも気を遣わせてしまわないかと紗季は怯えていた。
しかし、それを聞いた若菜は「あー」と得心したように手を叩き、思い出すように虚空を見上げながら尋ねてくる。
「そういえば『諸々の事情で遊びを知らない』みたいに言ってたね。そっか、それは私が配慮に欠けてたかも。ごめんね――ちなみに、聞いてもいいかな。紗季ちゃん家ってお小遣い制? バイトとかは?」
「あ、その……諸事情で一人暮らしでして。バイト代で家賃とか光熱費とか、できる限り支払うようにしているんです。だからお小遣いとかも無くて」
「えー!? 何それ!」
若菜は信じられないとばかりに目を開いて声を上げ、気遣うような、或いは怪訝そうな表情で質問を重ねた。
「いや、言いたくなさそうだから『諸事情』の部分は聞かないけどさ、それ滅茶苦茶大変でしょ。ご飯とかちゃんと食べてる? 痩せ型だけどさ」
若菜は本心から心配するように紗季の二の腕へ手を伸ばして揉む。くすぐった感触を覚えるも、手を払うのも気が引けてそれを受け入れつつ、「た、食べてます」と半分だけ嘘を吐いた。食事が喉を通らない日もあるが、基本的には食べるようにしているのだ。
「まあ、それならいいけどさ。しかし、大変そうだね――奢ろうか? って聞こうとしたけど、紗季ちゃんはそういうの好きじゃなさそうだし、私もそういう関係は好ましくないと思っているのでこの提案はしませーん」
反射的に『いえ』と否定しようとした口を閉じて、紗季は腕でバツ印を組む若菜を茫然と見た。意外と価値観が似通っているのかもしれないと驚きつつ、紗季は微かに笑う。
「……そうですね、友人と食事をするなら、私は自分で出したいです」
「よかった、『奢って』って言われたら赤っ恥だった。でも、そういう事情があるならやめておこう。親睦会なんて公園のベンチでもできるんだから」
本当に、よく似た感性の持ち主だ。そう笑ってしまう。
そんな紗季に、「あ、でもさ」と若菜が視線を寄越してくる。
「家に着いたら珈琲淹れるから、交通費として一杯くらいは貰ってよ。こう見えて、豆とか器具とか凝るタイプなんだ。美味しいと思うよ」
少しだけ照れたような表情で、彼女は告げた。絹のような金髪が冬に揺れる。
見方を変えればこれも『奢る』というやつなのかもしれないが、貸しや借りなんて無粋なものではない。自分にそんな権利があるのかは分からないが――彼女が仲を深めるために差し出してくれた手だから、こちらはそれを握り返すべきだ。
いや、紗季はその手を握り返したいと思ったのだ。
その些細な変化はきっと、この短い時間が彼女への認識を『被害者遺族』から『筑紫若菜』へと変えたから。そして、その人柄に惹かれる部分があったからなのだろう。
紗季は微かに笑い、頷いた。
「是非、ご馳走になります」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。