第4話

 それから一週間。ついに、アルバイトの初日を迎えた。


 放課後の喧騒に包まれた教室。水城と筑紫若菜がこの教室を訪れることになっており、紗季はそれまで授業の最終確認を行うべく、自席に座って資料と睨み合っていた。


 『理想の先生になる』『高校受験の数学! 攻略法!』『女子力アップ! イマドキの中学生とはっ?』――紗季が通うのはそれなりに偏差値の高い公立高校だが、入学は推薦合格だった。受験勉強というのは今までやったことが無いが、果たして何を教えればいいのか。


 取り敢えず、一週間を費やして図書館に通い詰めて完成させた指導用の資料を信じる。後はどのようにして最近の中学生と、それも筑紫家と向き合えばいいのか、緊張と共に思案する。頭を捻って、考え付かなくて、頭を抱えて唸り出す。


 そんな様を面白そうに見ていたクラスメイトの一人が尋ねてきた。


「どしたの、島津」

「あ、遠藤さん。いえ……実は家庭教師のアルバイトで中学生に教えることになったのですが、最近の若い女の子とどのように接するのが正解なのか分からなくて」


 泣き言を呟くように資料を眺めながら呻く紗季。


 そばかすがキュートな赤毛の遠藤さんは、「へー!」と興味深そうに目を輝かせて、紗季の手に持つ資料をのぞき込む。「島津も最近の若い子でしょ、ってツッコミは禁止?」「禁止ということでお願いします」なんて言葉を交わす。


 資料を一瞥した遠藤は、ファッションやメンズアイドルがバッシリと乗っている雑誌を鼻で笑って、呆れたように笑いながら腰に手を当てた。


「島津ってかなり生真面目だよね。女子中学生と一括りにしても、オタ系だったら腐が好きだったり乙女ゲーが好きだったりするのも居るし、ヤンチャしている子なら、入れ墨入れてるような奴との付き合いをステータスって考える奴も居るんだよ」

「お、オタケイ? フガスキ?」

「しまった、アンタが仙人なの忘れてた」


 テレビも無ければ、契約の都合上でスマートフォンの利用も必要最小限。情報収集は図書館の新聞ばかりで、俗世に疎いという自覚はあった。申し訳なさそうにカタコトを呟く紗季に、遠藤はしまったとばかりの表情を浮かべて言葉を変える。


「まあ、とにかく先ずは相手を知るところからだと思う。それに、私は家庭教師とかあんまり詳しくないんだけど、相手のプライベートにあんまり首突っ込んじゃダメでしょ。相手も鬱陶しいだろうし」


 そんな身も蓋も無い正論を、しかし、すっかり忘れていた常識を叩き付けられた紗季は絶句し、目を見開いて手元の資料を見詰める。どうやらこの一週間の大半を杞憂に費やしてしまったらしいと気付いて、溜息と共に資料を鞄にしまった。


「……ありがとうございました」

「なんか……ごめんよ」

「……いえ」


 遠藤から励ますように肩を叩かれ、人の温もりに涙した。


 去っていく遠藤を見送って、紗季は資料と向き合う。


 今はとにかく、できる限り滞りなく授業を進められるように備えるべきだ。初めてだからといって手間取っている間にも時給は発生するし、何よりも合格の可否に直結する。それだけは避けなければならない。緊張に鼓動を早くしながら、高校受験範囲を再々確認していく。


 そんな時だった。教室の扉が開いてチョークに汚れた白衣姿の水城が顔を覗かせた。


「島津。準備はいいか?」


 紗季が視線を向けると、彼女の隣には金髪ボブカットの女子生徒が居た。


 髪を染め、ブレザーの代わりにパーカーを着るなど制服も気崩しているものの、ピアス等はしていない。随分と整った顔立ちで、表情は愛嬌のあるものだった。水城の視線から、紗季が家庭教師だと気付いたらしい彼女が浮かべた屈託のない笑みは、不良というよりも奔放という言葉が適切なような印象を覚えた。そっと手が振られる。


 名前は知らなかったが、見たことは何度かある。


 彼女が筑紫若菜――その事実に築いた紗季は、胃がきりりと締め上げられる感覚を覚えながらも、初対面で青褪めた表情など見せられない。脚を抓り、気合を入れ直す。


「ちょっとだけお待ちいただけると」


 慌てて資料を纏めた紗季は、クラスメイト達の好奇の視線を浴びながら、鞄を担いで廊下へと駆ける。たった数歩の駆け足だったが、異常なほどの速度で心臓が跳ね、呼吸が荒くなりそうだった。脳が酸素を求めるが、少しだけ我慢をしてもらう。


 廊下に出ると、通りの邪魔にならない端に避け、水城によって紗季は女子生徒と対面させられた。筑紫若菜。筑紫明人の娘である彼女が目の前に居る事実に、血の気が引いていく。


 しかし、そんな紗季の異常に気付いた水城は、わざとらしく大きい咳払いを一つ。紗季が気を取り直したのを確認して、水城は切り出した。


「さて、先ずは簡単な紹介だけしておこうか。筑紫、こっちは私の幼馴染でもある島津紗季。今日からお前の妹さんの家庭教師を請け負う。成績は良いし性格も善良だけど、諸々の事情があってあまり遊びを知らない奴だ。要は、堅苦しい」

「よ、よろしくお願いします! 島津紗季です!」


 緊張に声も身体もガチガチに強張っているが、どうにか自然体を取り繕いながら挨拶をする。自分ではそれなりに自然な気がしていたが、呆れたような水城と愉快そうな若菜を見た限りでは、随分と面白い挨拶をしてしまったらしく、頬を染める。


「で、島津。こっちが妹から教えを乞われて逃げ出した、家庭教師での元教え子かつ、高校教師としての現教え子、筑紫若菜だ。こんな格好をしてるけど、悪い奴じゃないよ」


 筑紫若菜。その名前を突き付けられ、紗季は激しくなっていく動機を自覚する。


 しかし、そんな紗季の気苦労などよそに、若菜は快活な笑みを浮かべて手を振った。


「悪い奴じゃないけどこんな格好してます、若菜ですー。よろしくね、紗季ちゃん」

「……よろしくお願いいたします。その、筑紫さん」

「あ、それだと妹と混ざっちゃうから名前で呼んで。距離詰められたって一歩下がるようなタイプじゃないから気楽に接してよ。それとも、やっぱり髪色とか怖かったりする?」


 若菜は金色の前髪を摘んで、「染め直すかぁ?」と難しそうな表情を浮かべ、水城はそんな彼女に「染色禁止を校則に書く学校が多いのはそういうことだよ」と、説教を垂れた。


 ぶー、と唇を尖らせて不満を訴える若菜。


 どうやら随分と仲がいいらしいと驚きつつ、紗季は彼女に染め直させたい訳ではないと、早めに訂正をするべく苦笑をしながら首を振った。


「ああ、いえ……怖いとかじゃなくて。その、初めての家庭教師のアルバイトで緊張をしてしまっていました。改めまして、若菜さん。よろしくお願いします」

「そっか。うん、よろしく。敬語とか『さん』とかも追々外してくれたら嬉しいよ」


 どうやら随分とフレンドリーな性格らしく、紗季は距離感に戸惑いながら「善処します」と応じた。


「それじゃ、私の仕事はここまでだ。後は筑紫が職場まで案内してくれるから、島津はそれに付いていく。後は向こうの親御さんと相談の上で今後の日程を調整。そんなところか」

「りょーかいです。水城先生、仲介ありがとうございました」

「何から何まで本当に、ありがとうございました」


 頭を下げる紗季と、敬礼する若菜。二人の礼を受け止めた水城は、何とも言い難い表情を浮かべて黙り、それから後ろ髪を掻いて笑う。「筑紫は、妹に勉強を教えるくらいはできるようになりなさい」と叱り、彼女の不満も聞き入れず、次に紗季を見た。


「島津。頑張るんだ」


 多くは語らなかったが、その言葉には全てが詰まっていた。


 自分の唯一の理解者といってもいい恩師の言葉を聞き、胸が温かくなるような感覚がした。もしも、何がどう悪く転がっても、きっと彼女だけは自分の言葉に耳を傾けてくれるだろうという信頼があるから、紗季は彼女に敬愛を抱いているのだ。


 恩師の言葉を胸に、紗季は若菜と共に歩き出した。

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