第3話

 酷くボロいアパートの錆びた鉄階段を上る。明滅する蛍光灯が目に毒だ。


 水城に送られて自宅に到着したのは、時刻が二十二時になろうという頃だった。


 合計六室の小さなアパート。


 紗季と大家を除く四名の居住者は人との関りを嫌い、入居の挨拶ですらまともに会話はできなかった。部屋は防熱防寒防音共に欠片も対策されておらず、家賃はそれに比例するように安い。――正直なところ、自身のバイト代で払っている身としては、非常に有り難い限りだった。


 父親の入所に伴い、紗季は母方の叔母の家に預けられることとなった。


 しかし、そこには麻薬中毒に加えて殺人をした義兄の娘を疎む家庭だけが存在し、半ば他人のような生活を送った後、中学進学と共にアパートを一室与えられたのだ。


 高校進学以降は生活費と家賃光熱費は自分で支払っており、生活に余裕はない。水城が持ってきたアルバイトの話は、そういう意味でも有難かった。


 慣れた所作で鍵を開けて帰宅をした紗季は、手早く鍵を閉めると、真っ暗なワンルームの部屋を見回す。ただいまの声も聞こえない自室に寂しさすら覚えない。


 紗季は言葉も無く玄関に荷物を置くと、照明を付けてそのまま手洗いへと直行する。


 便器へと顔を近づけると、罪悪感と緊張に押し潰されて搾り上げられた胃から、胃酸を吐き出した。一頻り吐き出した紗季は、ようやく酷い嘔吐感が解消されたことに安堵をしつつ、目尻から零れる涙を袖で拭う。頭に浮かんでくるのは謝罪の言葉ばかりだった。


 紗季は手洗いの壁に背を預け、そのまま力なく腰を落とす。


「どんな顔をすればいいんだろう」


 そっと呟くも、妖精さんや小人さんが答えてくれる道理も無くて、紗季はしばらく悩んだ後に、重々しい所作で立ち上がる。胃酸を流して、洗面台で軽くうがいをする。


 ここ最近は軽い食事ばかりで済ませていた。今日も朝は食べず、昼飯に団体から与えられた軽食を取った程度。夕飯は未だ。胃の中が空っぽだったため、嘔吐も気楽だった。


 ――どうすれば償えるんだろう。


 鈍い頭痛を抱いて顔をしかめながら、紗季は冬の冷気が容赦なく侵入してくるワンルームのソファに座る。水城から貰ったソファには掛布団と枕が乗っている。ベッドや敷布団すらこの部屋には無かった。テレビも無く、娯楽は古本の小説が中心だ。


 紗季は何をすることもなくぼんやりと家庭教師の件に想いを馳せる。


 とにかく、筑紫若菜の妹の受験合格は絶対。そして、それ以上に何かできることがあれば、それを遂行する。何か望まれることがあれば、それには絶対に首を縦に振るのだ。


 何故なら、自分の家族が、あの家庭の父親を奪ったのだから。


 紗季は夕飯をまだ食べていなかったことを思い出して立ち上がろうとするが、鈍い頭痛と淡い嘔吐感を思い出し、力を込めた足を戻す。


「……寝よう」


 テーブルの上のリモコンに手を伸ばして明かりを切った紗季は、ソファの上に倒れる。


 それから瞳を閉じて、いつものように眠りについた。

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