第2話
仄かに明るい夜間照明が足下を照らし、星明りと月光が墓地全体を包み込んでいた。
そんな夜の霊園を、紗季は花を持って水城と共に歩く。乾いた石畳を踏む音が、静寂に満ちた墓地にそっと染み渡っていく。歩く紗季の表情は、とても重苦しかった。
数分ほど駐車場から歩いた二人は、一つの墓を前に立ち止まる。
『筑紫家之墓』と彫り込まれた墓がそこにあった。
筑紫明人――紗季の父親が麻薬に溺れて殺害した男性の名前だ。
墓には新しいものと思われる花と、朽ちた線香が残っている。水気もあった。どうやら既に遺族が墓参りを済ませているようだ。
もう少し早く来ていれば、或いは会うこともできたのだろうが、遺族からは直接や手紙での謝罪を拒まれ、故に弁護士からは止められている。こうして墓参りできるのは遺族の厚意によるもので、それを裏切ることは、紗季にはできなかった。
花を捧げ、背筋を正して合掌する。
十年前、紗季の母親が病気で亡くなった。当時、小学二年生だった紗季は初めて触れる大切な人の死に、わんわんと泣いて泣いて、とにかく悲しんだ。この世界で自分が誰よりも不幸で悲しいんだと思いながら泣いたものだった。
だが、それ以上に深く傷ついていたのが、紗季の父親だった。
白崎孝弘――彼は最愛の妻を亡くしたことで身体に異常を来すほど、精神的に病んでいた。それでも、最愛の妻との間に生まれた紗季を養うために仕事に行き続けた。
紗季はそんな彼のために料理を勉強し、また大切な人を失ってしまうことが無いように、どうにか支えようとした。
しかし彼は日に日に、目に見えて異常な行動を取るようになっていった。
ある日、そんな彼を心配した同僚の筑紫明人が、彼を食事に誘い、相談に乗った。
そして、その日が明人の命日となった。
後の供述によれば、事件の一年前、妻を亡くした一年後から彼は麻薬に溺れていたそうだ。その可能性に気付いた明人から指摘を受け、麻薬中毒者の父親を持たせてはいけないと、隠ぺいするために、娘の為に殺害をした。
そうして、彼は懲役十五年の判決を言い渡された。
その際、紗季は弁護士を通してどうにか謝罪したいという旨を伝えるも、『遺族はそれを望んでいないので、住所と連絡先を明かすことはできない』と冷たく切り捨てられた。
当時九歳だった少女に対する弁護士の対応は当然のものだったと納得している。
しかし、それでも詫びることも許されない状況に罪悪感は募るばかりだった。
ある日、そんな紗季に届いた弁護士からのメールには、墓の所在が遺族の厚意によって記載されていた。それから毎年、こうして命日に墓参りをしている。
合掌を終えてからも、紗季はぼんやりと立ち尽くして墓と向き合い続けた。
謝罪の言葉は幾らでも湧いて、尽きない。
水城は彼女の後ろで煙草の箱を取り出し、場所を思い出してそれを戻す。そして、じっと佇んでいる紗季の思考を堂々巡りから引き上げるように、呟いた。
「思い詰めたって前には進まないよ」
「……分かってます」
「どうだか。毎年言ってるような気がするけどね」
水城は苦笑をこぼす。紗季も、そういえば毎年言われているような気がして、少しだけ頬を緩めることができた。それでも眉尻は落ちて、どこか泣き出しそうな表情を浮かべる。
墓を見詰めて、懺悔するように口を開いた。
「十五年。それが、父の懲役です」
「あと七年は出てこれない訳だ」
「あと七年で、出てこれるんです……筑紫明人さんは、何年経ってもこの墓石を出ることは叶わない。何なんでしょうね、この不条理は」
初冬の風が静かに吹いて、紗季の髪を撫でていった。ふと見上げれば、暗い墓地からは鮮やかな天体がよく見える。冬の大三角とオリオンに、冬を感じた。
暗い顔で呟く紗季の背を、水城は物言いたげに見る。
「それじゃあ君は、いつそこから出てくるんだ?」
そんな問い掛けの意味が分からなくて、紗季は思わず彼女を振り返る。
心の奥底まで見抜くような瞳がこちらを向いていた。そして、紗季は石畳に立つ自分と、離れの砂利道を踏む水城との間に何か大きな境界線を幻視する。
意味を理解した紗季は無理やり笑みを作って、呟いた。
「抜け出したいとは、思ってるんですけどね」
「……そうか」
水城は言葉を噛み締めるように瞳を瞑り、一度だけ小さく頷いた。
それからしばらく、沈黙が霊園に降りる。紗季は墓を前に幾度も胸中で謝罪を繰り返し、それを気の済むまで続ける。結局――死者は死者で、言葉や想いなど届かない。無宗教の紗季は墓前での懺悔を自己満足だと考えているが、それでも、繰り返し続ける。
そんな折に、ふと水城が口を開く。
「ところで紗季。君は最近、忙しいか?」
「へ? い、いえ。予定が空いていたらボランティアやバイトを入れるくらいで、特別に忙しいということも無いです」
「それはよかった。実は君に、三か月程度のアルバイトの話を持ってきたんだ」
急な話で驚いたが、これは思い詰めてしまっている自分を引っ張り上げるためにしてくれた話題転換なのだろう。そう理解して、紗季は意識を切り替える。
「アルバイトですか」
「難しいかな?」
「筋力が要るものとかだと、ちょっと自信が無くて……」
「それなら安心してほしい。個人契約での家庭教師だよ」
家庭教師。その響きを前にした紗季は、安堵の吐息をこぼす。
学力にはそれなりの自信がある。何たって、定期テストにおける学年順位は常に一桁、稀に一位を取ることもあるのだ。保健体育以外の教科評定は全て『5』。
まさしく自身にうってつけと言えた。
「それでしたら……あっ、大学受験とかじゃないですよね!」
「君は私を何だと思ってる。大学受験を控えてる学生に大学受験の家庭教師をさせるか」
「で、ですよね。すみません」
わざわざ水城という教員が直接持って来るのだから、普通のアルバイトではないかもしれないと身構えてしまっていた。杞憂だったらしい。紗季は恥ずかしそうに笑う。
「高校受験だよ。それなりの名門だけど、君の学力なら問題なく教えられる」
「先生にそんな太鼓判を押していただけるのでしたら、私も喜んで引き受けさせていただきます。どの辺りでのお仕事ですか?」
「君が住んでる場所から電車一本で数駅程度。かなり近いよ」
おお、と、紗季は思わず感嘆の言葉を漏らす。
時給次第だが、アルバイトとしては好条件ではないだろうか。
「ただ、この仕事を君に斡旋する前に、伝えておかなければいけないことがある」
改まった物言いに、何か注意事項でもあるのかと紗季は小首を傾げる。
水城の表情はほんの少しだけ神妙だった。
「依頼主の家庭のことだ。実は、私にこの話を持ってきたのは私達の高校の女子生徒でね。それも君と同学年だ――他のクラスだから、恐らく君は苗字すら知らないだろうけども」
個人契約ともなれば水城にとっては身近な人物だろうと思っていたが、まさか紗季にとってもそこまで近しい相手だとは。驚きに目を見開く紗季をよそに、水城は話を続ける。
「その子の妹が高校受験を控えている。入試前の追い込みとして勉強を教えてくれと頼まれたらしいが、本人が勉強を得意としていないものでね。誰かいい人を紹介してくれ、とのことだ。親御さんからは時給三五〇〇円と提示されてる」
「さ、三五〇〇円!? こ、高校受験ですよね!?」
「シングルマザーだけど、いい仕事についてるんだ」
知ったような口ぶりに、紗季は首を傾げた。
「お知り合いなんですか?」
「私の大学生時代の教授だ。大分世話になったものでね、現役に近い方が近い視点で教えられるだろうって、その生徒の高校受験に際しても家庭教師を探してたから、私が無償で引き受けた。公務員は副業禁止だからな。で、その時の縁でこの話が飛んできたんだ」
「なるほど」と、呟く。人生というものはこのように縁と縁が繋がってできているんだなあと感心するばかりだった。それにしても、水城にとっての恩人ともなれば、自分にとっては大恩人ということではなかろうか。これは足を向けては寝られまい。
などと呑気なことを考える紗季を、水城は難しそうな表情で見つめる。
その視線に気付いた紗季は瞳を投げ返すが、彼女は小さな嘆息を漏らして表情を緩める。
「では、その生徒さんの妹さんに高校受験の勉強をお教えすればいいと」
「それで間違いは無い。物腰丁寧な女の子だから上手くやっていけると思うよ」
「それはよかった……ちなみに、その子のお姉さんは私と同じ学校の同学年なんですよね? お名前とか聞いてもいいですか? もしかしたら知っているかもしれないので」
そう疑問を言葉にすると、水城の表情が微かに曇る。
最後の一線を踏み越えるか否か、といったような逡巡を表情に浮かべて思案する水城だったが、この期に及んで取り止める訳にもいかないだろうと考え直す。考え込んだ時の癖なのか、煙草のボックスに伸ばしていた手を戻し、呟く。
「話が逸れたね。それが、私が言った『伝えておかなければいけないこと』、だ。君は知らないと思うし、私も最初は気付かなかった。そう多い苗字じゃないけど、極めて稀って訳でもない。『そう』だと知ったのも最近だと、予め弁明させてもらうよ」
何を言っているんだろうか、と首を傾げるも言葉は遮らず、全てを聞く。
しかし、何となく。何となくだが、彼女の表情と声色に、嫌な感覚を覚える。
水城はその瞳を紗季から墓石へと移す。何か居るのか、と紗季は釣られるように視線を移すも、そこには何も変わらず『筑紫家之墓』と彫られた墓石がある。
煙草の煙を吐き出すように、水城はそっと告げた。
「筑紫若菜。それが、その女子生徒の名前だよ」
『筑紫家之墓』――実父が殺害した男性の眠るそんな墓石を前にして、紗季は目を見開く。全身の血の気が引いていき、脳に血が上らず眩暈がした。たたらを踏んで、額を押さえた。動機が激しくなる。呼吸が少しだけ荒くなって、抑えるのに時間を要した。
尋ねたいことが山ほど浮かび上がってくるのに、口はそれに反して動かない。
冗談。或いは、同性の無関係な人物。そんなことを視野に入れるも、視界に入った水城の表情がそれを否定している。そんな質の悪い冗談を言う人ではない。
紗季は頭痛のする頭を押さえて、呻くようにようやく出てきた声で言葉を紡いだ。
「偶然の同姓……とか」
「私もそうだと思っていた」
つまり、違う。違うということだ。
偶然の同姓ではない。当事者。その女子生徒は自分の父親が殺した男性の、娘だ。
ほんの数時間前にここで墓参りをした被害者遺族だ。
段々と思考の整理が行われていき、紗季は自分が今、提案されたことを噛み砕いて理解する。被害者遺族が家庭教師を探しており、水城がそれに紗季を紹介した。
理解はしたが、現実を受け止めかねて混乱が続く。
会いたいとは思っていたが、向こうの意向を汲んで接触は控えていた。それが、こんな形での初対面を迎えるとは思わなかった。
「ご家族は……私のことを知っているんですか?」
「私の幼馴染で生徒ということ以外は、何も。君が『白崎』という旧姓を名乗れば気付くだろうけれども、何も知らずに君と契約しようとしている」
そう聞いて、紗季は胸に締め付けられるような痛みを覚え、唇を噛み締めながら胸を押さえる。加害者側が、そうであることを隠して接触するなど、そんな真似をできようか。そう考える紗季だったが、その思考を見透かしたように水城が釘を刺す。
「もしも告白と謝罪をしようと考えているのなら、一度、よく考えるんだ。君がその告白をするということは、それは遺族の癒え始めていた傷を抉り直す行為なんだ。前を向いて生き始めていた人達を振り返らせる行為なんだよ」
それを聞いた紗季は、確かにその通りだと言葉を詰まらせる。
「酷なことを言うけどね、君の謝罪は彼女たちにとって一銭の価値も無い。筑紫明人さんが生き返る訳じゃあないからね。ただ、君が背負った荷物を彼女達へと落とすだけの行為だ」
言い返す言葉も無かった。自分は、父親の犯した罪に関して詫びなければいけないと考えていたが、果たして今、それは本当に必要なのか。
ただ、傷口を掘り返すだけじゃないのか。
「いい加減、君は自分を許したっていい。私はそう考えているし、そう考えさせられるほどに君は償いを繰り返してきた。けどね、向こうはそんなこと何も知らない。無神経に生きてきたと思われてもおかしくないし、そんな奴が思い出したように謝罪をしてきたと解釈をされても仕方がないんだ」
それに、その償いは名前も知らない誰かの為のゴミ拾いや給仕等。自分は直接的に彼女たちに対して何かをしたことはないし、何もできることが無い。
自責と自己嫌悪から来る激しい頭痛を堪える紗季に、水城は続けた。
「謝るべきではないと思っているし、必要も無いと私は思っている。それでも君が告白と謝罪をしたいと、するべきだと考えるのならそれは止めない。ただ、もしもやるなら今私が言ったことを念頭において、頃合いを見計らって、だ」
紗季は俯いて石畳を見詰めながら、「……はい」と呟いた。
自分がどうするべきか、どうしたいのか今は分からないが、ただ、もっと深く考える必要があることは確かだった。
「それで、どうする? 君にとっては辛いバイトになるかもしれない。断ってもいい」
水城を見れば、彼女は本心から紗季を心配するような表情を浮かべていた。
送り迎えをしてくれたり、度々気にかけてくれたり、こういった話を持ってきてくれたりと、本当に水城には頭が上がらなかった。
きっと彼女は、本心から断ってもいいんだと考えている。
しかし、告白をするにしてもしないにしても、実父が殺めた相手の遺族を何も知らず、ただのうのうと墓参りだけ繰り返して生きていきたくはない。隠して会うのは狡いと思っているが、それでも、自分は知らないといけない。
そして、もしも家庭教師を望んでいるのだとしたら。
「引き受けさせてください。必ず妹さんを合格させて――ほんの少しでも償います」
そう告げた紗季の表情から腹を括ったことを見抜いて、水城は「そっか」と微かに笑った。
被害者遺族が加害者家族に家庭教師を依頼するとは、随分と数奇な運命だ。
ようやく眩暈や頭痛も収まってきた。
しかし、代わりに、胃が引き絞られるような吐き気を覚える。気を抜いたら昼に支給された軽食を戻してしまいそうな感覚をどうにか殺して、人前や霊園で吐いてしまわないように気張る。これは緊張だろうか。或いは、罪悪感が行くところまで行き着いたか。
それでも紗季は、表面上は平静を装って水城にこれ以上の心配をさせない。
「初回は仲介者としてこちらで日程時間の調整をしておくから、詳細は追って連絡する。次回以降は当事者同士で話し合ってくれ」
お願いします。そう呟くと、自分が被害者遺族に会うのだということを再認識して、どうにかなってしまいそうだった。紗季は心に溜まった毒を深呼吸で排出し、空を仰ぐ。
心の曇り模様に反して、空は憎いくらいに綺麗だった。
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