父が人を殺した。遺族に恋をした。

4kaえんぴつ

第1話

 千葉県南部、海岸線。時刻は午後五時。


 晩秋、或いは初冬のこの季節に、空は既に紫紺に染まっていた。


 そんな海岸線周辺で、数十人程度の清掃ボランティアがゴミ拾いをしていた。黙々とゴミを拾い続ける者も居れば、友人との談笑の片手間に行っている者も居る。


 しかし、それでも老若男女、出身地も問わずに集まった彼等は、自分が出した訳でもないゴミを、誰かの為に拾い続けていた。


 そんな集団の中、一人静かに浜辺のゴミを拾い続ける少女が居た。


 齢は今年で十七歳、高校二年生になる。顔立ちは非常に整っており、艶やかで微かに癖のある髪を背中まで伸ばした、細身の少女だ。


 島津紗季は缶を二、三個入れて腹八分目になった袋を縛ると、ポケットから袋を取り出して周囲を見回す。この辺りのゴミも残り僅かだ。時間は午後五時までだという話だったが、この際、多少は仕方がない。凝り固まった身体を伸ばして「うーん」と気合を入れ直すと、ふと、初老の女性が歩み寄っていたことに気付く。


「あらあら、お疲れね」


 紗季と同じボランティア活動中の女性だった。


 高校の振替休日と開校記念日、そして土日祝日と五連休を獲得した紗季の、五日間に渡る海岸清掃の全てで顔を合わせている。未だ名前は知らないが、殆ど顔見知りと言ってもいい彼女に、ヘソが見えるくらい身体を大きく伸ばしていた紗季は、恥ずかしそうに頬を染める。


「お、お疲れ様です」

「五日間も本当によく頑張ったわね。若い子が休日を返上して他人のゴミを拾うなんて……私の若いころじゃ考えられなかったわぁ」


 女性は頬に手を当てて懐かしむように笑う。紗季は誰に言われることも無いだろうと思っていた労いの言葉に微笑み、「ありがとうございます」と返す。「お姉さんも、まだまだお若いじゃないですか」と続ければ、あらやだ、と女性は屈託のない笑みをこぼした。


「お嬢ちゃんは高校生?」

「はい、高二です。振替休日と開校記念日が重なって」

「あらもぉ、青春を謳歌するべき時代に何をやってるのよ」


 耳が痛いばかりで、紗季は思わず苦笑を返した。


「ところで、もう終了の時間だけどまだ続けるつもり?」

「そうですね、もう少しで片付くので、それだけ済ませてしまおうかと」

「それじゃあ、お婆ちゃんもお手伝いしちゃおうかな」


 女性はそんなことを言いながら、ゴミ袋を取り出してトングをカチカチと鳴らす。


 自分の気まぐれや我がままに他人を突き合わせるのは気が引けたが、何故だか同じように考えてくれる人が他にも居ることが嬉しくて、紗季は笑う。「お願いします」と、トングを鳴らした。


 それから二人は他愛のない談笑を交わしながら、浜辺に落ちているゴミを拾っていく。


 紫紺だった空が宵闇に染まってきた頃、明かりは仄かな街灯に代わる。粗方のゴミを片付け終え、視界不良ということもあり、二人は適当な頃合いで終了の目処を付けた。


 出来上がったゴミの束を収集車が通る場所へと運び、紗季は長い戦いの終わりにため息をこぼした。ふと、そんな紗季を見た女性が尋ねてくる。


「そういえば、お嬢さんはどうしてボランティアなんて?」


 『なんて』とは聞く人によっては眉を顰めそうな物言いだったが、彼女からすれば、先程も言った通りに若い人物が休日返上してまでやることではないと思っているのだろう。


 既にこの生活に馴染んでしまった紗季は、束の間、自分が何故こんなことをしているのか当たり前すぎて分からなくて、返答にあぐねる。


 そして、少しだけ立ち止まって己の人生を振り返ると、確かに胸の中に刺さっていた楔を再確認できる。それを少しずつ言葉という枠組みに落とし込んでいき――けれども、徒に誰かに話すようなことでも、話したいようなことでもなくて、紗季は押し黙った。


 しばらく考えた後に、紗季は取り繕った笑みを浮かべて告げた。


「……誰かの為に、何でもいいから行動をしたいんです」


 女性は紗季の表情から何かを察したような素振りを見せるも、何を言及することも無く笑みを浮かべて「立派ねぇ」と紗季を讃える。けれども、そんな称賛を受け止められるような人間でないと自覚する紗季は、微かに視線を逸らして、笑みを取り繕うのにも苦労しながら、「そんなことないですよ」と、丁寧に、しかしどこか真に迫る声で呟いた。


 空は既に真っ黒で、星が鮮やかに浮き上がっている。


 そっと吐いた吐息が淡く白く染まって秋の終わりを感じた。


 それから、諸々の作業を終えて責任者への報告へと向かう。


「家はどこなのかしら?」

「東京です。二十三区の」

「あらま、千葉から帰るんじゃ大変でしょうに……途中までなら送っていけるわよ?」

「あ、いえ。迎えが来てくれているので」


 来ていなくても、そこまで世話になる訳にもいかない。


 厚意を断るのは気が引けたが、紗季は丁重に断る。しかし、女性は微かも気分を害した素振りは見せず、「ならよかった」と笑った。


 近くの駐車場の一部を借りて、ボランティアの主催が名簿を手に待機している。彼等に終了の旨を伝えれば五日間のボランティアも終了だ。


 有意義な五日間だった、と報告に向かおうとする紗季は、ふと駐車場に見知った車が一台、停車していることに気付く。窓を閉じて中で煙草を咥えている気だるげな女性に心当たりがあった。そんな紗季の視線に気付いた女性は、煙草を手早く消すと、窓を開けて小さく手を振ってくる。彼女に一礼を返し、それなら手早く報告を済ませようと歩調を早める。


「お迎えの方? お若いわねぇ、お母さん?」

「あ、いえ。学校の先生です」

「そうなの、いい先生ね。それじゃ、あんまり待たせる訳にもいかないでしょうし、おばさんが報告済ませておいてあげるから、もうお帰りなさい」


 初老の女性は紗季からトングを奪うと、有無を言わせぬ調子でポンと背中を叩く。


 そんな人に押し付けるような真似を――そう言おうとするも、彼女の屈託のない笑みを前に、紗季は何を言うこともできなかった。少しだけ迷ったが、微かに笑うと彼女に向き直り、紗季は深く頭を下げる。


「すみません、お言葉に甘えます――五日間、お疲れ様でした」


 手を振る彼女に、紗季も手を振り返す。


 ボランティアなど、好んで参加する者はそう多くない。千葉の辺りでの活動なら、また会うこともあるだろう。そんなことを考えながら、紗季は車へと駆けて行った。




 人気の少ない高速道路を走る一台の普通自動車。ヘッドライトが照らすのは無機質なアスファルトとガードレール、後は真っ暗な森だけだった。


 嘉悦水城教員は気だるげな横目で紗季を見た。


「お疲れ様、五日間も大変だっただろう」

「そうですね……海岸線って意外とゴミが溜まってます」

「特に浜辺なんかは潮に流されてくる物もあるからな。不法投棄もある」


 肩先程度の真っ直ぐな黒髪と、真っ白な肌をした二十代半ばの数学教諭。瞳はいつも気だるそうに少しだけ閉じており、車からはヤニの香りがする。上背でスレンダー、整った顔立ちと格好の付いた所作から主に女生徒に人気のある女性だ。名前を嘉悦水城といった。


「水城さ……嘉悦先生もありがとうございます。迎えに来てくださって」

「今日はオフだ、『君の幼馴染のお姉さん』として来てる。水城でいいよ」


 ハンドルを握ったまま淡々と告げる彼女に、紗季はそっと頷き返した。


 水城は紗季の通う高等学校の数学教諭であるのと同時に、幼少期の紗季の遊び相手になってくれていた、所謂ところの幼馴染という人物でもあった。互いに公私は区別するタイプだ。呼び方には気を遣っている。


「ところで、どこか寄りたい場所は? このまま墓参りに直行して大丈夫かな?」

「はい……すみません、こんな遅くに。何から何までご迷惑を」

「いいよ別に。八年経つとはいえ命日の墓参りだ、昼間に行ったら遺族に遭いかねない。墓前で会うのはキツいだろう。誰の為にも、君の墓参りはこれくらいの時間が一番いい」


 相手の為にもなるんだ、と遠回しに紗季の選択を肯定してくれているが、実際、紗季は遺族にどう顔を会わせればいいのか分からないだけなのだ。ただの一度も面と向かって話したことが無い相手に、墓の前で何を語ればいいのか。


「本当に、水城さんにはご迷惑をおかけします」

「そう言うな、私だって少なくない負い目を抱いてる。それに君の幼馴染だし、先生なんだ。少しでも前を向いて歩けるように手を貸してやるのが、私の役目だろう」


 水城は淡々と、けれども心に訴えかける熱を持って言葉を紡ぐ。


「紗季。こんな言い方をするもんじゃないってのは重々と承知してるが――」


 言うべきか否か寸前まで迷って、一拍置く。そして、煙草の煙を吐き出すように呟いた。



「――君の父親の殺人だ。君がいつまでも負い目を抱いたってしょうがない」



 そっと紡がれた言葉を聞いた紗季は、唇を噛み締めて俯く。


 適切な返事は何一つと思い浮かばなくて。彼女の言っていることは理解できるし納得できる。それでも紗季は欠片も自分を許せなかった。償うべき相手も亡くなって、今や償える相手も居らず、ただ慈善活動に勤しみ続けている紗季は、その言葉を反芻する。


「もしも君の殺人だったら、君の父親は反省するべきだ。でも逆はさ、どうしようもないんだ。どうしようもないんだよ、紗季――彼が妻を失って麻薬に溺れたことも、その果てに職場の同僚を殺すことも、君には止められなかった」


 苦虫を嚙み潰したような表情で押し黙り、それから窓の外を一瞥する。


「……止められないことかもしれないですし、仕方がないことなのかもしれないですけど、だからって全てを忘れて生きるなんてできません。どうしようもないことだったとしても、私の家族が人を殺めてしまったんです。私自身がそれを許すなんて、できません」


 だから、島津紗季は事件から八年が経過した今も、もう当事者に届けることすらできなくなった償いを、名前も知らない誰かの為に延々と繰り返している。


「人は……死んだら帰ってこないんです」


 母親を失った経験があるからこそ、家族を失う痛みを知っている。


 家族を失う痛みを知っているからこそ、家族を奪う罪を知っている。


 そして、その罪は一人の人間だけでは背負いきれない。紗季にとって加害者家族という括りは、結局のところ、その罪を理解して支えるべきだという一つの罰なのだ。


 水城は静かに紗季の言葉に耳を傾け、吐息を漏らす。


「償ったって帰ってはこないだろうに」

「……分かってます」

「罪悪感を抱くなとは言わないよ。でも、君は人生を投げ捨ててまで贖罪に生きようとしている。無駄なんだ……罪には法律が罰を与え、徳に反する行為は糾弾によって私刑が下される。君はそのどちらでもなかった。だから、君は誰からも罰されず、誰にも許されない。存在の不確かな罪に向き合い、延々と自罰を繰り返すんだ」


 そんな無為な話があるだろうか、そう胸中で締めくくる水城。


 こんな話は、今まで何度もしてきた。その度に紗季は苦しそうな顔をするが、それでも現状は変わらない。何を、どう償えばいいのかは分からなくても、己の家族の罪を背負って生きようとし続ける。生きづらい性格をしているものだった。


「いっそ誰かに厳しく非難でもされれば、君はもう少し自分を許せたのかもしれないな」


 夜を静かに走り続ける普通自動車。煙草の香りが漂う車内には重苦しい沈黙が漂う。


 被害者の眠る霊園までは、もう少しだけ時間が掛かりそうだった。

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