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  • 「自殺」への応援コメント

     荒井由実の、『14番目の月』という曲があります。明日が満月だと、分かりきっている月。そんな見え透いた好景気があるなら、と思うものです。もちろん、はなからそんなものは期待することはなく、これまで。
     愚か者は、金を得て喜ぶと自己啓発名言集(なんか、かつての先公が飾ったもので)にありました。自分は、その収入に背中が寒くなりました。暗黒の木曜日(世界恐慌の発端)に身を投げた投資家も震えたことでしょうか。

     ちょっと書き口を変えてみました。

    作者からの返信

    一盃口様
     荒井由実さんですか。前々から思っておりましたが、渋いですな。
     金を得て喜ぶ。
     こちらも恩師のコトバを紹介するなら。

    「若き日に書をどれだけたくさん読んだかによって、その人の人生の質は決まります。勘違いしないでください。「人生の質」とは、お金持ちになれるかなれないかといったようなケチな話ではありません。「人生の質」とは「人生の指標」のことです。どんなにお金を持っていても、人生の指標を持たない人は、お金を無駄に使います。それに対し、人生の指標を持っている人は、お金を“心のために”使います。」
     と、いうものです。私はこの方から半年間、哲学をご教示いただいたのですが、少なくとも、金、これの量が幸福でないことは間違いないでしょう。
     現在でも有名なさだまさしという歌手は、初任給を手にしたとき「悪魔と契約したような気分になった」と思われたそうです。私は、大学生一年のとき、国から計30万のコロナ給付がおりて、アルバイトの稼ぎもあったものですから、それは、浪費した記憶が御座います。ロクなことに金を使いませんでした。給料日に悪魔と契約...など考えもしませんでしたね。
     なぜ、二者はこのような、金の危うさを気づけたのでしょうか。ひょっとすれば、私のような経験があるからかもしれませんが、ある種、金以上の幸福を知っているからだと思われます。さて、その見つけ方とは、、、恩師の胸を借りるとすれば、ホンモノの書を読むこととおもわれますし、我々が気取って書いている評論は、思うに、それと等価に思われますな。

     返信遅くなり申し訳ありません。
     ハイデッカーについてのメールも確認させていただきました。また気が向いたら返信ご確認ください。

                                     東

  • 「死にたい」についてへの応援コメント

     ハイデガーを感じました。死へと向かう存在である人間。決意が、僕に欲しいものです。

     逆に渋めな曲を提示します。オフコースの『もう歌は作れない』です。あの曲の中の気まずさはなんとも言えないものがありまして。あれは逃げですが、なんだか一つの純真さがあるようで、

     僕も、病むことも結局は現実逃避だな、と考えたのも、恩師に指摘されたのもあり、哲学に歩むことにしていました。今も。大学は工学系になりますが、なるべく学びの中に自分を見出そうというか、没頭しようかなと思っています。

     ここのカクヨムには、割と相談系があるのですが、あそこの問答の言葉選びはとても難しいんですよね……。絶対たまに返答をミスってますから。僕以外の人も。

    作者からの返信

    ハイデッカー(ドイツのヒトでしょうか)。ドイツモノは好きなのでおすすめがあれば教えてください(例のメールでもかまいません)。
     死へと向かう存在、ショーペンハウエルの自殺について(意志と表象としての世界かもしれない)に死への面白い捉まえ方が書いていたはずです。先日イェール大学教授が書いた「死」という題目の本を借りましたが、こちらでも良いかと(表現がいくらも読みやすい)
     なかなか、渋い曲を紹介いただいたようで、私は森田童子の「たとえばぼくが死んだら」をお勧めします。
     あなたのいうように、やはり病むことも現実逃避ではあるのですが、「人間の尊さは自分に苦しめるところにあるのさ」(坂口安吾.風と光と二十歳の私)にもあるように、現実逃避といえども、ある種、思想、文化の源流がそこにはあると思われます(話すと長くなるので割愛。)

     工学系ですか、わたしは生命工学系ですが、自然科学にも哲学はあります。論文一つ書くにしたって、引用の著者を呼び捨てにする。この行為は「尊崇の情に訴える論証」を避ける(あるいは、劇場のイドラを避ける)という目的があるのです。自然科学がめっきり哲学と乖離したものではないので安心されても良いかと、それに、工学とはなにか、科学とはなにか、そう考えるのも、科学観という名の一つの哲学であります。哲学を、学問を越えた、常識、偏見を捨てた思錐に対する形容であると仮定すれば、なおのこと、何学部であるとかは関係ありません。人間である以上、哲学はするものですから。
     さて、わたしも、志望校には行けなかった人間です。ただ、まぁ、そこで人間ひねくれるのも一興でしょうな。いかなる思想を生む人も、常にはみ出し者ですからね。

     相談系なるものがあるのですか、問答ですか。難しい問題ですね。