2004年

灰田宗太朗

2004年

自動車の走行音を抜けて、深く重い音が聞こえる。

一帯に響くその重低音は、次第に大きくなっていた。

地鳴りを想起させ、不安にさせる。

しかしそれが可能なのは自分たちだけだ。


50年前の避難以降、ここら一帯の居住が許可された事はない。

建築物もとうに朽ち、かつてそれに絡み付いた蔦植物のみが残っている。

青々と茂るそれらが、ここはもう人の領域ではないと告げていた。


走行していたはずの車は、いつの間にか停まっていた。

道路脇の、草木に埋もれたポールには、観測地点Aとゴシック体で書かれている。

「ちょっとすみません」

そう言いながら、柏木は運転席から助手席の窓へと身を乗り出した。

自分を強引に乗り越え窓を開く。

言葉とは裏腹に、一切の申し訳なさを感じさせない挙動だった。


柏木が動くたび、肩が鼻に幾度も押し付けられた。

臭い。

そういう事を気にしないのだ、この女は。

髪の焦げる様な異臭が鼻を刺す。

一体どんな生活をしているというのだろう。


「あ 見えました 見えました」 

双眼鏡を構えた柏木がさらに身を乗り出す。

肘が眼鏡に衝突する直前に、自分の座席を後ろに倒した。

異臭の原因は柏木だけで無かった。


後方の窓越しに見えるまっすぐと伸びた特区横断観測用道路。

それは別の道に隣接する様に作られている。

整えられた道路とは違い、荒々しくえぐられた、地肌がむき出しの巨大な溝。

その先に続く太平洋。

その表面がうねっている。

数度持ちあがった後、先ほどから更に大きくなっていた重低音が止んだ。


爆発。


そうとしか形容出来ない音とともに巨大な柱が建つ。

大量の水が一気に持ち上げられ、水柱が形成される。

水柱は落下途中でそのまま霧となり、そして今度は土煙となった。


上陸したのだ。

かつて自らが刻んだ溝を辿り、土煙は次第にこちらへと近づいている。

時速40km程といったところか。

後部座席に変わって取り付けられた、無線機を操作する。

「9時13分A地点 目視で上陸を観測」


報告を投げると、もはや脚しか車内にいない柏木を押し除け、運転席へと移った。

「あー もう少し」

窓に挟まった柏木の喚きを無視し、観測車のサイドブレーキを外した。

アクセルを踏み込み車を発進させる。

「もう少し近くで見ましょうよー」

バックミラーで土煙が再び遠のくのを確認する。

しかしアレの足音は依然として響き続けていた。


「確認は終わった 窓を閉めろ臭い」

不満げな柏木のスーツの裾を引っ張り、車内にとりこむ。

それでも窓に顔を擦り付け、鼻息と額の油で必死に曇らせていた。

かけている眼鏡がガラスにぶつかり、小刻みに硬質な音が鳴る。

「やっぱり開けろ 臭い」

「仕方ないじゃないですか 夏なんですから」

アレから遠のき、今更のように暑さを思い出す。


車載クーラーは暑さに敗北し、ほとんど機能していなかった。

新しいとは言えない車なので仕方がないが、やはり予算の縮小が痛い。

今や、アレに興味がある人間はごくわずかだ。


柏木は不満げに、後ろ向きで体育座りをしている。

当然シートベルトはしていない。

封鎖された特区道路でなければ、そろそろが免停になりそうだ。

いや、本当はここでも暴走していいわけは無いが。

だが柏木も、平時ではここまでの挙動はしない。

やはり初めてここへ来て、浮き足立っているのだろう。


「本当に好きなんだな わざわざ希望したんだって? 今どき珍しい」

「そりゃやっぱ生で見たいですもん 正規の手段だと 今は基本ここしかないじゃないですか」

柏木が自身の脇の匂いを嗅いぎながら、怪訝な表情をする。

シャツを仰ぐと異臭が車内へ広がった。

「侵入しても誰も止めやしないよ」

深く踏み込んだままだったアクセルを緩め、再びミラーに視線を向ける。

ただ道と植物だけが見える。


「まあそうでしたね 先輩は?」

視線を戻すと柏木の顔が真横にあった。

いつの間にか座席にきちんと座り直している。

正座している。

「嫌いだよあんな奴」

眼鏡の奥、若干緑がかかった虹彩の中心、瞳孔に俺が映る。

「やっぱ先輩も臭いですよ」

ダッシュボードからタオルを取り出して、汗を拭った。


「うお」

飛び出してきた獣の目前で、急ブレーキをかける。

車が大きく揺れた。

猫、いやテン、狐だろうか?

暗くてよく見えない。

獣は素知らぬ顔で、再び道路脇の植物の影の中へ消えていく。

「運転変わりますね」

「ああ よろしく」


夏といえど20時過ぎ。

日はすっかりと沈んでいた。

街灯も無いので、周囲は暗闇に包まれている。

道を照らしているのは、車のヘッドライトのみだ。

人は居ないとはいえ、この暗さだ。

運転には神経を使う。

ましてや今日は一日中この車の中だ。

獣といえど轢きたくはない。


外気に生臭さを感じる。

自分たちやアレのものでは無い。

海が近いのだろう。

太平洋から日本海側まで抜けてきたのだ。

そろそろ終点、観測地点Dだ。

そこまで走らせ一晩を明かす。

起きた頃には、丁度アレもこちらに到着する筈だ。

「あ」

柏木が小さい声を漏らすと車が停まった。

ヘッドライトがポールを照らしていた。


車を脇に寄せ、トランクからいくつか荷を下ろす。

観測自体は何度もしているが、

道路のど真ん中での野営をするのは、どうにも慣れない。

スーツを脱ぎ、ペットボトルの水でタオルを濡らす。

汗ばんだ首筋を拭うと、夜の外気に冷やされ、心地良かった。

虫の音が聞こえる。

複数種の物が合わさりコーラスとなる。


住民がいなくなったことにより、特区一帯は生態系が多様さを取り戻している。

近年は、その手の調査調査届の書類に、ハンコを押すのが主な業務となっていた。

シャツを脱ごうとしたところ、柏木が横でバーナーコンロと鍋を使い、カップうどん用のお湯を沸かし始めた。

折り畳みのイスに座り、怪しげな笑みを浮かべながら見つめている。

外しかけていたボタンを戻す。


「先輩は見たんですよね 近くで」

「昔一度ね」

「小賀さんの時ですか?」

前任の上役だ。

結局、出世街道から外れた事に耐えられず、別の道へ進んでしまった。

「いやもっと前」

「え 先輩そんなに長いんですか?」

「小学生の時だよ 学校を休んで自転車で」


アレを見ることで何かが変わる。

あの時はそう思っていた。

でも実際は、只々、自分の矮小さを感じただけだった。

あの頃は誰もがアレに夢中だった。

テレビも大きく取り上げていたし、学校でも話題にならない日は無かった。

どれだけ自転車のペダルを回そうが、自分もその中のただの一人にすぎないのだ。


「伸びますよ」

柏木はカップうどんに乗った、熱々のお揚げにかじりついていた。

ミニテーブルに置かれた自分のうどんの蓋をめくる。

カップ麺特有の、甘い匂いを含んだ湯気があふれた。

「暑いな」

「キャンプといえばうどんですよ」

かなりの汗をかいた。

濃い味が染みる。


「良いですね 行動的で」

柏木はカップを持ち上げ汁をすすった。

「バカなだけだよ 似たような事やったやつはいくらでもいただろうし」

腕に止まっていた蚊を叩き潰す。

すでに吸われていたのだろう、俺の血が体内から溢れた。

「でもやったし それでここまで来たんですよね 私だってそりゃ考えたりはしましたよ でも結局はやらなかった まあそれでもここまで来ましたけど」


汁完飲。

柏木は食べ終えたうどんのゴミをまとめて袋に入れると、車の中で寝袋を広げ始めた。

自分も書類をまとめて寝るとしよう。

明日は早い。

すっかりと伸びたうどんをすすった。


顔の痒みで目が覚めた。

頬をたたくと、蚊が視界の端で逃げて行った。

柏木が観測車の中で寝たため、自分ひとり、外で寝る羽目になった。

一応虫よけは用意していたのだが、あまり効果が無かったらしい。

来年は別のメーカーの物にしよう。


朝靄がやけに濃い。

数メートル先の観測車すら霞んで見えた。

寝袋から出て、体をほぐす。

深呼吸。

肺に目一杯取り込んだ、土煙、そして髪の焦げるような匂い。

大きく咳き込んだ。

土煙の向こうから、大きく地鳴りが響いてくる。

近い。


これまで通り遠方から観測する予定だった。

しかしこんなに早く到着する速度では無いはずだ。

袖をめくり腕時計を時計を見ると、デジタル表記の数字は予定していた時刻を大きく過ぎていた。

タイマーは確かに設定したはずだ。

おそらくあいつの仕業だろう。


「柏木!」

声を張り上げ周囲を探す。

音は地鳴りの範疇を超えていた。

アレがかなり近くまで来ているのだろう。

土煙で見えない。

「おはようございます 先輩」

上から声がした。


見上げると観測車のルーフで、柏木が仁王を立ちしている。

「おまえー!」

下から呼びかけるも一切その場から動く気が無さそうだ。

自分もルーフへよじ登る。

「見えた!」

柏木の歓声に合わせ、振り返った。


巻き上げられる土煙。

その中心から巨大な岩の塊が浮かぶ。

末広がりのシルエット。

岩の塊は二本の脚でゆっくりとこちらへ向かってくる。

脚を持ち上げ下ろす。

その動作の度、周囲に地鳴りをおこす。


約100メートル、推定20000トンの巨体。

この世でたった一匹の生物。

像の様な脚。

蛇の様な尾。

熊の様な腕。

狼の様な牙。

人の様な瞳。

あらゆる生物とも似ているし、あらゆる生物とも似ていない。

体表の隆起は脊椎に近づくほど激しくなり、中心で大きく咲く。

それは自らが生命の祖であることを示す王冠の様だ。


50年前、突如として太平洋に現れた彼は、周囲を蹂躙しつつ本土を横断し、大災害をもたらし消えた。

しかしそれは一度では済まなかった。

以来彼は、ほぼ例年、決まった時期に、同じこの場所を横断していくようになった。

渡りに似た習性である等、諸説あるが、そんなことはどうでもよい。

足元の自分たちに目もくれず、一点に視線を結び、ひたすら真っ直ぐ進み続ける。

何度も。

何度も。

何度も。

何十年も。

いや、俺たちが観測してきたのはごく一部なのだろう。

ずっと繰り返してきた。

その愚直さが、不変性が、美しさが、憎らしかった。


「やっぱり」

柏木は手元の端末を確認している。

何かと思えばガイガーカウンターだ。

出現当初、彼からは高濃度の放射線の放出が確認されていた。

観測時には防護服等と共に装備が義務化されていたのだ。

しかし次第に安定化していき、今やこの至近距離で無装備であっても問題ないとされた。

はるか昔の話だ。

「そんなもの 今更 まさか」

「逆です 下がり続けてるんです」

測定器を覗くと、基準値をはるかに下回る数値を示している。

流石に異常な数値だ。

「もうじき死ぬんですよ」

柏木が言った。


もうずっと彼から目を背け続けてきた。

確かに、昔見た彼の姿とは違う。

硬く分厚い体表も、動くたびにパラパラと剥がれ落ちている。

その表面には、藻のようなものがこびりついている。

頭より高い位置にまっすぐと伸びていた尾も、首の下あたりにとどまっていた。

永遠と思えた彼が老いている。


「そうか俺たちと同じただの…」

俺の手も、あのころと比べ随分と固く、分厚くなった。

彼が溝を削りながら、ゆっくりと俺たちの目の前を横切っていく。

あの時と同じく向こうはこちらに一切の興味を示さない。

だが自分は視線を外さなかった。


水音とともに煙が消えていく。

昨晩は見えなかったが、溝の先には日本海が広がっている。

朝日が海面を照らし反射光が瞬く。

彼はそこへ現れた時よりも静かに身を沈めていく。

やはりその背中の隆起は王冠の様であった。


「こちら柏木 7時5分E地点 目視で通過を観測」

報告は任せ、自分は荷物をまとめる。

寝袋は砂まみれだ。

シャツも黄ばんでいるので叩いて落す。

車のエンジンをかける。

ブレーキを外し。

ゆっくりとアクセルを踏む。

「くそ、まだ臭いな」

「私は嫌いじゃないですよ」

その年が最後の観測作業となった。













2016年。

12年ぶりに上陸。

これまでに類を見ない放射線度。

周囲への汚染は深刻。

経路を大きくはずれ、初上陸時を上回る甚大な被害をもたらす。

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2004年 灰田宗太朗 @Hai_daS

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