アイのリンゴ、楽譜、焚き火

 何がどうなってそうなったのか、よくわからなかったがとりあえず秋も深まる十月。ぱちぱちと火花の爆ぜる音を聞きながら、チタン製だというやけに薄っぺらいマグカップに注がれたコーヒーに口をつける。ふわりと漂った香ばしい匂いに、ほっと強ばっていた肩の力が抜けた。

「こういうとこで飲むの、美味いよね」

「そうですかね?」

 カップを手渡してくれた相手に淡々とそう返すと、隣からおずおずとした声が聞こえてくる。

さくちゃんは、キャンプ好きじゃない?」

 ふわりとした金褐色の巻き毛を揺らして、不安そうにこちらを見上げてきた顔に、彼女は少し動揺する。こんな小さな生き物を落胆させたくはなかったけれど、問いに対してイエスと即答できるわけでもなかったので。

「……どうかな。初めてだから、好きかどうかもよくわからない——」

「じゃあ、楽しいこといっぱいしようね!」

「そ、そうだ……ね」

 急に期待に満ちた眼差しに変わった淡褐色ヘイゼルの瞳に、さらに動揺して語尾が途切れがちになった。

 くつくつと笑う声に眼を向ければ、小さな天使の保護者であり、彼女をここに連れてきた張本人がアルミホイルに包んだ何かを焚き火に放り込んでいるところだった。こちらに向けられた眼差しは、彼の娘に向けられるのと同じくらい柔らかくて、そしてどこか違う色をしている。


 彼女が知っているのは、概ね仕事と育児で疲弊している姿ばかりだ。なのに、決まって彼女が一番必要な時に平然と手を差し伸べてくる。そんな時は、やけに余裕に見えたけれど、それは相対的に彼女の方に余裕がないせいで、彼から見れば同じように見えているのだと知ったのが、つい先日のこと。


 互いに少しずつ内実を開示して、そうして、こんなふうに見知らぬ場所で、一緒に焚き火を囲んで夜空を見上げている。


「楽しいことって、何があるんですか?」

 あんまりにも余裕な表情が少し悔しくて、カップに口をつけたままそう尋ねると、相手は肩を竦める。

「そうだな。もう少ししたらあっちの鍋のパエリアが煮えるから、そうしたら肉を焼き始めて、それから——」

「あと焼きリンゴもするよ! アイのリンゴで!」

「あ、あいのりんご……?」

「エリちゃん、ちょっと色々誤解を招くね、それは……」

「え、でもアイのリンゴのチーズ焼き、美味しいよ?」

「ち、チーズ焼き……⁉︎」

 全く理解が追いつかない彼女に、無精髭の相手はやれやれと言いながら立ち上がって、クーラーボックスから真っ赤な球体を二つ取り出してきた。艶やかなそれらは、一口に赤、といっても全く別の色合いをしている。

「リンゴと……トマト?」

「はい正解」

 言いながら、彼はそれぞれの芯をくり抜き、アルミホイルに包んで、一つにはチーズを、一つにはバターと砂糖を詰め込んでシナモンを振りかけると、グリルの上に載せる。どちらに何を入れたかは、まあ想像の範囲内だったけれど。

「トマトって昔、マンドレイク——マンドラゴラの一種だと思われていたことがあって、その……媚薬として用いられたりすることがあったんだって。それで『愛の林檎』って呼ばれることもあったそうで」

「ああ、それで、アイのリンゴ? あんまりお子さんに話すのに最適な昔話じゃない気はしますけど」

 声を潜めて保護者にそう言った彼女に、けれど金色の天使は脇から平然とにっこり笑う。

「愛はとっても大事なものでしょう? だから、エリはトマトだって食べられるようになったの。おとうさんのことも大好きだから」

「そ、そう……」

 どうやら好き嫌いをなくすための方策だったらしいと理解して、それ以上の追及は控えておく。

「焼き上がるまではもう少し時間がかかるから、一曲披露しましょうかね」

 そう言って彼が取り出したのはタブレットと小さなギターだった。この辺りは穴場らしく、ほとんど貸切状態だから、ささやかなライブくらいなら問題ないらしい。

「朔ちゃんはお歌、好き?」

「ええと、嫌いじゃない……かな?」

「よかった! おとうさんもお歌上手なんだよ。今日はね、エリのりくえすとの曲、たくさん調べてもらってきたからいっぱい歌ってもらうの」

「何でか古い曲ばっかりでね……」

 言いながら、彼が起動したのは楽譜アプリだった。音符が並ぶそれをテーブルにのせて、ギターを抱える。


 ぽろん、と弾いた弦の音はぱちぱちとはぜる薪の音にのって柔らかく響いた。そつのない指の動きと、いつも聞いている、少し遠慮がちなそれとは違う、穏やかで伸びのある落ち着いた声。


 見上げた空に、温かい歌詞と共に、余韻を残して吸い込まれていく。


 息を潜めて聞き入っていると、あっという間にその曲は終わってしまった。最後にもう一度弦を弾いてぽろん、と響かせた後、その人は少し照れたように笑う。

「晩めしが終わったら、朔さんも何かリクエストがあればどうぞ」

「あ、じゃあ——が聞きたいです」

 間髪入れずに答えた彼女に、相手が驚いたように眼を見開く。


 それから、少し笑って、楽譜を検索してから、うまく弾けるかはわかんないですけど、それでもよければ、と柔らかく笑った。

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