お月見、チョコレート、アルミホイル
カラカラと音を立てながら窓を開けて、ベランダへと出る。日が沈みきった空は、向かいのマンションや街灯のせいで黒というよりは灰色ががった——くすんだ紺色に見えた。
手すりに肘をついて、ふと視線が低い位置に向いて、彼女はそれに気づいた。
向かいのマンションと隣のビルとのほんのわずかな隙間を縫うようにぽっかりと浮かぶ、まんまるなそれは、いつもより黄色が強く、暖かみのある色をしている。欠けては満ち、満ちてはまた欠けていく。日々かたちを変える不安定さの象徴のようなその天体は、それでも今は本来の姿の真円を現していて、何か完璧なものに見えた。
ちょうど、実家から時々送られてくる、完璧な甘さと硬さのカスタードクリームが入った和菓子なのか洋菓子なのかわからないあれによく似た——。
「『
唐突に聞こえた脳裏に浮かんでいたのと同じ固有名詞に驚いて声の方に視線を向けると、仕切りの向こうにゆらりと揺れる煙が見えた。ほんの少しためらってから、近づいて覗き込むと、煙草を咥えた無精髭の横顔が見えた。
「あ、えーと」
慌てて手に持っていた携帯灰皿で消す。一応、配慮してくれる気はあるらしい。
「最近また張り紙増えてたから、気をつけた方がいいかもですよ」
「……肝に銘じておきます」
それでなくとも、ご近所付き合いは難しいんで、と苦笑する顔はそれでも以前のような疲れ切った色はなかった。
口寂しいのかもう一本煙草を取り出し、火をつけずに咥えながら、最近どうですか、と声をかけてくる。
「別に、特に変わりは」
「ずいぶん月が綺麗ですけど。Fly to the Moon とか考えてません?」
そう言った顔は満月の方を向いたままだ。初めて出会った時、声をかけてきたのは偶然だったはず。以来何度かの遭遇を経て、ただの隣人以上の関わりを持つようになったけれど、そのことについては一度も触れてはこなかったのに。
「あんまり綺麗なものを見ると、たまにおかしくなるから」
俺も、とようやくこちらを見た顔は、部屋の明かりと月の光の陰影で、普段朝の光で天使のような彼の娘と一緒にいる時とは全く違う様子を見せている。
「それを言うなら、Fly me to the Moon、じゃないんですか」
話の核心を逸らしてそう答えた彼女に、隣人はあれ、と屈託なく頭をかいてこちらをじっと見つめる。
「そうでしたっけ?」
そのまま低い、意外といい声と発音で英語の歌の一節を口ずさむ。それからニッとやけに楽しげに破顔して、ああ確かに、と頷いた。
「飛んでいく、じゃなくて、連れてって、なんですね」
「……何か言いたいことでも?」
「別に」
言いながら、銀色の板を差し出してくる。
「そういえば、お返ししてなかったんで」
「……いつの話ですか」
とある事情で泣き出した隣人の娘に、ポケットに残っていた板チョコを渡したのは節分のこと。季節は移ろい、彼女が手渡したその数は、実のところもう片手では足りない。
そのことに思い至ったのか、ああ、と隣人はもう一度苦笑して、手を引っ込める。
「これくらいじゃ足りないっすね」
アルミホイルを剥がして、端からかじる。ぱきりといい音がして、甘い匂いが漂ってきた。
「別にいらないとは言ってません」
手を伸ばすと、器用に片眉だけ上げて口の端で笑って、反対側の端を割って三分の一ほどの欠片を手渡してくる。それを半分に割ってから、包装紙を剥がして口に入れる。何の変哲もない、どこでも買えるような板チョコは、いつも通りの穏やかで安定的な甘い味がした。
「好きですよね、板チョコ」
「ええまあ。安定してて、好きなんですよね」
「安定?」
「食べ物って、意外とその日の気分とかで感じる味が変わったりするじゃないですか」
「そう?」
「少なくとも、私にとっては。でも、板チョコっていつも平坦に
「安定が大事?」
「そうですね。それに包装もシンプルでいいじゃないですか。ぺらっぺらの紙と、アルミホイルだけ。ゴミも少ないし、すごく効率よく変質を防いでて安定してる」
そう言った彼女に、隣人は少し目を丸くして、それからぷっと吹き出した。
「板チョコのそんなとこに注目する人、初めてだわ。確かに、アルミも酸化しやすいけど、空気中では安定してるしね」
一見落ち着いてるのに、意外とめちゃくちゃ不安定な
珍しく、大人げなく悪戯っぽく笑ってそう言った顔に、彼女の心臓が、どくん、と不安定な鼓動を打った。その理由はいくつか思い当たるけれど、ひとまずは空に浮かぶ、普段の不安定さを平然と押し隠した真円の金色のせいにしてしまう。
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