私だけのヒーロー(KAC2022)

 ピピッという電子音で意識が浮上して、のろのろと脇から体温計を取り出すと、液晶に表示されていたのは「38.0」。ものすごく高熱というわけではないが、平熱ではあり得ないその高さに、彼の口から思わずため息が漏れた。同時に頭上から平坦だけれど、何だかヒヤリとするような声が降ってくる。


「馬鹿なんですか」

「え、ちょっといきなりさすがにそれは失礼じゃね?」

「こんだけ熱高いのに雪降る外で行き倒れてるとか本当に大人としての自覚あります? 社会人としてもアレだし、そもそも幼児の保護者としてあり得なくないですか」

「いやもうおっしゃる通りなんですが、今一応弱ってるんでもうちょっと優しい声がけの方が回復には寄与すると思うんだけどどうだろう」


 空気を和らげるべく、ニッと無精髭の顔で笑ってみたが、どうやら逆効果だったらしい。大きめのパーカーを羽織ってこちらを見下ろす黒髪美人の表情は硬いままだった。


 彼女は、冷え込む節分の日に、うっかり彼がベランダに締め出され、その縁で知り合いになったお隣さんだった。恵方巻きのご相伴は断られてしまったものの、以来、マンションの廊下やエレベーターで会えば挨拶を交わす程度の関係で、名前も表札を見て知っているだけだ。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、相手の顔を見つめていると、また冷ややかな声が降ってくる。

「保育園の連絡先と、あなたのお名前」

「はい?」

「迎えに行けないですよね、それじゃ。今のうちに連絡して私が行っても引き渡してもらえるように」

「いやいやそこまでお手数をおかけするわけには——」

「じゃあ、代わりにお迎え頼める人、いるんですか?」

 間髪入れないツッコミに、思わずぐっと詰まると呆れたようにため息をつかれる。

 

 それから手際よく連絡先を聞き出され、保育園に電話をかけていた。本人確認のために彼も電話に出て、状況を説明する。こちらの事情に詳しい先生方は状況を察して夕方までは預かってくれるという。もし動けない場合は、隣人にお願いする旨を伝えて、念の為、必要であれば現地でビデオ通話で確認するところまで取り付けて、通話を終了する。

「ありがとう、ございます」

「なんか食べられますか?」

「いや……今はあんまり食欲ない感じ」

「じゃあ寝ててください」

 先ほどからの会話もずっとベッドの上だ。流石に申し訳ない気がして、起きあがろうとしたが地球がぐるりと回ってその場に倒れ込むと、濡れタオルがびちゃりと降ってきた。

「いいから、大人しく、していてください」

「はい」

 何だか妙な迫力に気圧けおされて目を閉じると、思いのほか眠りはすぐやってきて、意識はあっという間に闇に溶けてしまった。



「おとうさん、大丈夫かな?」

「呼吸も安定してるし、熱ももうほとんど下がったみたいだから大丈夫じゃないかな」

「よかったあ、おねえちゃんありがとう」

 のどかな会話に急に意識が浮上して、慌てて起き上がると体は軽かった。

「あ、あれ……お迎え……?」

「事前に連絡しておいたのと、現状写真を見せた結果、先生もご同道いただいて帰宅の運びとなりました」


 つまりは、熱を出して倒れている顔を写真に撮られて、見せられた上、結局先生が同行して帰宅の運びとなったらしい。本来忙しい先生方にそんな手間を取らせてしまったのは大変申し訳ない、と思わず彼は額を押さえた。


「……多方面にお手数をおかけして申し訳ない」

「次からは、倒れる前にアラート出した方がいいですよ」

「肝に銘じます」

「おねえちゃんねー、ものすごくテキパキしてて、ヒーローみたいだったよ。先生もたじたじだったよ!」

「別にやっつけたわけじゃ……。それに、ヒーローって、普通戦ったりするものじゃないの?」

「え、困ったときに助けてくれるのがヒーローでしょ?」

「……それは、そうかも」

「それに、おねえちゃん、この間も助けてくれたでしょ」

「ああ、虎パン一丁の時ね」

「ちょ、それもう言わないで……!」

 ふっと無表情だった彼女の表情が和らいで、ふわりと笑んだその表情に彼の心臓がおかしな音を立てた。


 いやいや、それはダメだろうと、とりあえず冷静になるようもう一度濡れタオルを額に乗せたけど、ひどくぬるくてあまり役には立たなかった。

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