廃墟、サーモマグ、警察官
ぽとり、ぽとり、とどこか遠くで水が
苦しい、誰か、助けて——。
細い声が聞こえ続けていた。それもやがて止んで、遂に独りになった。そう思った矢先に、かつん、かつんとゆっくりした足音が耳に届いた。初めは水音が反響して、大きく響いているだけだろうと思っていたのに、その音は真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。否が応でもそれが幻聴ではなく、現実に何者かがやってくる音だと理解しないわけにはいかなかった。
「誰かいますか?」
低い、男の声だった。助かりたいとは思っていなかったから、見過ごして去ってくれと、ぼんやり考えながら身じろぎもせずにじっとしていたのに、なぜか足音は真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。
やがて小さな、けれど真っ直ぐな明かりに目を射られた。それで、自分が目を開いていたのだとようやく気づく。光が焼き付いて
ぴたりと足音が止んで、それからばたばたとこちらに駆け寄ってくる。
「人……? 大丈夫ですか⁉︎」
ぎりぎりまで近づいてきて、膝をついたその相手がようやく警察官らしい服装をしていることに気づいた。間近にあまり見たことがないから、ガードマンの類かもしれない。いずれにしても、あまり興味は湧かなかった。
「こんなところになんで……」
言いながら腕を取られた。脈拍を測られているのだ、と気づいたその後に顔が近づいて、口元と額に手が当てられる。
「生きてますね。怪我は?」
答えずにいると、ちょっとすみませんね、と大してすまなそうには思っていなさそうな声と共に、あちこちを触られた。左腕に触れられたときに、ずきりと激痛が走って、それで小さく呻き声を漏らすと慌てたように手が離れた。
「すみません、大丈夫ですか? 折れてる?」
答えないままでいると、ほんの少し苛立ったような気配が伝わってくる。ならば放っておけばいいのに。ふと目に入ったのは腰に下げられた三角に似た形のもの。どうやら本物の警察官らしいと気づいて、むしろどうしてこんなところにいるのだろうと思った。
ここは、打ち捨てられた工業地帯の廃墟。あえて足を踏み入れようとしない限り、たどり着くはずのない場所だし、
「あーもう、そういうことか」
ひどくうんざりしたような声が聞こえて、ぐい、と何かが口元に押しつけられた。ふわりと香ってきたのは、馥郁とした——香ばしい匂い。唇に押し当てられたそれはどうやら今流行りのポケットに入るサイズのサーモマグで、流し込まれたのは程よい温度のコーヒーだった。火傷しない程度にはぬるく、でも香りが鼻から全身に行き渡るような、やけに香り高い。
行き倒れている人間にコーヒー飲ませるとかありえないでしょ、とどこかで冷静な自分が呟くと、舌打ちするような音が聞こえた。久しぶりに摂取した液体のおかげか、あるいはカフェインの効果か、茫洋としていた意識はやや明瞭になっていて、闇に慣れてきた目を上げると、まあまあ精悍な顔がはっきりと苛立ちを浮かべていた。
「五回目?」
唐突な問いかけに、心臓が大きく跳ねた。どうしてそれを——と目を見開いた瞬間、深いため息が聞こえた。それから、不意に視界が高くなる。抱き上げられたのだ、と気づいたのは目の前にある顔に、ほんの少し剃り残した無精髭が見えたせいだった。雑なんだな、というどうでもいい印象で。
「苦しい、誰か、助けて」
ずっと聞こえていた細い声と同じ言葉を低い声が呟いた。目線を上げると、怒るべきか慰めるべきなのかを決めかねているような中途半端な表情になっている。面倒になって、視線を戻して頭をそのまま広い肩に預けると、呆れたようなため息が聞こえた。
そのまま歩き出す。まただ、とうんざりしたように、彼女は思う。その気配を悟ったように、鼻で笑うのが聞こえた。
「諦めた方がいいよ」
「余計なお世話」
反射的に口から漏れた声はひどく掠れていたけれど、自分で思ったよりもきっぱりとしていて、彼女自身が相手よりも驚いてしまう。その様子がおかしかったのか、抱き上げている相手が吹き出して、彼女を抱いている肩が震えた。それでも、すたすたと進む歩みは、か細い懐中電灯の光だけなのに迷いがない。
「俺みたいなのも含めて、君は見つけられやすいタイプだから」
「……何それ」
「何て言うのかな———ああ、そう。世界から溺愛されちゃってるから、どうやっても簡単には逃げられないよ。そんでもって、君もそういう巡り合わせだから」
「……全然意味わかんない」
「そのうち嫌でもわかるよ」
救い救われ因果は巡る。
歌うように言う声は、闇の中でやけに明るく響いた。それから、不意に空気が変わった。
冷んやりとした風が頬を刺す。天を突くような廃ビル群。その先で切り取られたように狭い、けれど満天の、目に沁みるほどの四角い星空。
こんなにも、うんざりするほど世界は美しい。
たとえそれがこの一瞬に過ぎないとしても、そうやって、また失敗した彼女が、もっと偶発的かつ運命的に出会って救い救われるのは、もう少し先のことだった。
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