自動販売機、賭け、六花

「あれくさ、今日の天気は?」

『——地方の最低気温はマイナス三度、最高気温は五度。予報は曇りで、ところにより一時雪です』

 幼い声に、ほんの少しだけ不自然な、けれど滑らかな応答が返る。

「おとーさん、雪だって!」

「さすがに降らないんじゃないか?」

 窓の外は晴れてはいないが、空を覆う雲は陽の光が透けそうな程度には薄い。彼は娘のお気に入りのライトブルーのぶ厚いコートを着せると、外へと促す。彼女は彼の返答が気に入らなかったらしく、まるい頬をめいいっぱい膨らませた。

「せっかく雪あそびできるかと思ったのに」

「降ったら降ったでこっちは大変だぞ」

「なんで?」

「自転車も使えないし、保育園まで歩いて行かなきゃならなくなっちまう」

「じゃあお休みすればいいじゃん。明日はりもーとわーくなんだし」

 天使の四歳は、意外と侮れない。彼は曜日を把握し始めている娘の言葉に苦笑しながらその淡い色の頭を撫でた。

「じゃあ、賭けをするか」

「かけ?」

「雪が降ったらお休みにして、遊んでやる」

「Okay、じゃあゆびきりげんまん!」

 いつの間に覚えたのか、やけにネイティブな発音にとりあえず頷いて、手を繋いで外へと出た。


 いつも通りに先生に挨拶をして、穏やかに預け入れを完了したその帰り道、唐突にぐらりと視界が揺れた。

「あ……れ……?」

 もしかしたらこれは危険ヤバいかもしれない、と彼の本能が警告する。いつだったか、同僚が冗談半分にオフィスの一角に設置したシステムアラートに連動するパトランプが脳裏によぎってピカピカと派手に光る。

 こんなところで倒れたら目も当てられない。原因は何かと記憶を探る。昨夜は、娘の夕飯だけ先に済ませて、風呂と寝かしつけ。うっかり二時間ほどそのまま寝入ってしまって慌てて残りの仕事を片付け終わったのが午前三時。それから意識を失うように眠って、朝五時に爽やかに目覚めた娘に付き合ってひとしきり絵本を読んで、今に至る。

 そうして昨夜から何も食べていなかったことを思い出した。むしろ何かを飲んだ記憶さえもなくひたすらに時差のある相手との会議と資料作成に追われていたから、つまりは飲まず食わずでおおよそ半日以上。


 単純に水分と糖分の不足だ、と結論づけて目の前にあった自販機で水でも買おうと身を起こそうとしたが、膝から崩れ落ちた彼の足は、木偶でくのように全く動かなかった。

「ちょっと、マジで、ヤバい……かも?」

 何とかゆっくり半身を起こして、その巨大な機械にもたれかかる。低い電子音はするけれど、あいにく温もりは感じられなかった。

「やべー、詰んだ……?」


 は、もうどうしようもないことだったのだ。けれど、今になって、こんな。


 彼はぎり、と拳を握りしめた。どんなにそれが理不尽でも、懸命に伸ばした手が届かなかった事実は変わらないし、そしてあの時、他に何ができたかなんて後悔をいつまでも抱えていても仕方がない。


 目の前には、避けようのない現実リアル。否応なしに遺されたには罪はなく、ただひたすらに重い責任がのしかかる。それでも逃げることは自分の中に確固としてある良識なのか、愛情なのか、ともかく何だかよくわからないそれが許さなかったから、ただ前を向いて日々を重ねた。

 そうしてある日、別の事態に偶発的に出会ってしまって、今回は手が届いた。それで救えたというよりは、救われたのは彼の方だったのかもしれない、というのは後になってから気づいたのだけれど。


 とりとめのない思考に流されていると、ふと、頬に冷たい何かが触れた。すわ雪でも降ってきたか、賭けは自分の負けか、と見上げた空は、むしろ雲が晴れて青空がのぞいていた。つい最近、彼女と会ったあの瞬間の空のように。


「人の家のベランダに侵入するだけでは飽き足らず、こんなところで行き倒れるとか保護者の自覚、あるんですか」


 迂闊にも程がある、と頬に触れているそれと同じくらい冷ややかな声に目を向ければ、先日知り合いになったばかりの隣人の顔があった。いつぞやと同じ、大きめのパーカーに、ラフなジーンズ。艶やかな黒髪とその服装で、何だかちぐはぐな印象を受けるのは、これで二度目だった。

「あ、いや行き倒れとかそんな大層なもんじゃなくて」

「じゃあなんですか」

「ちょっと、空を見てた、みたいな?」

 なるべく警戒心を抱かれないように、へらりと笑って見せたけれど、相手の表情は揺らがなかった。

「空?」

「雪が降ったら、明日は仕事を休むって賭けをしたから」

 そう言って彼が肩を竦めると、相手はほんの少し眉根を寄せて、それから頬に当てていた赤い六花ゆきのマークのついたパックの蓋を開けて差し出してきた。

「とりあえず、カルシウムと水分、どうぞ」

「普通、そこは水とか差し出すとこじゃね?」

「そこの自販機、現金しか使えないんで」

「あ、なるほど」

 今時の女子大生は、財布も持たずにスマホとエコバッグだけで買い物に出かけるらしい。

「財布を忘れたのは事故です」

 不機嫌そうな顔は相変わらずだ。とりあえずありがたくそのまま差し出されたそれを喉に流し込む。渇ききった口内に、意外とサラリとした口当たり。悪くない、と呟いて、その先をどうしたものかと考える。

「えーと、お支払いしますね」

「お願いします」

 それから、と彼女は手を差し伸べながら続ける。


「明日は、お休みですね」


 え、と差し伸べられたのとは反対の、綺麗な指先が差した空を見上げると、いつの間にかどんよりと厚い雲に覆われて、はらりはらりと白いものが舞い始めていた。

「……何、君の仕業?」

 冗談のつもりでそう言った彼に、けれど彼女はひどく静かな眼差しを向けてきた。それから、ぽつり、と呟くように言った。

「必要なのかな、と思ったから」


 その言葉の真意は不明だったけれど、助けられちまったな、と彼はほろ苦く笑ったのだった。

 

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