星月夜の道灯

橘 紀里

Season 1

チョコ、天使、鬼

 窓の外の空は馬鹿みたいに青い。昨今の新型ウィルスの流行のせいで、学校も休校だし、不要不急の外出は避けろと皆がうるさいけれど、誰もいない家に一人でこもっていると、気が滅入る。滅入るだけで済めばいいけれど、余計なことばかり考えそうになる。

 窓の外と、机の上に積み上がった課題と、それから未読の溜まったアプリの通知を眺めてから、ようやく彼女は決意する。着替えて顔を洗い、基礎化粧品でスキンケア。ベーシックなメイクだけして、冷蔵庫で冷やしておいた板チョコを取り出してベランダへと出る。別に寝巻きパジャマのままでもよかったはずだけれど、万が一失敗した時に、あんまり後悔したくなかったのだ。


 茶色い包み紙と、銀紙を剥がして端から齧る。冷やしてあるおかげでベタベタに甘いというよりは、溶ける端から口の中に甘さが広がっていく。半分ほど無くなったところで流石にもう無理かと、パーカーのポケットにチョコを突っ込んで、柵を乗り越えようと両手をついて体を浮かせた時、唐突に隣の部屋のベランダから壁を乗り越えてやってくる人と目が合った。正確には、鬼の顔と。


 彼女の住んでいる部屋は十一階建てのマンションの十階だった。それなりに高さがあるから、一般的に考えて窓からの侵入というのはかなり無理がある。

 だから、その顔がもう少しリアルな木製の面だったりしたら、お迎えに来た何か——例えば死神の類——に思えたかもしれないけれど、残念ながらそれは先日終わったばかりの節分の日にやたらとスーパーで見かけた紙製のごくチープなもので、どう考えてもただの不審者だった。しかもハイリスクを取る系の、わりと多分ヤバい奴。


 関わり合いになるべきではないし、ましてやこの状況で厄介事に巻き込まれるのは嫌だったので、そのまま踏み越えようとすると、やけに慌てた声が聞こえた。

「ちょ、ちょっと待った。怪しい者じゃないから!」

 百歩譲っても怪しくない要素なんて何ひとつなかったので、そのまま踏み越えてしまえばよかったのに、それでも彼女が手を止めてしまったのは、まだ未練だか何だかがあったからなんだろう、とは後から振り返って気づいたことだった。けれど、その瞬間は、ただ単にあまりにその声が焦りと気遣に満ち満ちていたせいだと思っていた。

 固まってしまった彼女に、鬼の面をつけた相手は軽々壁の向こうから手すりを飛び越えると、まだに手すりにかかっていた彼女の手を掴んで思い切り引いた。

 鬼の上に雪崩れ込む感じになって、大きな手と、わりとしっかりした胸板と、やたらと煙草臭い匂いでどうやら男性だな、と認識して、それから我に返る。


「ベランダは共有部とはいえ、契約者の占有箇所となるので一応立派な住居侵入罪ですけど」

「あ、いや、そのうっかり締め出されちゃって、この寒空にこの格好だと死ぬなって思って何とかご協力を仰げないかと」

「そのお面被って?」

「あ、これは……出遅れた節分やろうとしたらドン引かれて窓に鍵かけられまして」

 面目ない、と言いながらお面を外した顔は、無精髭が若干くたびれた感じを見せてはいるものの、それなりに精悍そうなわりとイケメンだった。ただ、すごく寝不足みたいな不健康な顔をしている。

「誰に?」

「うちの天使に」

「ちょっとやっぱり通報していいですか」

「あっ、すみませんうちの天使な四歳児に! 鍵かけたはいいけど外し方がわかんないみたいで、開けられなくて」

「お母さんは?」

「……いたらよかったんだけどね」

 急に苦く笑った顔で、何となく事情を察する。とりあえず確かにこの寒空にペールオレンジのTシャツと、よく見れば虎柄と見えなくもないハーフパンツ一丁は、何かの努力の跡に見えなくもなかった。部屋に入れた途端に襲いかかってくるかもしれないリスクと、実際に隣で四歳児が一人きりになっているかもしれない可能性をはかりにかけて、最悪そういえば自分のことなんてどうでもよかったんだ、と思い出す。

「……でも、玄関の鍵、かかったままなんじゃないですか?」

「幸いスマホと鍵だけはここに入ってまして」

 そう言ってポケットから取り出したそれは、確かにこのマンションのオートロックも外せる見慣れた型の鍵だった。


 それを決め手にすることにして、窓を開けて、招き入れると両手で拝み倒された。それから急足で玄関へと向かう。部屋の形は大体同じだろうから、迷いのない足取りだった。

 真っ直ぐに外へと出ようとして、ふと、元鬼の足が止まる。

「うちの天使、一応確認しておく?」

「いや、別に」

「一応、後で通報とかしたくなられても困るし」

「……はあ」

 肩を竦めて笑ったその顔が、やたらと人懐っこく見えて、そんなふうに誰かの笑顔を間近に見るのはだいぶ久しぶりで、そのせいなのかふらふらと靴を履いて、裸足のまま廊下に出た後ろ姿に続く。鍵を開けると、すぐに小さな生き物が飛び出してきた。ほとんど金色みたいな淡い色の巻き毛に、薄い色の瞳。確かにそれは羽根こそなかったけれど、天使のように見えなくもなかった。

「おとーさん!!」

 叫んで鬼スタイルの男の人の胸に飛び込んだその小さな生き物はわんわん泣き出した。廊下で泣き叫んでいると近所迷惑になるとでも思ったのか、慌てて部屋へと入ろうとする背中に、何となくポケットに残っていた板チョコを差し出す。

「これ、食べる?」

 目にいっぱいに涙を溜めていたその小さな生き物は、それが何かをすぐに悟ったらしい。急にぱあっと顔を輝かせて、でも、父親と彼女の方を見比べる。父親の方も彼女を戸惑ったように見つめていたけれど、ぐいとチョコを突き出すと、反射的に受け取って、子供は嬉しそうにその匂いを嗅いでいる。

「あ、いいんですか?」

「食べきれなかったから」

 それじゃ、と言い置いて部屋に戻ろうとすると、後ろからまた声がかけられた。

「ちょっと早いけど、これから夕飯にしようと思ってるんです。よかったら一緒にどうですか? 昨日食べ損ねた恵方巻きなんですけど。あ、消費期限は今日までだから大丈夫!」

「……巻き寿司、好きじゃないんで」

 それだけ言って、自分の部屋の扉を開けて中に入る。まだ開けっぱなしだった窓から冷たい風が吹き込んで、カーテンを揺らしていた。


 そのままもう一度ベランダに出て、空を眺める。同時にカラカラと隣で窓を開ける音がして、どうにも気遣わしげな気配がしたけれど、話しかけてくるでもない。しばらくそのまま少しだけ躊躇ちゅうちょしていると、ふわりと煙草の煙が流れてきた。さっき嗅いだばかりのそれと同じ匂い。


 それで、確かにさっきの一連の出来事が夢でも幻でもなかったことを感じて、あのタイミングで出会ったあれはもしかしたらやっぱり本当に天使か神様のお導きみたいなアレだったのかもしれない。そんなことを考えながら、窓を開けて自分の部屋に戻った。


 ひとまず、今日のところは、と自分に言い訳をして。

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