第3話
彼女たちの状態は安定してきている。もちろんそれは、以前と比べて、ということを前提とするものだけれど、喜ばしいことであるのに変わりはない。
彼女たちが抱えているものは、どこまでも過去にしかありえない。現在私が立っているこの場所からできることは限られているし、何より長い長い時間が必要だ。少女たちが苦しみから解放されることは、決してないだろう。
傷がついた経緯を忘却しても、痕は現実に錨を下ろし、その痛みを想起させる。終わりはなく、ふとした時に思い出すのだ。車窓から景色を眺める少女こそが、まやかしなのだと。鉄の箱に衝突した瞬間の痛みが記憶にあるがゆえに、自分は吐瀉物とともにある肉片であるのだと。
私という意識はこの頭蓋の中にある脳みその奴隷だ。それは彼女たちも同様で、彼女たちを苦しめるのは彼女たちの脳みそだ。記憶、意識、自我、自己、そして、〝私〟。〝私〟というものの存在が、私たちを縛り付ける。どこまでも、私たちを苛むのだ。
かつて、私を救えなかった世界を憎悪した。けれど何より、私を救えなかった私自身を憎んだ。私はそうやって、怒りと殺意によってここまでの道程を選択してきたけれど、今はそれ以上に、苦痛に喘ぎ、いつかの私のように己の死を望む人々を救えないことへの怒りがある。救えない私。世界。すべて、すべて。
私がやっていることは延命処置に過ぎない。痛がる少女を押さえつけて、自傷に走る腕を拘束して、生きて、生きて、と呪詛を吐き続けるのが私の役割だ。目に見える世界の尽くを憎悪して嫌悪しても、とにかく生きるのだと、私は彼女たちに強要する。死を悪しきものと定義して、避けるべきものと規定して、その価値を彼女たちに押し付ける。醜い私。愚かな私。自分自身でさえ救いきれないけれど、私は自分で受け入れられなかったものを少女たちに強いている。
カルテも資料も意味はなかった。すべては無意味で、無価値で、すべてはすべてただそこにあるだけだ。傷ついたこと。大切な人を傷つけたこと。大切な人に傷つけられたこと。彼女たちにとってそれは純然たる事実で、確かに存在している。神なんていうものよりも、病なんていうものよりも、純粋に、形而下にあるものとして。薬などで消えはしない。なくなりはしない。失うことはできない。生きるのであれば、何もかもを抱えたまま存在し続けるしかない。
彼女たちに、何をしてやれるだろう。神のいない世界で、彼女たちが救われる時は来るのだろうか。優しさや誇りといったささやかなものに囲まれて、小さな幸せを掴めるだろうか。
どうか、そうあって欲しいと思う。たとえそれが、私のエゴだとしても。
「先生、これ、あげるね」
そう言って、〝椿〟が花の冠を手渡してきた。自分で作ったの……、と聞くと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「プレゼント。菫からもあるよ」
〝椿〟が道を開けると、その後ろから〝菫〟が進み出てきて、花で出来た小さな輪を差し出した。私はその用途を想像して、指輪かな、と言ってみる。
〝菫〟は頷いて、私に指を差し出すようジェスチャーで示してきた。私は指示されるままに、彼女の前に左手を持ち上げる。彼女は表情に真剣さを映しながら、慎重な動作で私の薬指にその輪を嵌めた。〝菫〟は満足気な様子で、〝椿〟は彼女の髪をそっと撫でた。
「先生、似合うね。これね、私たちだけで作ったんだ。他の子にも、作り方教えてあげたよ。そしたら、喜んでたな。ね、菫」
〝菫〟が身振り手振りでその時の状況を再現してみせる。〝椿〟はそんな彼女を愛おしげに眺めてから、私に微笑みを向けた。私もまた、〝椿〟に微笑んでみせる。
〝菫〟の言に従うのであれば、庭での時間は随分と愉快なものであったようだ。他の子、という言葉が出てきたのは初めてだったので詳しく聞くと、どうやら他の病室の子達に触れる機会があったようで、新鮮なものへの興味を彼女たちは語った。近頃は経過報告の成果もあってか、申請が通りやすくなっている気がする。幾らか自由に行動できるようになったのは、彼女たちにとっても悪いことではないだろう。少なくとも、気を紛らわすことはできる。
〝菫〟の読書への情熱は凄まじいものがあって、〝椿〟と何かをする時以外のほとんどの時間をそこに費やしている。彼女は本を傍のデスクに置いていて、まだ読んでいないもの、読んでいる途中のものは表面が上、読み終えたものは裏面が上というルールがあるようだった。そのデスクには元々プラスチックの花瓶に花が生けてあったけれど、本を置こうとして床に落としてからは別の場所に移動させた。彼女自身、花より読書、という風で、気に留めている様子はなかった。
〝菫〟は時折、読んだ本に関する感想が書かれている手紙を渡してくれる。彼女の語彙力は上昇の一途を辿っていて、辞書は紙の薄さもあってすぐにボロボロになった。手紙の内容も少しずつ変化して、私はその成長を見ることをささやかな幸せを感じている。次はどんな本がいいだろうと、自室や図書室の本棚を眺めるのは、ある種の活力になっていた。
〝椿〟は〝菫〟の様子を見るのを何よりの楽しみにしていて、その中で私と会話をする機会が増えていった。
「先生、最近はね、私たちは今ここにいるんだな、って思うことが増えたんだ。この白い部屋で、ちょっとの薬の匂いと、菫が紙をめくる音と、先生の声がね、私たちをここで生かしてくれる気がするんだ。それはきっと優しい夢みたいなもので、私は見たことがないけど、こんな夢も私の頭の中にあるのかもしれないって、そう思うんだ。
ねぇ、先生。先生はさ、私たちが、いつか夢を見られると思う? ずっとずっと、醒めない夢を……」
〝椿〟と〝菫〟の視線が交わって、向かい合う二人は相手に向けて小さく手を振った。〝菫〟は私たちの会話が耳に入っていなかったようで、すぐに視線を紙に落とす。私はその間で、頭の中で〝私〝が喚きかけるのを、無理やり黙らせた。
〝椿〟の目を見て、私は頷く。
私は、頷いてみせる。見られるよ。いつか、きっと。
私はどんな顔をしていたのだろう。〝椿〟は笑って、
「先生は、優しいね。私たち、先生のこと好きだよ。ね、菫……」
大切な人を映す彼女の瞳は、美しい光を帯びている。私にはそのように見えて、綺麗な目をしていたのは彼女たちの方だと思い至る。優しいのは彼女たちで、救われているのは私の方だった。私はこの美しい少女たちの夢を、言葉で保証してみせることしかできないのに。
〝椿〟の視線を追って、私も窓の外に目を向ける。そこには寒々しい空が広がっていて、葉を失った枝先が枠の端でちらついていた。
病的な空。水底の空。救いをもたらすはずだったものは彼女たちを裏切り、偽りの神は断罪を恐れて自ら命を絶った。取り残された少女たちはリノリウムの箱庭で、神のいない空を見上げている。
「ねぇ、先生。外は、寒くなってきたね……」
すべては病に罹患している。
けほっ、と誰かが咳をした。
* *
想像する。
無窮の曇天の下、美しく咲く花の色彩を見る。茫漠とした時間の流れの中で、土を踏みしめながら、何かの不在を探している。
これまで触れてきた花たちに、薬を撒いていく。それらの多くは錠剤で、そのすべては枯死を防ぐためのものだ。枯れ果てる前に摘み取って保存するための、最終治療薬。
私は薬を撒いていく。
私は、薬を処方していく。
池のそばに立って、向かい側に〝私〝の姿を見た。
私はすべてを投げ出して、〝私〝に走り寄る。私は〝私〝が動かないことを知っていて、だからこそ私は躊躇わない。今こそ、今度こそ。
掴みかかって、押し倒して、頭を地面に押し付けながら、拳を振り上げて殴りつける。殴りつける。殴る。殴る。死ね、死ね、と呟きながら泣き腫らした顔の私を殴りつける。なぜお前が泣くんだ。なぜお前がそんな顔をするんだ。私は殴りつける。握りしめた手の皮膚が剥ける。肉に歯が突き刺さる。私は殴る。〝私〝を殴る。
私は叫ぶ。お前のせいだ。お前のせいで、私はここにいるんだ。お前は私を殺そうとして、私はのうのうと生きて、お前はこれまで何ができたっていうんだ。何を変えられたっていうんだ。いったい、何を救えたというんだ。
なぜ。
なぜ、私を殺しきらなかったんだ。
私の傷。私たちの病。それらはいつしか膿に溺れて、その表層を曝け出すだろう。誰一人として治すことままならず、膿み、腐り、やがて土へと還っていく。万能も全能も存在せず、噛みちぎった舌から溢れ出る血に意識を朦朧とさせながら、気道を塞いで窒息するのが相応しいはずだった。腐る前に死ね。自分の手ではどうしようも無いほど蛆に塗れる前に死ぬべきだった。〝私〝は……私は、そうあるべきだったのに。
抵抗は唐突で、私たちは水面に転がり落ちる。互いが互いを離すことなく、私たちは傷だらけのまま沈んでいく。私もまたいつかのように傷に侵されていて、その傷は確かに〝私〝につけられたものだった。
私たちはいつしか一つになる。たくさんの人たち……たくさんの死者が、私を見つめている。たくさんの薬が、私のまわりを漂っている。
水底の暗闇から、彼女たちの不在を、想像する。
私は、想像する。
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