第2話
想像する。
池の中を覗き込むと、いくつもの身体が沈んでいるのが見える。たくさんの薬剤が漂う中に、いくつもの肉体が折り重なっている。水底は深く、そして暗いけれど、彼らのことははっきりと見えている。
それぞれにそれぞれの傷があった。顎の下にまとわりついた縄の痕。執拗に刻まれた手首の裂傷。皮膚と肉を突き破って骨が飛び出した腕と脚。潰れた頭。丸見えの頭蓋。後頭部から花開いた一つの穴。もはやそれが人であったかもわからないような全身の火傷。膨張した皮膚。肉片まみれ。
彼らはたくさんの薬と水に溺れている。彼らにあったりなかったりする双眸は、水を透過して私に向けられている。
視線を上げる。周囲は庭園になっていて、等間隔に異なる種類の花が植えられている。ちょうど人一人分くらいの間隔が延々と続いていて、その先に果てはない。私は花が根を張っているものに心当たりがあったし、撒かれている薬がどのようなものであるかもよく知っていた。その内のいくつかは、私が撒いたものだった。
そこに空はあってないようなものだった。灰色の雲が永遠に続き、永久にどこまでも流れていく。天蓋という方がふさわしいようにも思える。陽は昇らず、沈むこともない。新たに得るものは存在し得ず、この箱庭に沈んでいるのは、喪われたものと喪いたいものだけだ。
水面には私の顔が写っている。私は自分の肉体が土の上にあることを知っていたけれど、池の内にも自身の姿を認めることになる。鏡像の彼女は私であって私ではなく、ずっとずっと、母親の胎内にいた時からずっと、そこにいたものであると私は知っている。私が成長すると水中の彼女も成長し、私が顔を突き出せば彼女もまた同様に姿を現した。
私はしゃがんで、彼女に手を伸ばす。すると彼女もまた手を伸ばし、水面から指先が覗いて。
腕を掴まれて、水中に引きずり込まれる。質感の異なる浮遊が二重に反響する。彼女と目が合って、全身を強く抱きしめられる。その抱擁はずっと待ち望んでいたものであったような気もしたけれど、本来であれば私の方からするべきものであったかもしれないと考える。私は、ごめん、と言いながら、彼女のことを抱きしめる。
私たちは、沈んでいく過程で一つになる。たくさんの人たちが私を見つめている。たくさんの薬が、私のまわりを漂っている。
私を見つめる人々の中に、私は少女たちの姿を探す。そして彼女たちの不在を確信して、穏やかに眠りに落ちていく。
私は、想像する。
* *
「地に足は付いていない。いつだってふわふわしているんだ。なんだかよくわからなくて、日に三度は発狂しかける。薬が手放せなくて困っているんだ」
そう言って〝椿〟と呼ばれる少女は笑った。なんてことない日常だというふうに、彼女は健気だった。
「先生、そこにいる菫はね、気が触れた時に舌を噛みちぎっているから喋れないんだ。ジェスチャーはできるんだけど、今のところ私しか意味を理解できてなくて。先生もきっとわからないだろうから、私が翻訳するね」
指差した先、向かいのベッドにも少女がいた。〝菫〟と呼ばれる彼女は、どこか神経質そうな視線を私に投げかけていた。
突然、〝椿〟の手が私の腕を掠めていった。殴ろうとして失敗したようだ。私が僅かに距離をとると、彼女は何事もなかったかのようにベッドにできた皺を整えながら、〝菫〟を見つめた。
「菫。何か言いたいことはないかな」
〝椿〟に呼ばれた〝菫〟は私から目を逸らすと、右手の親指と中指を曲げて自分の眼の前に持ってきた。勢いよく押し込めば、眼球が潰れる位置だった。
「先生、目が綺麗だね、だって」
そのようなことを言われたのは初めてだった。鏡を見ても、自分でそう感じたことはない。私はカルテの記述を見てから、礼を言って席を立った。
「先生、もう行っちゃうんだね。先生、薬、飲んでいい?」
私が許可を出すと、〝椿〟は傍に置いてあった容器から錠剤を出して口に放り込み、音を立てて噛み砕いた。
「先生、菫は私のものだよ」
部屋を出る間際に、そんな言葉を投げかけられた。理解を示していることを伝え、ドアを閉めてから看護師を呼んだ。〝菫〟は最後まで、自分の眼に指を翳していた。
カルテに記述されている文字に目を通す。攻撃性執着傾向。自傷癖。カルト教団から保護、治療中と書いてあることに、少し笑う。リノリウムの牢獄で飼い殺すことを保護とか治療というのは、なんとも滑稽だ。こんな職についていながら、ついそんなことを思う。
ここにやってくるのは、言葉で並べ尽くせない多種多様な暴力に晒されてきた子供たちだ。退院した子がいると思ったら、次から次へと新しい傷を抱えた子が運ばれてくる。身体の傷の治療と同時に精神のケアを行うのがこの病院の役割だった。
できることをできる範囲でやっていく以外に道はないとわかっている。たとえその治療という行為が、どこまでも暴力的なものだとしても。
必要とあらば彼女たちを薬物と言葉でもって犯し尽くし、正常の階梯を登らせるのが私の役割だった。
理念も、救いたいという思いも未だ枯れることはないけれど。
時々、わからなくなる。
こんなことで、いったい何が救えるというのだろう。
「先生、菫はすぐに死にたがるんだ。死んじゃダメだって何度も教えたけど、すぐに血まみれになったり、吐いたりする。菫は私と一緒にいなきゃダメなんだ。だって、ずっとそうやってきたんだから」
目を包帯で覆った〝菫〟と、腕に中途半端に包帯を巻いた〝椿〟の部屋に、私は再びやってきている。適当と思われる距離は、昨日から更新されていない。
昨夜は看護師の愚痴を聞くのにそれなりの時間を割いた。最終治療薬の話になったあたりでうんざりして切り上げたけれど、看護師はまだ物言いたげな様子だった。私がここを割り振られたのも、概ねそのような理由からだろう。
「先生、昨日は殴ってごめんね。なんだか、先生がすごく悪い人に見えたんだ。薬を飲んでちょっと考えたら、先生、綺麗な目をしてたなって思って、勘違いだと思ったんだ。悪かったね」
気にしていないと伝えると、〝椿〟は静かに微笑んだ。それから「でも、」と続ける。
「菫に何かしたり、私たちを引き離そうとしたら、また殴るよ」
私はそう言う〝椿〟の目を見て、〝菫〟に危害を加えないことを約束し、同時に要望に応じた支援の意思を表明する。彼女は頷いてから、「うん、そうだね」と言った。
〝椿〟はじっと横たわっている〝菫〟を見つめて、
「ねぇ、先生。もし、先生がえらい人なら、お願いがあるんだ。もう、あの変な格好の人たちは、私たちに近づけないで欲しいな。あいつら、先生がいなくなった途端に入ってきて、菫を押さえつけるんだ。私が菫を離してって言ったら私も押さえつけられて、針で、刺された。これまでもそうだったんだ。私はあの子を絶対に死なせないのに。私なら、もっともっと、あの子を大切にしてあげられるのに。もう、殴ってやりたくて、たまらないんだ」
だから、先生。助けて欲しいんだ。私と、あの子を。
部屋を去る時、「またね」という声が聞こえたことに、少しだけ笑った。
「先生、いつもありがとう。この前のこと、〝菫〟にもちゃんと話したんだ。それで、包帯も取れたから、お礼がしたいなって、話し合ったんだ。ね、菫」
〝菫〟は頷いて、人差し指を空で横に往復させた。
「菫がね、手紙を書いたんだ。ちょっと吐いちゃったけど、手紙は綺麗だよ」
座ったままでいると、震える指に挟まれたぐちゃぐちゃの紙が、〝菫〟の手で運ばれてきた。私は先に〝椿〟と〝菫〟に了解をとってから、〝菫〟に触れないように紙を受け取った。
〝椿〟に教わりながら書いたと思われる歪んだ漢字と、比較的形の整ったひらがなで、手紙は構成されていた。
先生。わたしたちを大切にしてくれてありがとう。わたしはしたがないのでしゃべれなくて、きっと、心もおかしいのだとおもいます。でも、うれしいことはわかります。先生がたすけてくれるのは、うれしいです。先生とはなして、つばきちゃんがわらうのは、もっとうれしいです。わたしはつばきちゃんが大切です。大すきです。だから、つばきちゃんを大切にする先生をしんじます。つばきちゃんがしんじる先生をしんじます。だから、うら切らないで。ゆるしてうばわないできずつ よろしくおねがいします。
読み終えたものを丁寧に畳んで、ベッドに戻った〝菫〟に礼を言う。〝椿〟は笑顔で、「先生、よかったね」と言った。私が〝椿〟にも礼を言おうとすると、彼女はそれを遮って、
「先生、まだだよ。もう一つあって、これは、私からなんだ。まだ、外に出る権利、使っていないんだ」
〝椿〟、〝菫〟の二人と一緒に屋上へと向かった。強化ガラスの中で目を閉じていた監視員に外出許可権の行使を申請し、私の同伴許可も取り付けてから、門を潜る。
「先生、花の冠の作り方、教えて欲しいんだ」
箱庭と称されるにふさわしい人工の自然を、この場所は擁している。ガラス張りの天井から覗く曇天に、陰鬱な流れを見る。薄く漂う湿った匂いの中を少女たちは駆け出して、オシロイバナの咲く一角で、私を待っている。
いいよ。
その言葉を口にするだけで、彼女たちの表情が色を取り戻すのなら、歩み寄る価値は十分にあるような気がする。
少女にはきっと、お姫様の冠がよく似合うのだから。
「先生、私たち、火が怖いんだ。特に怖いのは、暗い中でぼんやりしているのなんだ。私たちの内臓が、疼くんだ。もう使い物にならないはずなのに、思い出したようにすごくすごく痛むんだ。誰かを傷つけていないといけなくなるんだ。菫はね、それで喋れなくなったんだよ。それで、ここにいるんだ」
初めて作った花の冠を被りながら、〝椿〟は言った。時間の経過で生じた変色を彼女は気にすることなく、ベッドの上で膝に乗せた〝菫〟にも冠を被せていた。
「先生、私たちはね、そうでなくても痛いんだ。ただここにいるだけで痛くて、苦しいんだ。菫はそれが私よりも辛くて、だから死にたがるんだ」
先生にも、と不恰好なものを一つ取り出して、手を伸ばしてきた。私は頭を下げて、それを受け取る。
「お姫様はね、三人いたって、いいと思うんだ」
〝菫〟も頷いたので、ありがとう、と言うと、彼女たちは年相応にはにかんで見せた。恐らく箱庭で遊んだ後に、自力で作ってくれたのだろう。
「この冠を被っていると、ほんの少しだけ、痛みを忘れられる気がするんだ。この小さな部屋で、三人だけでもお姫様だって思えるんだ。ねぇ、先生。ありがとう。私たち、嬉しいんだ」
そんな風に彼女たちが気丈に笑うのなら、私もまたそのように返事をする他ないだろう。そしてできるなら、もっと笑って、もっと生きて欲しいとも、最近は思わないでもない。
二人で読むように、と簡単な内容の本を渡した。それと、同じくらいのレベルの辞書も。調べてもわからないことがあったら、私に聞くといい、と言うと、珍しく〝菫〟が強い反応を示した。本を半ば奪い取るようにして手中に収めると、表紙の文字を凝視する。
「先生、菫はね、頭がいいんだ。だけど喋れなくて、文字も上手に描けないから、ひとりぼっちなんだ。菫はね、本が好きだったな。ずっと、ずっと……前は……」
尻すぼみになる声に、不安定の色を感じて、〝椿〟に声をかける。彼女は「うん、平気だよ。菫は、ここにいる……」と本に熱中する〝菫〟の髪を優しく梳いた。
「先生、今日、一緒にいてもらってもいい?」
〝椿〟の様子を見て、すぐに頷いた。申請書だけは書かなければならないので、そのために一度席を外す旨を伝えると、「行ってらっしゃい」と穏やかな声が返ってきた。
微かな呻き声に、意識を持ち上げた。
その声は、〝椿〟が上げているようだった。布団が小さく波打ち、くぐもった息が苦悶の合間に挟まっている。時折何かを呟くが、うまく聞き取れない。
〝菫〟が、その様子を見てひどく怯えていた。身体を掻き抱いて縮こまり、目を見開いて〝椿〟を凝視している。
嫌な想像が脳裏に浮かぶ。彼女たちの過去(これまで)と昼間のことを思い、私は少し悲しくなる。
「いたい……いたい、いたいいたい……ぃい」
近づくと、言葉とともにぎりぎりと歯の擦れる音までが〝椿〟から発せられていることに気づく。私はそれが最善の結果をもたらし得ないことを知りつつも、けれど約束を守るために、彼女の名前を呼ぶ。
呼びかけに対する返答はなく、喉を破壊するような叫びは徐々にその勢いを増していった。
「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい……ぃ」
数秒の空白があった。彼女は動きを止めて沈黙し、
「──いやだ」
〝椿〟の中で、何か引き金が引かれたのは明らかだった。布団が剥がれて露わになった彼女の表情はほとんど異常という他になく、虚ろな瞳と目元に反して口元は激しく強張り、唇からは血が滲んでいた。いやだいやだ、という言葉と唸り声が入り混じり、四肢が物に当たっても止まる様子はない。
無理にでも、と彼女の腕を掴む。振り回された足が腹部に突き刺さり激痛に悶えるけれど、離さない。体格からは想像できない力で抵抗され、どうにか押さえ込んで抱え込んだところで、服の上から肩を噛まれた。強く強く、噛みちぎる勢いで、掴んで離さない。けれど彼女が自分の舌を噛み切るよりは幾分マシだと、嫌な汗が滲むのを感じながら、耐える。耐えてみせる。
両腕で肩を挟み、抱きしめてベッドの縁に腰掛ける。背中に回された手が布越しに爪を立てる。それを意識の外に追いやって、大丈夫、と呟いてみせる。それは私自身に向けた気休めでもあり、〝椿〟と〝菫〟に向けた保証でもあった。首と視線を巡らせて、壁際に身体を押し付ける〝菫〟に、大丈夫、と笑ってみせる。
〝椿〟は大丈夫。あなたの大切な人はしっかり守るし、あなたのことも守ってみせる。可能性は、どれだけゼロに近くとも、あるというただそれだけで可能だと言えるのだから、大丈夫。私はできるし、やらなければならない。
私はうわ言のように、大丈夫、と言い続ける。
少なくとも、今が本当に大丈夫になるまでは、私が保証するのだ。それは彼女たちを救いたいがためであり、同時に私自身を救うためでもある。
夜が更けていく。私はうわ言のように、大丈夫、と言い続ける。
ほとんど気絶するように眠りについた〝椿〟に粉末状の薬を飲ませ、緊張が限界に達していた〝菫〟に本を読み聞かせた。彼女たちは夜を迎え、私は肩の部分が赤く染まった服を脱ぎ、簡易的な処置を施していく。背中もミミズ腫れができていたが、これについては構うまいと放置した。興奮状態を保たなければ、悪夢から彼女たちを守れないとふと思ったからだった。戯言だと、自分でも笑った。そして笑えるうちは大丈夫だと、自分に保証する。
〝椿〟と〝菫〟。それは希望のある名前だと、カルテを見たときに考えていた。それぞれの花の美しさと込められた願いを思って、薄く笑ったものだ。
しかし、希望は希望でしかない。現在に錨を下ろしてはくれないのだと、今は悲しみの方が優っている。それらは未来に願うものであり、現在においては存在しないことを示している。
感性や認知というものが形作る脳の構造を心と呼ぶのであれば、彼女たちの心はとうに壊れているのだと、そんなふうに言えてしまうのだろうか。
依拠できる過去もなく、苦痛に満ちた生の行程によって、現在は凌辱され続けている。これからや未来などというものは、記憶に塗り潰されて、閉ざされている。フラッシュバックの恐怖に怯え、一瞬の繰り返しをただ耐え、やり過ごす時間を送るのが彼女たちの日々だ。このリノリウムの箱庭にあっても、彼女たちはここにはいない。いつまでも、暗闇で揺れる炎が彼女たちの脳には焼き付いて、カビと甘い香の匂いが取れることはない。頭蓋を満たすのは、もはや葡萄酒でしかありえないのだ。
電車の先頭車両に、一人で乗っているのを想像する。薄く黄色を混ぜ込んだような光が線路を照らし、その中を前へと進んでいく。自分では走りきれない速度で、青空の下を悠々と駆けていく。障害物もなく、開けた視界の中で、穏やかに時が過ぎていく。そう、信じている。
そこに、人が飛び込んでくるのを想像する。駅でもいいし、踏切でも構わない。その瞬間を、本来であればまともに認識などできないはずなのに、その一瞬が白紙に垂らした水滴のようにじわりと広がって、もしかしたら目と目があうかもしれない。そしてその肉塊が、自分と同じ顔をしていることに、気づくかもしれない。
初めて体感する音と衝撃と内まで漂ってくる血と臓物の匂いを得て、先ほどの心地よい風景が、今しがたミンチになった死体の夢だと気づくかもしれない。自分がいるのは電車の中などではなく、車輪と線路の溝と、枕木と石の隙間なのだと、気づくかもしれない。
少女と呼べる可憐さを持った彼女たちが、どうしてこのように在らなければならないのだろう。準備する時間も何もなく唐突に訪れた自分の死を目の当たりにして、いったいどんな抵抗ができる? どれだけを受け入れられる? 滑らかだった肌についた火傷やひきつれの痕を、どうやって愛せというのだろう。
いつか、少女たちがまやかしではない本物の花園で、自分は本当にお姫様であると信じられる日が来ることを夢想する。ここではないどこか、もっと幸福な地に向かえることを考える。例えそれが希望でしかないのだとしても、救いがあることを、私は願わずにはいられない。
「先生。一人ぼっちの私たちはね、私たちだけで恋をすると決めたんだ」
憔悴の残る瞳で天井を見つめながら、〝椿〟が言った。〝菫〟はまだ眠っていて、穏やかな寝息が静かに聞こえて来る。
「みんな失くしちゃったんだ。あの蝋燭の炎の中で、ぜんぶが燃えてしまったんだ。残ったのは私たちだけで、他には何もなかった。だから私たちは、二人だけで恋をすると決めたんだよ」
訥々と、言葉を零していく。彼女は今何を見ているのだろう、と私は考える。その未成熟な脳みその中で、何が蠢いているというのだろう。無機質な記述からは読み取れないものを、彼女たちは抱いている。
「それが、私の償いなんだ」
だから、菫。ごめんね。
「許して、欲しいんだ。君を傷つけた私を。君に恋してしまう、私のことを……」
開かれた目の端から、涙が伝っていく。彼女は嗚咽も上げずに涙を流して、やがて「先生、おやすみ」と言って眠りに落ちた。
珍しく、〝菫〟が夜中まで起きていることがあった。〝椿〟は先に眠り、〝菫〟は身体を起こして窓の外を見つめていた。私はそんな彼女の様子を眺めて、眠れないのかと問いかけた。
〝菫〟は首を横に振ってから、私と目を合わせて、布団の中から折りたたまれた紙を取り出し、差し出してきた。ずっと握っていたのか、手で持っている部分は皺がくっきりと刻まれていて、受け取ると少し湿っていた。
読んでいいのかと問うと、彼女は頷き、横になって注視の対象を私に移した。礼を言って、折り目を開く。
先生。私は ちゃつばきちゃんが大好きです。つばきちゃんは、ずっと私のことを守ろうとしてくれているからです。こんな私を好きって言ってくれるからです。ひどいことを言われてもしてもされても私を守ろうとしてくれたからです。私にしたことを泣きながらあやまってくれるからです。私はやさしいつばきちゃんが大好きです。でも、きっとつばきちゃんを苦しめているのは、私でしたす。つばきちゃんがおこるのは私のことです。つばきちゃんが泣くのは私のことです。私はちょっとだけつば ゃんがこわいです私のことが 嫌です。だから私はさいしょ先生が私をころしてくれることを思っていました。でも、つばきちゃんが笑うのはうれしいです。花のかんむりはきれいでした。私はいつか、つばきちゃんがおひめさまになれたらいいなって思います。あと、ありがとうの言ばも伝えたいです。
私はよわいので、少しのことしかできません。つばきちゃんになにもできません。だから、先生、私つばきちゃんのことを助けてくださあげてください。
顔を上げると、〝菫〟と目が合った。彼女は目元に人差し指を持ってくると、横に引いて何かを拭うような仕草をした。私は彼女が泣いているのかと思ったけれど、そうではないことをすぐに理解した。
ありがとう、と言うと、〝菫〟は頷いてから寝返りをうち、私に背を向けた。私は声を潜めて、おやすみ、と言って、手紙を大切にしまい込んだ。
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