第4話


 ねぇ、菫。私はね、眠る先生を見て決意したんだ。

 一人ぼっちの私たちは、私たちだけで恋を終わらせるって。



 うん、きっともう、怖がることは何もないんだね、椿ちゃん。

 椿ちゃんも先生も、もういなくならないんだね。



 *     *



 ひどい吐き気と頭痛で目を覚まし、躊躇なくその場で嘔吐した。

 椅子の上で項垂れて、脚の間にぶちまけられた吐瀉物を睥睨する。冷や汗と唾液を垂れ流しながら、現実を拒絶しかける頭で考える。私。私。私はここにいる。胃の中身だったものも存在して、では何が存在しないのかと問いかける。重い首を必死に回し、室内を見渡して、存在しない少女たちを発見する。存在しない少女たち。存在したはずの、存在しない少女。

 〝椿〟と〝菫〟。

 積まれた本の上に、折られた紙と花を見る。椅子に足を引っ掛けて転びそうになりながら、私はほとんど這って、手紙と、花の冠に手を伸ばし、掴み取る。〝菫〟のベッドに背中を預けてから、震える手で紙を開いた。



 先生へ


 先生、私たちを大切にしてくれてありがとう。たくさんのことを教えてくれてありがとう。先生がくれたたくさんの言葉がこの手紙を形作っていることを、先生はどう思うだろう、と考えます。

 これは別れの言葉です。これは、さよならの残り香です。

 優しい先生はきっと、私たちの言葉で苦しむと思います。これまでもずっと、先生は苦しそうだった。椿ちゃんが私のことで苦しむように、先生は私たちのことで苦しんでくれました。私たちはそれが嬉しかった。だから、私は先生にずっと苦しんでいて欲しい。椿ちゃんにはきっと、別の考えがあるのだと思います。でも、私は私の願いとして、先生を呪います。先生が私たちを生で呪ったように、私は先生を私たちの死で呪います。このひどい裏切りを、どうか恨んでください。これが、とっくに生きてなどいなかった私たちを、必死に生かそうとしてくれた先生への、私からの手向けです。

 先生、ありがとう。

 たくさんの言葉と、たくさんの世界に触れることができて嬉しかった。私の意味を言葉に記せるのが嬉しかった。椿ちゃんに、私の精一杯を伝えられて、嬉しかった。

 だからこそ、腐り果てる前に、私は私を殺します。




 病室のドアを開けた先には顔見知りの看護師が転がっていて、あちこちに血の痕が刻まれていた。鉄錆のような匂いに紛れて、遠くで悲鳴が響いている。

 血まみれの廊下に足を取られながら、なりふり構わず駆け出した。モニタールームは半開きで、そこにも引きずったような血の痕があった。鉄扉を勢いよく蹴飛ばして、中に走り込む。

 当直だった職員は当たり前のように死んでいて、椅子に座っていたそいつをひっくり返して場所を空けた。割られて暗転している大量のモニターの中で、唯一煌々と光っているものに、かじりつく。

 平べったい画面の中で、冠を被った小さな〝椿〟がこちらを見て、薄く微笑んだような気がした。

『先生、聞こえてる? 菫の手紙は、読んだかな』

 傍には冠を被った〝菫〟が立っていて、その足元には子供達と錠剤が散らばっている。肉の合間に彼女たちは立って、手をつないでこちらを見つめている。見通して、私を見ているのだと、私は知っている。

『先生。先生は私たちによくしてくれたから、別にいいかなって思うんだ。それは私だけじゃなくて、菫も、他のみんなも一緒だったよ。私たちは嬉しかったんだ。私たちを先生の中で生かそうとしてくれたのが、嬉しかった。だから、先生、ありがとう。けれど、私たちは先生を裏切るよ』

 リノリウムの床に、少女たちが写っている。そのぼやけた世界で、彼女たちはお姫様だった。花の冠をして、すべての人が傅くような、完璧なお姫様だった。

『本当は、もっと静かにやろうと思ったんだ。でも方法が思いつかなくって、結局こんなことになっちゃった。他の子たちは、あいつらにとっても怒っていたから、どうしようもなかったんだ。私も、菫に手を出そうとしたやつを殴っちゃった。先生、ごめんね』

 そんなことは構わない。構うものかと叫ぼうとしたけれど、声は掠れて一向に出る気配がなく、私は制御盤に拳を叩きつける。モニターの映像が一瞬たわみ、けれど〝椿〟は止まることなく言葉を連ねていく。

『もう、大切になった人がいなくなるのは、嫌なんだ。自分が自分でなくなっていくのも、もうたくさんなんだ。先生は私たちにこれから先をくれようとしたけれど、そんなものはあの日々がとうに奪い去ってしまったんだ。

 ねぇ、先生。私たちはきっと、醒めない夢を見るよ。この花の冠を被って、お姫様になりきって、終わらない夢を見に行くよ。痛いのも苦しいのもぜんぶをここに置き去りにして、これまでを悪い夢にしてしまうんだ』

 〝椿〟が言う。私はそれを、呆然と聞いている。

『先生、聞こえてるかな。聞いていてくれたら、嬉しいな。見届けて欲しいんだ。私たちの存在を。それから祈って欲しいんだ。私たちのこの名前が、希望になるように。

 ねぇ、先生。でも、ここから先は、私たちだけでいくね。一人ぼっちの私たちは、私たちだけで恋を終わらせるんだ。だから、先生とはここでお別れなんだ。

 先生、さようなら。私は先生のこと、〝菫〟の次くらいには……好きだったよ』

 彼女たちは私を見るのをやめた。そして二人で向かい合って、つないだ手を握りしめて。

 手に持った花と紙の存在を確かめる。今にも消えそうな、消えることを決意した彼女たちの残り香の実在を確かめずにはいられなかった。私は知らず知らずのうちにこれから先を想定し想像して、もはや思考も感情も行き場を失って、私はただ、その先が上映されていくのを、ぼんやりと、ぼんやりと眺めていた。

 少女たちは背を向けて、私を置いていくだろう。永遠の空を永久に流れていくに違いなく、やがて少女たちは花となって、私の前に姿を現わすのだ。

 私は、想像する。

 少女たちの存在を、私は想像する。



『たとえるなら、なんだろう』


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Medicine 伊島糸雨 @shiu_itoh

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