第2話 社畜ソルジャーはこうやってできていく
勇者が魔王を倒す。
そんな物語が、大好きだ。
いつでもぼくの友だちは物語だった。
学校でどんなイヤなことがあっても、英雄たちがぼくを支えてくれた。
一番力を与えてくれたのは――伝説の冒険者 タロウ・サトウだ。
実在する大英雄さ。なぜなら30年前、彼は世界を救った。
人類を滅ぼせるほど強大な力に立ち向かい、食い止めた。その身を引き換えに。
名誉の戦死だ。
彼の伝説は英雄譚として語り継がれていて、古い本なのに未だ人気はおとろえない。
そして一年前のこの日――季節は春。
彼の本を強く握りしめながら期待と不安で胸を膨らませていた。
「うわぁ……すごい……! 本物だ!」
見上げた先にあったのは、英雄タロウ・サトウの像だ。
巨大モンスターの上に立っている彼は、タイトな鎧を身に着け、剣を高く掲げている。
生前、彼は上級モンスターを次々と倒し、多くのダンジョンを攻略した。その数は世界最多だ。この記録を更新した者は誰もいない。
ぼくも彼のようになりたい――だからここまで来たんだ。
像の後ろにある建物へ、視線を送る。
その建築物は、遠くからでもハッキリと分かるくらい、目立っていた。
広い敷地の中に、あざやかな白の大きな建物がいくつもあって、何重にも重なったレンガの壁に囲まれている。
あれは魔法学園。タロウ・サトウの出身校だ。
そして、今日は入学式――あそこが、ぼくの居場所になるんだ。
いったいどんな出会いが待ってるんだろう。
興奮が抑えられない。いても経ってもいられず、ぼくは走り出した。
門を通り抜け、草が広がる庭へと入った。
何人か生徒がいる。食事中だったり移動中だったり仲間としゃべったりしている。
制服カッコいいなぁ。青と白を中心にカッチリとしたデザインだ。制服、というより戦闘服に近い。今日からぼくもあれを着られるんだ!
ワクワクが止まらない。楽しみだなぁ。
「あのぉ、入学式は明日ですが」
「えええええええええええええええ!」
学校の受付嬢の言葉に、大声を上げてしまった。
周りを見ると、視線がぼくに集中していた。恥ずかしい。
「で、でも、手紙には今日の日付が書いてあって……あの……」
「手紙、ですか。見せていただいても?」
「あ、は、はい」
背中からバックパックを下ろして、急いで中を探る。
入学式が明日? いったいどうなってるんだ。何度も確認したはずなのに。
背筋が冷たくなっていくのを感じる。
あった。震える手で中身を取り出し、受付嬢に差し出した。
「あの……これ……」
「拝見させていただきます」
彼女は受け取ったそれに目を通すと、ハッとなってこちらに顔を向けた。
「清掃奨学生の方ですね?」
「あ、そうです!」
「少々お待ちください」
「は、はい……」
言って、彼女は手紙をぼくに返すと、裏へ姿を消した。
どうやら話が通じたらしい。いや焦ったな。入学式、明日だったんだ。
ならどうして今日呼ばれたんだろう?
清掃奨学生だけ特別なのかな。例えば入学式が一日早いとか、研修があるとか?
ちなみに清掃奨学生っていうのは、朝早くから学校の清掃業をすることで学費や寮費が免除になるという制度だ。入学願書を出したところ、無事合格。
手紙には「ぜひ来てくれ」と、今日の日付が書いてあった。
受付嬢のあの様子だと、担当の人でも呼んできているはずだし、話はそれからか。
いったい何があるんだろ……ドキドキしてきた。
足音が聞こえてきた。
振り向くと、さっきの受付嬢と太った中年の男性がこちらに歩いて来ていた。
男性の方は魔術師ローブを羽織っている。たぶん教員だ。
「彼です」
「分かった。もういいよ」
受付嬢が定位置に戻っていく。
同時に、その男性が近くまで来た。
ちょっとしゃべりづらいな……でもこれからお世話になるわけだし、名前ぐらいは言っておこう。
「あの……ぼくの名前はっ……」
「あぁそういうのいいから」
教員はぼくの話をさえぎると、一枚の紙を渡してきた。
「これ、寮までの地図ね。今日からここで寝泊まりしてもらうから。じゃあ、明日六時にここの裏口来て。んじゃ」
「えっ……!?」
彼はぼくに背中を向けた。
どうやら今の説明だけで終わりらしい。いくらなんでも適当じゃないか?
「あ、あの……」
「あぁ?」
こちらへ振り向いた。あからさまにイヤな顔をしている。
「えっと、その……もっと詳しい説明とかは……」
「はぁ? 今のでじゅうぶんだろ」
「えっ……でも……」
「あのさぁ、俺忙しんだけど」
「……すいません」
「なんなんだよ」
教員は再びきびすを返そうとした。
まだ訊きたいことがあるのに。
「あ、あの……」
「なんだよ」
声に荒々しさがにじみ出ていた。明らかにイラついている。
「えっと……制服は……」
「はぁあ!? そんなん明日でいいだろ!? ウゼえな」
「あっ……」
今度こそ行ってしまった。
話を聞く気なんて一切ないようだ。
多分、次声をかけたらブチギレられる。
「はぁ……」
ため息をひとつ。
しょうがない。とりあえず、寮に行くしかないか。
同じ寮生の人なら、優しい人がいるかもしれないし。
◆◆◆
「なにこれ……」
寮と思われる場所に着いた。
そこは街外れで、森にさしかかったところだ。
生徒が何人も住む場所だから、キレイでなくてもそれになりに大きい屋敷かと思っていた。しかし、そこにあったのはボロボロの小屋だった。
もう何年も放置された感じで、庭は草が伸び放題。小屋自体は所々がくずれていて、つるだらけだ。
間違えたのかと思って何度も地図を見直したけど、やっぱり合っている。
本当にここに住まなきゃいけないのか?
いやでも、中はもしかしたら普通かもしれないし……!
ドアの取っ手を握りしめる。
いちるの望みをかけて、中を開けた。
「うわっ……」
つい声が出てしまった。
やっぱり中もオンボロだった。カビ臭くてホコリまみれで、汚い。ベッドもフトンもない。
しかも、水道設備もないようだ。もちろんシャワーも。最悪だ。
外に井戸があるけど、これで何とかしろってこと? いや、あんまりだ。
こんなのが、寮?
思っていたのとあまりにも違い過ぎる。
もっとマトもなところを用意するべきじゃないのか。
いくらタダとはいえ……いや、待てよ。
何百万という大金の授業料全額免除をしてくれることになっているんだった。
そもそも学校側は住処を用意する必要はないわけだし、モンクは言えない。
そう考えたら、割に合っているような気がしてきた。
……でも、たぶんこれ一人部屋だ。他に誰か来る気配もないし。
つまり、仲間との寮生活はなくなったということだ。
ずっと憧れてたのに。楽しみにしていたのに。
「はぁ……」
その場で座り込んで、しばらくぼーっとしていた。
すると、ホコリがベッタリとついたボロボロの机が目に入った。
……掃除、しなきゃな。
こんなんじゃまともに寝られないし、明日は入学式だ。これから忙しくなる。
それに、友達ができたときのために、いつでも招待できるようにしとかなきゃ。
何人かで集まって、お泊り会とかやりたいな!
「よし、やろう!」
勢いよく立ち上がって、すぐに取り掛かった。
まずは掃除用具をキレイにしたあと、吹き掃除したりゾウキンがけをしたり。
そんな感じで、終わったころには夕方になっていた。
今日の夕食はパンひとつだ。お腹はぜんぜんふくれないけど、節約しなきゃいけないしね。
フトンも買いたいけど、そんな余裕はない。代わりに田舎から持ってきたタオルを使って就寝。
とうとう明日は入学式だ。
楽しみだな。友達できるといいけど。
そうだ、清掃奨学生は他にもいるかもしれないな。きっとその子もぼくと同じような境遇に遭っているはず。苦しみをお互いに共有し合えるんだ。仲良くなれること間違いなしだ。
いったいどんな人がいるんだろうなぁ。
互いに高め合うライバルのような、親友のような存在になれるといいな。
いや、女の子って展開もいいな。壮大な英雄譚に美女のヒロインは欠かせないし。
何だか恥ずかしくなってきた。ニヤニヤが止まらない。
◆◆◆
いよいよ待ちに待った朝が来た。
いつも朝は苦手だけど、今日はスッキリ起きられた。
早々に準備をして、軽快な足取りで学校へ向かった。
時間内に無事到着。もう何人か待機してる人たちがいた。
灰色の作業着を着ているから、この人たちが清掃員だということはすぐに分かったけど……。
「あ、あれぇ~?」
おしゃべりをしている五、六〇代のおばさん。
黙って待機している白髪のおじさん。タバコ吸っている太ったおじいさん。
年配の人たちばかりじゃないか。同世代の子は……今のところ一人もいない。
いや、あきらめるのは早い。
もしかしらたら、まだ来ていないだけかもしれない。
「おはようございます」
年配の人たちが、そう口にしだした。
振り向くと、昨日の太った教員がこちらに向かって来ていた。
従業員の挨拶には一切反応せず、ズケズケと。
「お、おはようございます」
彼は無言で裏口の扉に鍵を差し込んだ。
やっぱり完全無視だ。
扉が開いて、おじさんおばさんがゾロゾロと中に入っていく。
ぼくも、何となくそれに続く。
扉をくぐりながら、後ろを振り返る。
誰もいないし、来る気配もない。
「……」
どうやら、清掃奨学生はぼくひとりだけのようだ。
他に一人ぐらいいてもおかしくないはずと思ったのに。
おじさんおばさんばかりの職場か……イヤというわけじゃないけど、やっぱ同世代の仲間がいた方が働きやすいよな……。
「はぁ……」
「おい!」
「は、はい……!」
荒々しい声が発せられた。
とっさに振り向くと、太った教員がみけんにシワを寄せていた。
「はいじゃねぇよ。お前さ、何ぼーっとしてんだよ」
「えっ、す、すいません……」
「早く掃除用具取って、やれよ!」
「えっと……あの……場所分からなくて……」
「外に倉庫あったろ!」
「は、はい……」
さっそく裏口へと足を進めた。逃げるように。
いきなりあんな怒ることないじゃないか。
自分から動けってことだろうけど、今日初めてだし分からないよ。
さすがに理不尽だ。こんな人が職場にいるのか。ヤダなぁ……。
「おい」
呼び止められた。
またモンクでも言われるのだろうか。
後ろへ顔を捻る。
「制服。今日からこれ着て」
「えっ……!」
ようやくだ。
昨日あの様子だったし、もしかしたら用意していないのかと不安になったけど、さすがにそんなことはなかった。よかった。
やっと着られるんだ。あのカッコいい制服が――
しかし、教員はそれを放り投げた。床に落ちる。
そんなザツに扱わないでよ。せっかくの制服な……
「!?」
床に落ちていたそれは、シワだらけの灰色の布だった。
拾い上げる。ただの作業着じゃないか。こんなの頼んでない。
「あ、あの……!」
「なんだよ。俺ヒマじゃないんだけど」
「えっと、ボクが言ったのは、これじゃなくて……学校の制服です」
「はぁ?」
「あの……今日入学式なんで、もう必要なんです……!」
「いやお前生徒じゃないじゃん」
「え……?」
生徒じゃない――今そう言った? 本当に? ぼくの聞き間違いか?
あ、そうか。ただの清掃員だと勘違いしているんだ。制度のことを知らないのか。
だって受付の人も、『清掃奨学生の方ですね?』ってぼくに言ってきたし。
「いえ、ぼく、生徒です! 清掃奨学生のワクで入ったんです!」
「はぁっ……あのなぁ、清掃奨学生は実績があるヤツだけなんだよ。勘違いすんな」
「へ……? 実績……?」
「当たり前だろ! タダで授業を受けられるなんてそんなうまい話があるか! それともあれか? お前は上級魔法でも発動できるのか? 冒険者としての功績でもあるのか?」
「ない……ですけっ……」
「だろうな!!」
大声で即答してきた。
話しが違う。理解が追い付かない。まさか、ぼくは入学できないのか?
いや、そんなはずはない。
「で、でも……手紙には『ぜひうちに』って……」
「ああ、そんな内容の手紙を送ったなぁ! 清掃員としてぜひ来てほしかったからなぁ!!」
「……!」
あれだけ不機嫌そうな顔をしていて教員が、今日初めて笑顔を見せた。
目を細め、口角を極端に上げている。顔にはたくさんのシワができていた。
「そんな……ウソだ……」
小さくつぶやく。目元がうるんできた。
体から力が抜けていく。膝から崩れ落ちた。
じゃあ、本当に入学できないの?
生徒になれないの?
こんなことがあるの?
だって、ずっと楽しみにしてたのに……。
楽しい授業……新しい仲間……理想の学園生活……これが全て、無し?
「あのなぁ! こっちはお前みたいなクズにも仕事だけじゃなくて住処まで与えてやってんだぞ。ほか行ってみろ、お前なんかどこも雇ってくれねぇよ。仕事があるって幸せに感謝しろよ」
あんまりだ。
コイツは、ぼくを騙したんだ。
こんなの詐欺じゃないか。
内側から、強い怒りが湧き上がってきた。真っ赤な熱湯が、フツフツと煮えたぎる。
強く拳を握りしめ、歯を食いしばった。
「おい!!」
声を荒らげてきた。体がビクついた。
見上げると、教員は顔を真っ赤にして、ぼくを睨みつけていた。
「早くやれよ」
「…………はい」
震える足で、その場を離れた。
おもいっきり怒鳴ってやりたかった。でも、怖くてできなかった。
それからはいろんな場所を掃除させられたけど、ずっとイライラしていた。
教員に暴言を吐かれても強く言い返す。そんな妄想を、何度もしてしまった。
なるべくポジティブなことを考えようとしたけど、気がつけば悪いことが頭の中を支配するんだ。
「はぁっ……」
やっと夕方だ。
さすがに疲れた。足が棒だ。
イヤなことをしていると、時間が経つのが遅い。もう三時間ぐらい経ったかと思ったら一時間ぐらいしか経っていなかった、なんてことはザラだ。
あぁ、キツいな。
お腹も空いた。昼食はパンひとつだけだ。
「おぉ新入り、終わったか。じゃあ次は第一校舎に戻ってくれ」
「はい……」
八〇歳ぐらいの太ったおじいさんがそう言ってきた。
仕方なく、外へ足を進める。
ぼく、何やってるんだろう。
おじさんおばさんたちにコキ使われて、ひたすら掃除。こんなことが、いつまで続くんだろう。
先の未来を考えれば考えるほど、虚無感が心を支配する。
第一校舎へ入る。
遠くから騒がしい声が聞こえてきた。
進んでいくにつれて音が大きくなっていく。大広間の方からだ。左側の壁から大きな扉が解放されていて、光と賑やかな声が溢れ出ている。いい匂いもする。何の食べ物だろう。自然と体が吸い寄せられていった。中を覗く。
「……!」
そこではパーティが行われていた。何百人もの生徒がいる。
みんな笑顔で楽しそうに会話をしていて、目をキラキラさせている。彼らのほとんどがキレイな制服を着ている。どうやら彼らの歓迎会らしい。
プロによる洗練された音楽が流れ、それに合わせてダンサーたちが踊る。
食事も豪華だ。トロトロのチーズが乗ったピザ。サラに大量に盛られたジューシーなチキン。鉄板の上でジュージューと音を立てるビッグステーキ。
本当なら、ぼくも出席するはずだったのに。
友達ができていたはずなのに。
楽しい学校生活が、これから始まるはずだったのに。
「おい!!」
「!?」
この声は……とっさに振り向く。今朝の教員だ。
こちらを強く睨みつけている。チキン片手に。
あぁ、どうしよう。
「お前何してんだよ」
「あ……えっと……間違えて来ちゃって……」
「じゃあ早く戻れよ。お前なんかがいるとメシがマズくなるんだ!」
「すいません……」
逃げるように走り去った。
焦ったな……心臓止まるかと思った。まだバクバク言っている。
それにしてもお酒とタバコの臭いがすごかった。
パーティは夜頃に終了した。
その後片づけをして、ようやく解散になった。
家に帰ってすぐ、フトン替わりのタオルに倒れ込んだ。
涙が出てきた。絶え間なく溢れてくる。
あの新入生たち、みんな輝いていた。いいなぁ。
こんなはずじゃなかったのに。本来ならぼくも明日から授業のはずなのに。
あの教員の顔が思い浮かぶ。顔を真っ赤に染めて、険しい表情を作っている。
また怒鳴られるのかな。イヤだなぁ……行きたくない。
村に帰りたい。温かいベッドで寝たい。でも戻ってしまえば、またバカにされる。
入学すらできなかった――それを知ったら、彼らは何て言ってくるか……。
「ううっ……うわあああぁ……」
どれだけ嫌だと叫んでも、明日は容赦なくやってくる。
あぁ、朝だ……目が覚めたとたん、心が絶望感に支配される。
寝た状態のまま、行きたくないなぁ、と心の中で繰り返し言い続ける。
時間ギリギリになって、重たい体を起こす。
パンを片手に、走りながら慌てて仕事に向かう。
もっと早くに準備を初めておけばよかった……と、後悔する毎朝だ。
◆◆◆
あれからもう一年経つのか。長かったな。本当に。
新一年生の入学式が行われたのは、つい数週間前のことだ。
パーティの片づけをさせられて、惨めな思いをした。
あの教員の振舞い方はよくなるどころか、悪化していく一方だ。
転職を何度も考えた。いや、考え中だ。
でも今は忙しいし、もっと落ち着いてからにしたいな。
新しい人間関係を作るのも、今はちょっとな……。
だいたい、辞めるって言ったら、あの教員がまた怒鳴ってくるかもしれないし。
なんだかんだ今は時期じゃないということだ。
いい職場もまだ見つかってないし。何より、また同じことになるのは絶対にゴメンだ。
「終わったか。次、第一の二階の教室な」
「あ、はい」
今日は何時に終わるんだろう。早く帰りたいなぁ。
モップとバケツを手に、外を歩く。
ふと、行先である第一校舎を見上げた。
「!」
校舎の窓側に、桃色の長い髪の女の子が立っていた。
目を凝らして、よく見る。
あの子は――キャロラインさんじゃないか。
今日の昼休みにぼくを助けてくれた子だ。
いるのは二階の教室。ちょうど掃除しに行くところじゃないか!
もしかしたらまた会えるかもしれない。急ごう!
ぼくはすぐさま走り出した。
◆◆◆
魔法学校の校舎全体が夕日色に染まっていく。
その敷地内の一角に、小さなマンホールがあった。
一見すると何の変哲もない。
完全に道に溶け込んでおり、存在に気づく者は誰もいない。
しかし、突如としてそれは開いた。暗闇の中で二つの眼が光る。
見つめている先は、一人の少年である。
灰色の作業着を着ており、いかにも頼りなさそうな感じだ。
年齢はこの学校の生徒と同じぐらいだが、彼自身は生徒ではないようだ。
さきほどまでやる気のなさそうにノロノロと歩いていたはずが、急に軽快な足取りになり、校舎の中に入っていった。
「ふぅん。あの子、いいねぇ」
マンホールの中の男は、不敵に笑った。その少年を見ながら。
バサバサとした長めの黒髪。薄い顔をしており、この大陸の人間とは明らかに人種が違う。
細身の体系でかなりラフな格好をしている彼だが、実はこの世界では英雄扱いされている。
名は――タロウ・サトウ。
「よし決めた。あの子にしよう。これから楽しくなるぞ。ふふぅっ」
その言葉を最後に、マンホールは閉じられた。
青年は沈んでいく――下水道へと。
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