39 聖女であることは、絶対にバレるわけにはいかない。


「あ、あの……っ」


 手を引き抜こうとするが、レイシェルト様の大きくあたたかな手のひらはしっかりと包み込んで放してくれない。


 私がおろおろしている間に、マルゲが開けた扉をくぐったレイシェルト様が淀みのない足取りで進んでいく。行く先は敷地のすぐ外に止められた馬車だ。ロブセルさんと三人で馬車に乗り込むと、さっそく馬車が動き出す。


「さ、先ほどは助けていただき、誠にありがとうございました」


 馬車に乗り、隣に座したレイシェルト様に、深々と頭を下げる。


 レイシェルト様が来てくださらなかったら、今もまだ、お母様に責め立てられていただろう。


「きみは……」


 馬車に乗ったというのに、まだつないだままのレイシェルト様の手に、力がこもる。


「公爵家でいつもあのような仕打ちを受けているのかい?」


 レイシェルト様が端正な面輪を気遣わしげにしかめて、私の顔を覗きこむ。


「いえっ、あの……っ」


 少しでも距離をとろうとのけぞりながら、ふるふるとかぶりを振る。


「ほ、本邸に呼ばれることなんて滅多にないので……っ! 今日は本当にたまたまで……っ」


 私の言葉にレイシェルト様の眉がますますきつく寄る。


「つまり、きみは公爵家の娘でありながら、本邸への出入りさえも禁じられていると?」


「えっ、あの……っ」

 強いまなざしから逃げるように視線を伏せる。


「その……。私は邪悪の娘ですから……。お母様が忌み嫌われるのも仕方がないのです……」


「そんなもの!」


 不意に響いたひび割れた声に、弾かれたように顔を上げる。レイシェルト様の碧い瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。


「きみは、ただ黒い髪と黒い瞳を持つほかは、ふつうの娘となんら変わりないだろう!? きみが邪悪の娘などというわけがない!」


「レイシェルト様……っ」

 感動に目が潤みそうになる。


 この世界に生まれてから、そんなことを言ってくれた人なんて、マルゲを除けば、ただ一人としていなかった。


 つないでいないほうのレイシェルト様の手が、そっと私の頬へ伸ばされる。


「わたしは、きみの黒髪も黒い瞳も、とても綺麗だと思うよ」


 大きくあたたかな手のひらがそっと頬を包む。


 って! いえいえいえっ! 綺麗なのは私などではなくてレイシェルト様ですっ! その外見もお心も! 尊すぎますっ!


 っていうかあのっ! 意識が遠のきそうなんですけどっ! 心臓が壊れちゃいます――っ!


「あああああありがとうございます……っ! ですがあのっ、ロブセル様が……っ!」


 必死で声を絞り出すと、レイシェルト様が我に返ったように身を離した。頬を包んでいた手とつないでいた手が離れて、ほっとする。


 しししし心臓に悪かったぁ――っ!


 レイシェルト様の行動に度肝を抜かれたのだろう。向かいの席に一人で座るロブセルさんも信じられないものを見たように、目を見開いて固まっている。


 と、妙な雰囲気になった馬車の空気を打ち払うように、ロブセルさんが咳払いする。


「殿下がおっしゃる通り、わたしもエリシア様の御髪おぐしは、とてもお美しいと思います。まるで、夜の深い闇を閉じ込めたかのよう……」


 ロブセルさんの言葉に、レイシェルト様がぴくりと反応する。それに気づかぬ様子で、ロブセルさんが首をかしげた。


「その……。セレイア様は聖女でいらっしゃいますが、エリシア様ご自身は、何らかの力をお持ちではいらっしゃらないのですか?」


「え……っ!?」


 ロブセルさんの質問に、どきりと心臓が轟く。


 邪悪の娘である私が、聖女の力を持っているかもしれないなんて考えた人は、今まで一度もいなかった。ずっと仕えてくれているマルゲでさえ、私が聖女の力を持っていることは知らない。


 予想だにしなかった質問に、頭が真っ白になる。


 私が聖女であることは、絶対にバレるわけにはいかない。


「ロ、ロブセル様ったら……っ。王家の方々と違い、聖者や聖女の力は、血筋で受け継がれるわけじゃありませんから。私が聖女の力を持ってるなんて! そんなこと、あるはずがありません!」


 できるだけ自然な調子で言えていますようにと願いながら、ふるふるとかぶりを振る。


「だが、予言の聖者が、「サランレッド公爵家に聖女が生まれる」と予言して生まれたのは、きみだ」


 レイシェルト様までが神妙な面持ちで呟く。


「だ、だからセレイアが生まれたではありませんか! よ、予言の聖者様は、何年に生まれるとまではおっしゃらなかったのでしょう?」


「それはそうだが……」

 レイシェルト様が硬い表情で頷く。


「せめて、他の家にも聖女が生まれていればな。……あれほど、増長することもなかったのだろうが……」


 レイシェルト様の呟きは低すぎて、よく聞こえない。


「レイシェルト様?」


「ああ、いや……。来週には神前試合が行われる。セレイア嬢は、さぞ張り切っているのだろうな?」


「ええ、それはもう!」

 話題が移ってほっとしながら、私は大きく頷く。


「今年は、セレイアが主となって祈りを捧げるそうなんです! 毎日、念入りに水垢離みずごりをして身を清めていますよ」


 私にしてみれば、毎日水垢離をしているなんて、セレイアの熱心さには本当に感心する。


「今回はセレイア様が主となって儀式を執り行われるのですか……。それはさぞかし、絵になるでしょうね」


 ロブセルさんが宮廷画家らしく、わくわくした表情で告げる。


「そうですね! 私も見るのが楽しみです!」


 まあ、邪悪の娘である私は最後尾でしか見られないだろうから、人垣の向こうのセレイアの姿は、たぶんろくに見られないだろうけど……。


「……エリシア嬢は、セレイア嬢と仲がよいのかい?」


 レイシェルト様が意外そうに碧い瞳を瞬かせる。


「ええっと……。私はセレイアが好きですよ。何と言っても可愛い妹ですから。その……。セレイアがどう思ってくれているかは、わかりませんけれど……。その、私などと親しくしていては、不都合もあるでしょうから……」


 うつむき、答えたところで、先ほどお母様から告げられた言葉を思い出す。


「あのっ!」


 急にがばりと顔を上げた私に、レイシェルト様が驚いたように目を瞠る。


「わ、私が王城に出入りすることで、皆様にご迷惑をおかけしているのではありませんか……っ!?」


 問う声が否応なしに震える。


 レイシェルト様を推すことをお許しくださっただけで、天にも昇るほどありがたいというのに、私のせいでレイシェルト様や王妃様達にご迷惑をおかけしていたのだとしたら……。


 貴族達の陰口がどれほど陰湿で口さがないか、ずっと聞いてきたからよく知っている。


 邪悪の娘である私は、どれほど悪く言われたってかまわない。けれど、私が推しているせいで、レイシェルト様まで悪く言われたら――っ!


 恐怖のあまり、固く目を閉じ身を震わせる。


 レイシェルト様が「そうだ」とおっしゃったら、ロブセルさんには申し訳ないけれど、今すぐ馬車を降りさせてもらおう。


 たった数日間だけれども、一生推し続けられるだけの素晴らしい想い出の数々をレイシェルト様にいただいている。


 思い出すだけで尊さ爆発必至のレイシェルト様のお姿を一生のお宝にして……、


「エリシア嬢。わたしを見てごらん」


 静かなレイシェルト様の声に、おずおずとまぶたを開ける。途端、真っ直ぐに見つめる碧い瞳とぱちりと視線が合い、魅入られて目が離せなくなった。


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