第103話 自由の国③
「「「な――――っ!!?」」」
ざわざわっ
衆目を全く気にする素振りすらなく、当たり前のような顔で口移しで聖水を飲ませる行為に、周囲が動揺にざわめく。
性愛に溺れることを教義の中で禁止されているエルム教徒にとって、恋人や伴侶との口づけを衆目の最中で行うなどというのは、とても信じがたい行為でしかない。
それが、恋人同士の口づけではなく、意識のないミレニアに聖水を飲ませるための行為なのだと頭では理解していたとしても、周囲のどよめきの大きさを聞くに、おそらくその場にいる全員に相当な動揺が走ったのだろう。
「ななな、何を――」
「口移しで飲ませただけだ。そんなに驚くことでもないだろう」
「おっ……おおおお驚きますよ!!!」
ロロは地上からひっくり返った声を出すクルサールに構わず、今しがた唇を寄せたミレニアの顔をじぃっと覗き込む。
「……ん……ぅ……」
真っ青だった顔色は、ほんのりと頬に赤みが差して血色がよくなったようだ。小さく呻きながら身じろぎをするそぶりを見せる。
漆黒の長い睫毛が微かに揺れる様は、まるで美しい黒揚羽が今にも飛び立とうと羽を広げんとするかのような可憐さだった。
「いきなり人目のある場所で口付けることもそうですが――何より、貴方がミレニア様にそのようなことをするだなんて――」
クルサールは、紅玉宮にいたころから二人の関係性を良く知っている。
視界に入ることすら恐れ多い、手を触れることなどもってのほか、名前を口にすることすら憚られる――そんなことを言って、憎らしく思っているクルサールとの婚姻にすら協力しようとしていたロロだ。
女神の清らかな唇に、奴隷の穢れた唇が触れることなどありえない――などと言い出しそうな男だったのだ。
天地がひっくり返っても、彼の方から唇を寄せるなど、あり得ないと思っていた。
「緊急事態だ。仕方がない」
「そ、そうかもしれませんが……それにしたって、貴方自身がする必要はないでしょう……」
今までのロロの性格を思えば、仮にクルサールのことを蛇蝎のごとく嫌っていたとしても、身分として釣り合っているのであれば、クルサールにその役目を頼むことも厭わないはずだった。
信じられないものを見る目で馬上を凝視するクルサールに、ロロは顔を顰めて口の中で呻く。
「年貢の納め時が来ただけだ」
「……?」
疑問符を上げるクルサールの視線に言葉を返すことはなく、ギロリと鋭い視線だけで返事をする。
明確に敵意を持ったその視線は、いつもの恨みと殺気のこもった視線と、少し性質の違う何かが混じっているような気がして、クルサールはパチリと目を瞬いた。
「これから先、この方に邪な感情を抱いて近づいてみろ。細切れにして塵も残さず燃やすぞ」
「――……」
それは、ロロによる初めての”牽制”。
ぎゅっとミレニアを腕の中に隠すようにしてクルサールを睨み据えるその視線は、護衛兵というよりも、まるで――
「……ぅ……」
ロロに抱きかかえられたまま、少し苦し気にミレニアが呻く。
視線を落とせば、聖水の一口では回復しきらなかったのか、花に留まった揚羽蝶が漆黒の羽を震わすように微かに揺れる睫毛は、固く閉ざされたまま、まだ押し開かれる気配はない。
桜色の唇が、苦しそうに酸素を求めて開いたのを見て、ロロはもう一度瓶の中身を煽り、当たり前のような顔をして再び口移しで聖水を与えた。
「ん……ぅ……――?」
こくり、こくり、と喉を鳴らしていた少女の漆黒の睫毛が、やがてゆっくりと押し開かれる。
ぼんやりとした翡翠の瞳が、至近距離にある酷く整った青年の顔立ちを捉えた。
「――――んぇ!!?」
「……お目覚めですか」
思わずパニックになって、謎の奇声を発しながら目の前の身体を押し返すと、見慣れた美貌がいつも通りの無表情で離れていく。
「え――!?えっ、え――!!???」
(い――いいいい今――き、きききき――!!!?)
混乱のあまり、「キス」の言葉を思い浮かべることすら出来ず、頭を沸騰させながら、信じられない気持ちで両手で唇を抑える。顔面から炎が噴き出しそうだった。
つい先ほどまで、青年と結ばれることすら諦められると覚悟を決めたばかりなのに――これは一体、何の冗談なのか。
「今から貴女を連れて、単騎で魔物を討ちに行きます。全速力で獣道を駆けるので、振り落とされぬようしっかりと捕まっていてください」
「え、ぁ、ぅ、は、はい……?」
普段、指を触れることすら忌避するような相手に口付けをしたとは思えない冷静な表情で言われて、ミレニアはぐるぐると眼を白黒させながら、取り敢えず回らない頭で言われた通り目の前の身体にしがみつく。
「貴女が言ったのです。――早く終わらせて、帰りましょう。貴女が創る、『自由の国』に」
「え、えぇ――」
手綱を取って馬の頭を大きく進行方向へと振るロロに頷きながら、ぎゅっと逞しい身体にしがみ付けば、愛しい香りと懐かしい体温に、泣きそうになった。
――生きている。
――――生きている。
世界で一番大好きで、大切で、決して失うことが出来ない青年が、今、こうしてミレニアの目の前で、鼓動を響かせ、温かな腕でミレニアを抱きしめてくれている。
(あぁ……もう、これ以上は何も望まない――)
きゅ……と音を立てる胸の奥でそう呟いて、いつも寝落ちてしまったときにそうするように、無意識に甘えるように額をこすりつける。
帰国すれば、もうこんな風に抱きしめてもらえることは無くなるかもしれない。
再び、視界に入ることも、手を触れることも御免だといって、他の男と幸せになってくれと懇願される日々が始まるのかもしれない。
だから最後の想い出に、愛しい青年の全てを覚えておきたくて、ミレニアは馬上であることを口実に、しっかりとしがみつきながら、泣きそうな瞳を見られまいと顔を伏せた。
(大丈夫――きっと、忘れない)
ミレニアが、生涯ロロ以外の男性を、ロロ以上に愛すことなどありえないだろう。
だからきっと――ミレニアは、生涯誰とも、結婚しない。
それでもいい。結婚だけが女の幸せだ、などという価値観の国を作るつもりなど毛頭ない。
生涯、決して触れることも、視界に収めることも出来ない代わりに、ずっと影のように傍に寄り添ってくれる誰より優しい青年。
”愛”の形に、決まりはない。
例え他者から見て、それが”愛”に見えなくても――あんなにミレニアが切望していた”家族”という形を取ることは出来なくても――ミレニアが心から愛するのは、今、目の前で温かな鼓動を響かせている、大好きな青年以外にはいないから――
「――ミレニア」
「――――――――――へっっ!?」
頭上から、あまりにも当たり前のような響きで名前を呼ばれて、一拍――いや、三拍ほど遅れて、顔を跳ね上げる。
素面の彼が、ミレニアの名前を当たり前のように呼ぶことなど、天地がひっくり返ってもありえないと思っていた。
素っ頓狂な声を上げて見上げると、目の前に、何度見てもため息が出るほど整った顔面がある。
そのまま、うっとりするほど美しい紅玉が近づき――零距離になるまで、あっという間だった。
「――――――」
(へ――――……)
軽く指で顎を支えられるようにして、幻のようにふっ……と唇が重なる。
ちゅ……と小さなリップ音が鳴ったのを鼓膜が拾うが、まるで遠い世界で起きた出来事のようにして脳みそに留まることなく情報が無為に駆け抜けていく。
触れたときと同じくらいあっさりと離れて行った酷く整ったいつもの無表情が、紅い瞳でミレニアを見下ろし、たった今少女に口付けた唇を開いた。
「こんな俺でいいと言うなら、アンタが望む全部を叶えてやる。――帰ったら、結婚式だ」
「――――――は――――?」
ぽかん……
口を開いて固まったのは、ミレニアだけではなく、周囲で成り行きを見守っていた兵士たちもまた、同じだ。
「口を開いていると、舌を噛むぞ」
「へ?ちょ、待っ、意味がわからな――ひゃぅ!!?」
ドッと馬の腹に乱暴に蹴りを入れた瞬間、森の中に高い嘶きが響き、鍛え抜かれた軍馬はすぐにトップスピードに移行する。
(な――なななななななな何!!?何が起きてるの!!これ……夢!!?)
猛スピードで緑の中を駆けていく馬上で、振り落とされないようにロロにしがみつきながら、ミレニアは混乱する頭を持て余す。
衝撃発言をした張本人に、どういうつもりなのかと問い詰めたいところだが、激しく揺れる馬上では口を開くことなどとても叶わない。
「もう一段スピードを上げる。しっかり捕まっていてくれ」
上から降ってくる声は、どこまでも冷静ないつも通りの響き。
あまりに通常運転な青年の様子からは、今起きたことは全て、ロロを失うことが受け入れられないミレニアの頭が造り出した妄想だったのではないかとすら思えてくる。
だけど――唇に残る湿った熱だけは、いつまで経っても確かに消えない”現実”で。
「~~~~~っ!」
声にならない悲鳴を上げて、駆け出した心臓と同じタイミングでぐんと上がったスピードに振り落とされぬよう、ミレニアは目の前の逞しい身体にぎゅぅっと目一杯しがみ付くしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます