第102話 自由の国②

 何度も、女神の声が頭の中で響いていた。

 「返事をして」「瞳を開けて」と悲痛な響きで乞われるたびに、早く応えなければと焦燥が募った。

 乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨のような温かな雫が頬を濡らせば、止まりかける心臓が脈打ち、必死に肺が酸素を求めて喘いた。


(足掻け――足掻け、足掻け、足掻け――!)


 冷たい枷を嵌められて、自由を奪われていた肥溜めの底で、何万回と経験した感覚。

 忍び寄る濃厚な『死の気配』に全力で抗い、足掻き、息を吸って、吐いて、心臓を動かす、醜い虫けらのちっぽけな意地。

 ミレニアに救われ、”人間”として生きる自由を得たあの日以来、こんな醜い足掻き方をすることは二度とないと思っていた。

 女神の傍で生きることを許され、女神のために死ぬことが出来るのは、ロロにとって、最高の誉。

 醜く汚く生に執着するのは、薄汚れた奴隷のすることだ。

 高潔な魂を持つ女神に仕える僥倖を思えば、自分も彼女に相応しい男でありたい。――そう思って、生きてきた。


「”お願い”よ……!私は、お前にずっと、傍にいてほしいの――!」


 女神が、涙を流して懇願する。

 美しく清らかな宝石のような涙を流して、人目を憚らず、泣いている。


 生まれながらにして、女帝たりえる人物だった。

 いつだって、自分のことは後回し。民と、従者と、国のために、己の命さえ擲てる、皇族の鑑のような人だった。

 それはまさしく、神に見捨てられし大地と名付けられた国で、神の代わりに民を守る、現世に遣わされた女神そのもの。

 従者の前で、民の前で、弱音を吐くことなど、彼女の矜持が許しはしなかった。

 最愛の父が崩御しようと、涙の一滴も見せない人だった。血を分けた兄たちに理不尽な死を突きつけられても、毅然と己の人生の終着点を見据えて突き進めるような、強い、美しい、人だった。


 その彼女が――己の矜持をかなぐり捨ててまで、叶えてほしい”我儘”だと言って願いを口にしているのだ。


 たとえ、醜く汚い虫けらのような行為だと誰に蔑まれたとしても――少女の渾身の”我儘”を叶えられるなら、構わない。


(姫――!)


 少女の期待に応えるために返事をしようと息を吸うたび、何度も咽て、せり上がってくる血の塊を吐き出す。

 クルサールと二人係での治癒の効力は凄まじく、徐々に体に力が漲り、苦痛が和らいでいくのが分かった。


「お前が嫌がることは、もう、何もしないから――」


(違う――!)


 否定したいのに、身体が言うことを聞かず、再び身体を折って咳き込む。

 ミレニアが望むことは、ロロが望むことだ。

 ロロは、『ミレニアの物』なのだから。


(アンタに望まれて、嫌だったことなど一つもない――!)


 生涯ずっと傍に、と命令されることも。

 『私の物』といって、執着されることも。

 「愛している」と言って、伴侶として望まれることも――


(嫌だったわけじゃない――全部、全部、嬉しくて――)


 少女の”我儘”など、我儘のうちに入らない。

 その昔、奴隷小屋で暮らしていた時代に上流階級の人間たちに強いられた”理不尽”とは、違うのだ。

 少女が何かを望むとき、ロロはいつも、生きている実感を得る。

 愛しい人に、誰より必要とされているという、世界で一番の幸福を得るのだ。


 愛しく懐かしい体温が、いつものように左頬に触れたと同時、全力を振り絞って瞳を開ける。


「ひ、め――……」


 絞り出した声は酷く掠れて聞き取りにくかっただろうが、霞んだ視界の中、パァッと輝いた少女の顔を見て、しっかりと音が届いたことを悟った。

 そのまま、少女は安堵したように頬を緩めて、ふっ……と意識を失い、己の胸の上に頽れる。

 ざわっ……と胸がざわめいた。


「っ、く……!」


「まだ動かないでください!私はミレニア様のような知識がない……!完全回復には時間がかかります!」


 咄嗟に身体を起こして意識を失ったミレニアの無事を確認しようとすると、憎い男の声が傍らから飛んだ。

 ぐらり、と視界が揺らぐ。どうやら、血を失いすぎているらしい。

 視界を維持していることすら辛くて、瞳を閉じて情報を遮断しながら、必死に右手を彷徨わせる。己の上に頽れるようにして意識を失ったミレニアがバランスを崩してぬかるんだ地面に落ちないように、少女の身体を支えるように添えた。

 掌に伝わるミレニアの体温が温かく、静かに呼吸をしている気配に、ただ昏睡しているだけだと悟ってほっと安堵の息を吐く。

 自分がどんな状態だろうと、少女の無事と安全が確認できなければ、ロロは治癒に専念など出来はしない。

 止まない眩暈と襲い来る吐き気に耐えながら、ロロはやっと己の身体の状態へと意識を飛ばした。


(傷口は塞がって、止血は出来ている……吐血の衝動も治まった……今は単純に、体内で、失った分の血液量を補うだけの血液の生成が追いついていない状態か――?)


 過去、何度となく闘技場で瀕死の重傷を負ったことがある。様々な過去の経験から、自分の状態を推察し、ロロは思い通りに動かない身体を叱咤しながら、左手を胸へと這わせた。


「何を――?」


 クルサールが怪訝な声を上げるのを頭の片隅で聞きながら、手探りで胸元を探り、目当ての金属の質感を見つけると、すぅっと指を滑らせて、鎖につながる宝石を握り締めた。

 戦場に出ていく前に、愛しい女神が唇を寄せてくれた、世界一の価値がある宝石。

 何度となくロロを救ってくれた”おまじない”が込められた、翡翠の首飾り。


「っ……!」


 イメージを脳裏に描きながら魔力を籠めれば、パァッとミレニアが願いを込めた首飾りから光が放たれ、すぅっと身体が軽くなる。

 ロロが襲われたときにこの場に居合わせず、中途半端にミレニアが治癒した状態しか見ていないクルサールが描く”全快”のイメージに頼っていては、どれだけの時間がかかるかわからない。

 自分で自分の身体を治癒したロロは、酷く重たく感じる身体をむくりと起こし、すぐにぎゅっと意識を失ったミレニアを腕の中にしっかり抱え込んだ。


「俺の、剣は」


「え――」


「左の剣だ。どこにある」


 相変わらずクルサールのことが気に入らないことを隠しもしない剣呑な顔のまま、掠れた声で鋭く問いかけられ、紺碧の瞳が数度瞬く。周囲にいた兵士がハッと気づいて、すぐさま傍に落ちていたロロの双剣を持ってきた。

 ミレニアを抱いていない左手でそれを受け取り、再び瞳を閉じてカッと魔力を解放する。

 死線をさまよい、血液の生成で枯渇しそうだった体力が全快するのがわかった。


「状況を確認したい。俺が意識を失っている間、何か事態に進展はあったのか」


「あ――えぇと……いえ。魔物に魅入られた兵士は命を絶たれました。ミレニア様は、そのまま軍を進めることなくここで貴方を治療することを選ばれました。その間、魔物の襲撃もなく、今は落ち着いています」


「そうか。……だいたい、予想通りだ」


 口の中に残っていた鉄臭い唾液を行儀悪く地面に吐き出した後、何度も吐血したせいで汚れた口元を乱暴に袖口で拭いながらつぶやく。

 夢か現かわからない出来事だったが――魔物が時を止めてロロに接触を図り、光魔法で撃退されたのが事実だとすれば、今、魔物に力はほとんど残っていないはずだ。眷属である魔物を統率してこの本陣に襲い掛かるような余裕はないだろう。


「とはいえ、いつ魔物の攻撃が再開されるかわかりません。ミレニア様が意識を失われた以上、本陣の結界を維持できるのは私だけです。進軍速度は遅くなります。ロロ殿が復活したのなら、すぐにでも進軍準備を整え――」


「いや。……いい。必要ない」


 ”将”の顔つきになったクルサールの言葉を遮り、ロロは受け取った己の双剣を確かめ、不具合がないことを確認してから腰に戻す。


「何を言って――!ここまで来たのです!私たちに、”次”はない!何としても今回の進軍で、魔物を討伐せねば――!」


「はき違えるな。俺が必要ないと言ったのは『進軍準備』だ。……魔物を討伐しないとは言っていない」


「な――」


 ロロの言葉の意味が分からず、ぽかんと口を開けるクルサールをじろりと見て、ロロは口を開いた。


「魔物は今、力を失い、攻撃も防御も叶わない無防備な状態だ。奴が力を取り戻す前に、全速力で踏み込んで命を奪うべきだろう」


「ですから――!」


「――俺は、東の魔物の棲み処も、姿かたちも、よく知っている」


 ひやり、とした声がクルサールを遮る。

 軽く嘆息して、ロロは淡々と説明を続けた。


「アイツがいるのは、森の奥の、深い洞窟だ。入り口は小さいが、奥が広くなっている、陽の光も差さない寒々しい場所だ。魔物の身体は巨大で――生まれたときにその洞窟の奥に出現したんだろう。身体の大きさに対して、入り口が小さいせいで、アイツの本体はあの場所から動くことが出来ない」


「な――!?」


「だから、思念を飛ばして、眷属となる魔物を使役する。人間を唆して契約し、闇の魔法使いを生み出す。それらに長けたやっかいな相手ではあるが――逆に言えば、思念を飛ばすことにすべての力を注ぎ込んでいる奴だ。思念体は、奴の本体といっても過言ではない。……その思念体に、姫が付与してくださった退魔の魔法を真正面からぶつけてやった。今頃、瀕死の状態で、逃げることも反撃することも出来ないまま、あの暗くジメジメしたクソみたいな洞窟の中、蹲っているはずだ」


 クルサールは、何度も目を瞬いて驚きに声を失う。

 ロロはもう一度嘆息してから、言葉を続ける。


「少しでも回復すれば、また思念を飛ばして手足になる契約者を探し始めるだろう。こんなデカい軍勢を率いて亀のような歩みで進めていては、回復後に狙い撃ちしてくれと言っているようなものだ」


 言いながら腰に付けられたポーチを自由な左手で探り、小瓶を一つ取り出す。器用に左手だけでキュポッと音を立てて蓋を取ると、ぐいっと喉の奥に液体を流し込んだ。

 魔力を回復する光魔法を練り込んだ、不思議な水――”聖水”。


「ならば――森の中、俺が単騎で目的地まで駆け抜け、洞窟で動けなくなっている敵を殺す方が早い。ここから先は、時間との勝負だ。敵が回復し、攻撃を仕掛けてくるか――俺が先に敵の根城に踏み込むのが先か。……お前たちは、ここで光の結界を張って魔物の襲撃に備えながら、俺が戻ってくるまで守りを固めているだけでいい」


「あ……貴方は――一体……」


 聖水を飲み干してぐいっと唇を手の甲で拭ったロロに、クルサールが呆然とした声で問いかける。

 当然の問いかけともいえるそれに、ロロは嘆息して口を開いた。


「……何故、という問いには答えられない。だが、嘘を言っているわけじゃない。信じるかどうかは、お前たち次第だ」


 いつもの無表情で言いながら、ミレニアの身体を抱え直す。

 意識のない少女の顔を覗き込むと、蒼い顔で苦しそうに額に玉の汗をにじませていた。


「……姫は、魔力の使いすぎで昏睡した。それ以外に、何者にも害されてはいない。――そうだな?」


「え、えぇ……」


 じろじろと少女の身体を隅々まで眺め、念のため外傷の有無を確認しているらしい過保護な護衛兵に呆れながら、クルサールはこくり、と頷く。

 

「……そうか。……では、洞窟まで、姫も連れて行く」


「なっ!?何を言って――!」


「言っただろう。ここからは時間との勝負だ。俺が到達するより先に、この本陣が襲われたとして――魔物の襲撃だろうが、闇の魔法使いによる同士討ちだろうが、俺の視界の外で姫が危険にさらされる場所に置き去りになど出来ない。……お前のことも、信用は出来ないからな」


 ギロリ、と殺気の含んだ視線を投げられ、クルサールは閉口する。たった一度の裏切りを、どうやらこの男は生涯ずっと引きずるらしい。

 ロロにとっては、たった一度ではなく、何十回と繰り返された裏切り行為なのだから当然だが、それをクルサールが知る由はなかった。


「お前は残った怪我人の治療でもしながら、ここに陣取っていればいい。正直、お前の利になることを叶えてやるなんざ御免だが――姫が、望まれたことだ。確かに魔物を討ち取って戻ってくると約束しよう」


 言いながら少女の小柄な身体を横抱きにして、ロロは愛馬へと歩み寄る。

 一瞬それを無言で見送りそうになってから、クルサールは慌ててその背を追いかけた。


「ま、待ってください……!いくらミレニア様のことが心配だからと言って――魔力枯渇による昏睡状態は、数日単位で続くこともあります!意識のない彼女を馬に乗せて、万が一途中で魔物の襲撃があったら――いや、なかったとしても、魔物の棲み処という洞窟に辿り着いたとて、まさかそうして横抱きにして討伐に向かうとでも言うのですか――!?」


 ひょいっと器用に愛馬にまたがり、少女を己の前に座らせるようにして抱えたロロに、地上から慌てて声を張り上げる。

 狂信的な奴隷を思いとどまらせるために、何を伝えるべきか――必死に頭を巡らせるクルサールを前に、ロロは構うことなく再び腰のポーチを探った。


「魔力枯渇による昏睡なら、魔力が回復すれば目を覚ますだろう」


「な――そ、それはそうですが、一度枯渇した魔力を取り戻すには――」


 きゅぽん

 五月蠅いクルサールの声に、不機嫌そうに眉を顰めながら、ロロは片手で小瓶の蓋を開け、中身を煽る。



 ――そのまま、躊躇うことなく、ぐったりと意識を失っている少女の清らかな唇に口付けた。

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