第101話 自由の国①

 ミレニアの治癒能力は本物だ。

 神童と謳われたその頭脳に詰め込まれた知識は、当時国家最高の薬師と評された老齢のジュゴスによって手ずから教えられたものだ。幼いころから薬師となる運命が定められ、その道を究めるために生きていたと言っても過言ではない第十皇子グンデですら、ジュゴスの眼鏡にかなうことはなかったのだから、ミレニアの優秀さに議論の余地はない。

 故に、その豊富な知識と経験に裏付けられて行使される治癒の魔法は、間違いなくクルサールよりも段違いに優れているだろうが――


(いくら彼女でも、死にゆく者を蘇らせることは出来ない。どこかで線引きが必要だ)


 視界いっぱいに広がる眩い光に目を眇め、クルサールは冷静に頭の隅で考える。

 少女の度重なる悲痛な呼びかけに、あの奴隷根性が染み付いた青年がピクリとも反応を示さないのだ。――それはつまり、そういうことだろう。


(確かに、今この状況でロロ殿を失うことは、これ以上ない痛手だ。彼一人を救えるなら、数人の命を犠牲にしたとしても釣りがくるのは事実だが――)


 チラリ、と周囲を視線で見渡す。

 皆、闇魔法による混乱と化け物のような最強の戦士が地に伏した衝撃に加え、クルサールすら凌駕するのではと思えるほどのミレニアの強烈な光魔法に、あっけに取られるばかりだ。

 しかし、あまり長くこの状態が続けば、我に返る者も出て来るだろう。


(ミレニア様は、この軍の要。軍師としても、薬師としても、非凡な才を発揮するこの方が、ただ一人の助かる見込みのない戦士に魔力を使い果たして倒れてしまっては、本末転倒だろう。まだ、他にも助けられる戦士がいるかもしれないのに――)


 クルサールはそっと己の胸元に掛けた聖印に手を触れる。

 選択肢は二つ。

 一つは、ロロを治療するミレニアをそのままに、クルサールが代わりに治療を待っている戦士たちの間を渡り、ミレニアに比べれば拙い魔法で、出来る限りの回復を施していくこと。

 もう一つは――ミレニアを説得し、まだ息のある戦士たちを二人がかりで救えるだけ救い、ロロ無しでの進軍計画をすぐに立案して軍を立て直すことだ。


(どう考えても、後者の選択肢を取るべきだ。このまま魔物を放置すれば、王都の安寧は永遠に脅かされ続ける。第一、ここまで進軍できたことがそもそも奇跡に近く、それはひとえに、ロロ殿とミレニア様の力あってのこと――もしここで引き返しては、ロロ殿の戦力なしでこの深度まで進軍出来る保証はない。……私たちに、撤退の二文字はあり得ない)


 クルサールに出来るのは、兵士を鼓舞することだけだ。魔物を前に恐怖する兵士に喝を入れ、死を恐れず己の命を犠牲にしてでも『神』の名のもとに魔物に立ち向かわせることだけだ。

 だが、個々の戦闘能力に不安がある以上、気力と根性だけでは限界がある。ここから先、ミレニアの確かな戦略立案が必要となるのは火を見るよりも明らかだ。

 故に、彼女に今、魔力を使い果たさせるわけにはいかない。人は、魔力が枯渇すれば、長期間昏睡するのが常識だからだ。


(とはいえ、ここで正論を説いて、ミレニア様を納得させられるイメージもない……光魔法は、”神”の力。現実には叶わない”奇跡”を叶える力だ)


 かつて、クルサールも、それが神の奇跡などではないと知りながら、必死に祈ったことがあった。

 目の前で、ネロが魔物に食われた、あの日――あの時もまた、常識で考えれば、決して助かる見込みなどない状態だった。

 ネロが息を引き取る本当に最後の一瞬に間に合い、ギリギリで回復させられたにすぎない。

 

 だから、クルサールはミレニアの心情も理解はしている。

 人は、第三者から見れば愚かとしか言いようのない行為でも、なりふり構っていられない時があるのだ。

 それは、人が”神”になりえぬからこそ起きることであり――その感情を押さえつけ、理性的に振舞えと言われても納得できるものではない。


 あの寒い雪の日、断末魔の悲鳴を上げて泣き叫んだ幼いネロを救うために、剣を片手に馬車を飛び出したクルサールがそうだったように。


「クルサール様……」


「わかっています」


 一人の兵士が、伺うようにクルサールに声をかける。これから先の動きについて、指示を仰ぎたいのだろう。

 決断の時が、迫っていた。

 こくり、と兵士に一つ頷いて、クルサールはそっとミレニアの隣に膝を付く。

 魔力を大量に消費したせいだろう。いつもはふっくらとして血色の良い少女の顔は、蒼白く疲労の色が誰の目にも明らかだったが――その頬に清らかな水晶を思わせる涙を幾筋もこぼしながらも、ミレニアの横顔は毅然としたものだった。


 強く、厳しく、美しい、横顔だった。

 

「……ミレニア様。残念ですが――」


 か弱い貴婦人のように、蹲って泣きじゃくるわけでもなく、げっそりとした顔の中でも強い光を失わない翡翠の瞳に敬意を払いながら、クルサールは意を決して語りかける。

 それでも――現実は、受け入れられなければならない。

 魔力が減って来たのか、少し弱くなってきた光源を灯すミレニアの掌に、そっと大きな手を伸ばす。

 びくり、とミレニアの肩が震えた。

 クルサールは、断腸の想いで、そっと少女に残酷な現実を突きつけようと、ゆっくり唇を開き――


「っ――ガハッ……!」


「「――――!?」」


 それまで、大量の血液を失い色濃く死相を浮かばせたままピクリとも動かなかったロロが、急に身体を跳ねさせるようにして咳き込み、その口から鮮血をあふれさせた。


「ルロシーク……!!」


 驚きに大きく眼を見開いたミレニアは、歓喜の声を上げると、再び全力で魔力を注ぎ込んだ。


「そんな――まさか……」


 クルサールは思わず呆然と呟く。

 ”人”に、死者を蘇らせることは出来ない。

 それは、”神”にしか出来ない所業だからだ。


(まさか――ネロのように、命の灯を絶やすギリギリで、治癒の魔法が間に合っていた――?)


「ぐっ……ゴホッ……」


「ロロ!ルロシーク!頑張って……!戻ってきて……!」


 蒼い顔のまま、咳き込んで血液を吐き出す青年は――確かに、生きようと足掻いていた。

 ミレニアは、枯渇寸前の魔力を注ぎ込みながら、必死に呼びかけ続ける。


(理由などどうでもいい――!彼が命を紡げるなら、私がなすべきことはたった一つだ――!)


 クルサールは頭を振った後、ミレニアの隣から同じくロロの身体に手をかざし、魔力を解放する。

 カッ……!と光が走り、その額に見慣れた紋様が浮かび上がった。


「クルサール殿……!」


「彼を蘇らせよと、”神”がおっしゃっています。彼一人がいるだけで、この作戦の成功率が跳ね上がる。……私も、お手伝いしますよ。何が何でも、彼を呼び戻しましょう」


 例え、ロロを蘇らせるために二人の魔力と時間を使うことで、助かる見込みがあったかもしれない他の兵士たちの命が数名失われたとしても――それでも、ロロを救うべきだと、クルサールは冷静に判断した。

 ”神”の名のもとに、王都の民を救うため――王都の民たる兵士の数名の命を失っても、より大多数の民を救うために、必要なことだと、判断したのだ。

 ”王”として厳しい判断を下したクルサールに、ミレニアはこくり、と頷いてもう一度ロロの身体へと視線を戻す。


「ロロ……!返事をして……!瞳を開けて――!」


 魔力を一際注ぎ込むと同時に、くらっ……と視界が揺れる。

 急激な魔力消費の反動が、ここへきて深刻になってきた。

 魔力を回復させる聖水を飲めば、いくらかマシになるかもしれないが、そのためには、治癒を一時中断する必要がある。

 もしも、そのわずかな時間で再びこの美しい青年が死神に魅入られてしまったら――と思うと、とてもそんな冒険は出来なかった。


「”お願い”よ……!私は、お前にずっと、傍にいてほしいの――!」


 はらっ……と花弁が落ちるように、美しい涙の雫が零れ落ちる。

 意識が朦朧としてきて、身体を支えることすら辛くなってきたが、横たわる逞しい青年の身体に縋るようにして、必死に最後の一欠けらまで魔力を注ぎ込む。

 何度も咳き込み、血を吐くロロは――必死に、”死”へと抗っている。

 ミレニアの”我儘”を叶えようと、苦しみながら、藻掻き、足掻いている証拠だ。


「ぐ……ぅ……」


 苦悶の表情で眉根を寄せたロロの睫毛が、ゆっくりと震える。

 シルバーグレーのそれが揺れ、瞳が開かれようとするのと対照的に、ミレニアの漆黒の睫毛は重たく視界を閉ざそうと降り始める。


(駄目……!もう、少し、だけ――……!)


 誰が見ても死人としか思えぬ生気のなかったロロの頬は、大きく咳き込み苦しむうちに、少しずつ血色の良さを取り戻している。クルサールとミレニアの全力の治癒が、それをもたらしているのだろう。

 何度も閉ざされそうになる重い瞼を気合で無理やり押し上げながら、ミレニアは必死に愛しい青年の整った顔を見つめる。


「お願い……もう、お前を困らせる我儘なんて、言わないから……」


 震える声で、必死に訴える。

 いつだって、ロロは自虐的で己の命を軽んじる男だった。

 そんな彼にとって、ミレニアを守って命を投げ出すなどというのは、不幸でも何でもない――満足の行く、最高に幸せな”最期”だったはずだ。

 そんな男に、甘美な『栄誉ある死』の誘惑を、振り払わせねばならない。

 ロロが、その身にしつこく纏わりついてくる死神の手を振り払い、自分から『戻って来たい』と言ってくれるためなら、ミレニアは、どんなことでもしてやる覚悟だった。


「”結婚して”なんて……二度と、言わないから……だから――」


 ミレニアが揶揄うようにその我儘を口にするたび、いつもはピクリとも動かない仮面のような顔を顰めて、何度も素気なく拒否されてきた。

 優しい青年が、誰よりも敬愛するミレニアの甘い”お願い”を、何度も突っぱねるのは、辛かっただろう。ミレニアに告白されるたび、困ったように顔を顰めて、呻くように否定されてきた。

 それでも、やめることが出来なかった。

 相手を困らせているとわかっていても――愛する人に、「愛している」と伝えられる喜びに浮かれて――その紅玉の奥に、幻のように微かな灼熱が宿るのが嬉しくて――どれほど困らせたとしても、やめてやるつもりはなかった。

 ミレニアに愛を紡がれて、酷く困惑しながらも、紅玉の瞳の奥に隠し切れない喜びが微かに宿るのを見るのが、堪らなく大好きだったから。

 だけど――


「お前が嫌がることは、もう、何もしないと約束するから――」


 手を触れることも、視界に入ることも――彼が、忌避するというのなら、受け入れよう。

 それが彼の幸せであり安寧であると、本当にそう言うのなら、それくらいはいくらでも叶えてやる。

 ただ、生きて、傍にいてさえくれればいい。

 二度とロロに愛していると言えなくなっても――愛していると言ってもらえなくても。

 これから先の生涯もずっと、生きて、一番傍にいてくれるなら、それだけでいいのだ。


「だからお願い……もう一度――」


 そっと、もはや蛍ほどになった淡い光量を纏う手を伸ばし、消えない奴隷紋に優しく触れた。

 血が通って温かな頬に触れると同時に、ふるり、とシルバーグレーの長い睫毛が震える。


「お前の美しい瞳を――私に、見せて――」


 ミレニアの言葉を合図にしたかのように、ふっ……と、固く閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開かれた。


「ひ、め――……」


 掠れた声が、確かに音を紡ぐ。

 苦しそうな呼吸と表情のまま、紅い宝石のような美しい瞳が、確かにミレニアを捉えた。


「っ……」


 歓喜に名前を呼ぼうとしたが、もうその力は残っていなかった。

 最後の魔力を全て注ぎ込み安堵が押し寄せた瞬間、ふつり、と操り人形が糸を断たれたようにして、身体中の全ての力が失われる。


(大好き――)


 もう声にならない愛を心の中で囁いて、ミレニアはそっと瞼を閉ざした。

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