第100話 死出の旅路⑤

 ふと、気づいて瞳を開けると、酷く身体が軽かった。


「ここは……?」


 ぐるり、と周囲を見渡してみる。

 光源らしい光源はどこにもないのに、うすぼんやりとした明るさのそこは、見渡す限り灰色の世界。

 辺り一面、薄墨をまき散らしたような閉塞感のあるその場所に、気づけばたった独りで立っていた。


 なんだか酷く頭がぼんやりとする。

 ――自分は何者で、どこから来たのか。

 そんなことすら、わからない。



「……」


 まるで自分の輪郭を確かめるように、そっと両手を見下ろした。

 褐色の肌。至る所に剣胼胝のついた、筋張った武骨な掌。ぐっと拳を握ると、筋肉に筋が浮かんで、あぁ、そういえば自分は確かにこんな身体だったと思い出した。


「……軽い」


 身体が、軽い。

 見下ろして気づいた。この身体には、何もない。

 身体に纏わりつくような衣服も――酷く冷たい鉄枷も。

 

「どこへでも――行ける」


 自由だ。

 ――自由、だ。


 心までがその解放感に浮き立ち、生まれたままの身体で思わず足を一歩踏み出す。

 自分が何者なのか、どこから来たのか――それはわからなくても、どこへ行くべきかは、なぜかわかっていた。

 巨大な砥石のような色の冷たい地面に、躊躇うことなく足を踏み出す。

 何かに呼ばれるように、自分が向かうべき方角はわかっていた。

 意志を持って足を踏み出すと、遠くにぽっかりと穴のような漆黒の扉が現れる。


 早く――早く、行かなければ。あの漆黒の向こう側に。

 何かに捕らわれる前に。

 何年も何年も、ただひたすらに切望した、自由な手足があるうちに。


 早く――早く、あの、真っ黒で何もない――何物も存在しえない、真の自由な世界へ――


 ヒュッ――!


「――!?」


 思わず駆け出そうとした瞬間、急に天から光が降ってきた。

 薄暗い視界に慣れた眼が焼かれ、思わず腕で顔を庇うと、真っ白な光がしゅるりと腕に巻き付いた。

 驚いている間に、ぐんっ……と強い力で腕を引っ張られ、身体が宙に浮く。


「何――!?」


 上背もあり、身体の筋肉量も常人に比べれば尋常ではないはずの自分を、軽々と持ち上げられるとは信じられず、驚愕して天を仰ぎ見る。

 いつの間にか、薄墨の曇天を割るようにして、キラキラした白い閃光が一直線に自分の元へと伸びてきていた。

 その光は、どこか温かくて、本能的な安らぎを与える優しさを持っており、邪悪な気配は一切感じない。

 この薄明かりの世界から、眩い光の世界へ連れ出そうとする”それ”は、おそらく善意の塊なのだろうと察することが出来たが――


「離せっ……!」


 ざわりっ……と魂の底をザラザラしたもので擦られるような、強烈な不快感に襲われ、身を捩って抵抗する。

 仮に、それが”善意の塊”だとしても関係ない。

 両手を拘束され、強制的に天上へと連行される不愉快さは、とても耐えがたいものだった。


 に捕らわれるのは、我慢がならない。

 求めるのは、自由。――自由、なのだ。

 束縛を受け入れぬ限り光の世界に行けぬというなら、それでもいい。温かさも、優しさも、善意もいらない。

 自由を得られるのなら、冷たい虚しさしかない漆黒の虚無の世界の方が、何千倍もマシだった。


「くっ……!」


 必死に身体全体で抵抗しながら藻掻く。

 この純白の光は、何か、嫌なことを思い出させる。

 穢れのない白。チラリと脳裏をよぎるのは、酷く不愉快な純白が似合う、黄金と紺碧の――


 バシンッ


「な――……?」


 不意に、押しつけがましい”善意の塊”が、乾いた音と共に掻き消えた。

 ふつり、と蜘蛛の糸が切れたように光が空中で霧散すると、ひゅぅ――と宙に浮いていた身体が落下を始める。

 内臓が持ち上がるような独特の浮遊感に顔を顰めながら、受け身を取るため身体を捻った。


 ドンッ

 チャリッ――


 受け身を取って落下の衝撃を完全に殺すと同時、鼓膜に小さな金属音が響いた。


「――……?」


 思わず眉を顰めて、ゆっくりと身体を起こしながら、音がした場所へと怪訝な顔で手を伸ばす。

 そっと首元に伸ばした指に、冷たい感触が伝わると同時、チャリ……と、もう一度小さな音がした。


 何一つ身に纏っていないはずの身体で、唯一身に着けていたもの。

 身に着けていることすら忘れるほど、そこにあるのが当たり前になっていたもの。


「首、飾り……?」


 何にも縛られたくないと言っていた自分が、首枷にも似たそんなものを自然に纏っていたことが信じられず、そっと首から冷たい装飾を引き抜く。

 何かの折に不意に千切れたりしないよう、装飾品にしてはやけに丈夫な鎖が通された、大振りの宝石の首飾り。

 とろりとした蜜のような、吸い込まれそうな、翡翠の色――


「――――」


 どんな時も必ず、当然のようにしてそこにあった微かな重みが無くなって、急に言葉に出来ぬ不安に襲われる。

 己の身に纏わりつく物は、鉄枷どころか、布も糸も、何一つ煩わしいとすら思っていたはずなのに――この首枷を思わせるちっぽけな飾りだけは、外した途端に妙な焦燥感に駆られた。


 何か――何か、忘れてはいないか。


「……翠……翡翠……の……」


 首飾りを眺めていると、胸の奥底に、ぽっと小さく灼熱が宿るような錯覚があった。

 一度自覚すると、魂の奥底でずっと燻ったまま、決して消えることのない灼熱に困惑し、顔を上げて前方を見る。

 遠くには、先ほどから、何度も己を呼ぶ様にぽっかり口を開けている、漆黒の扉。


 きっと、あそこに飛び込めば、真の自由が手に入る。

 全ての苦しみから解放されて、何もかもを忘れて、自分の意識一つすら塵となって――


「……」


 ぎゅっと掌の中の宝石を強く握り締める。

 あの、漆黒の世界では――この首飾りも、無くなるのだろうか。

 今この瞬間、胸の底の、そのまた奥に、決して消えることなく、ぶすぶすと音を立てて燻り続ける灼熱も――何もかも、全て、無かったことに、なるのだろうか。


「…………」


 ごくり、と喉が音を立てた。

 ひゅぅ――とどこからか音がして、後ろから身体を前方へと押しやるように風が吹き始める。

 まるで、早く行けと追い立てられているかのような感覚。

 心なしか、薄墨の世界の色が濃くなって、居心地の悪い寒々しい気配が漂い始めた。

 先ほどは、誰に言われるでもなく、自由な四肢を誇って自ら飛び込もうとしていたはずの虚無の世界のはずなのに。

 本能に訴えかけるかのように、前方へと促しながら何度も吹き付ける風に、ぐっと足を踏ん張って耐える。


 ――駄目だ。

 駄目だ。


「俺は――まだ、行けない」


 自分が誰か。

 どこから来たのか。


 その答えは持っていないのに――魂の奥底に刻みつけられた無意識の記憶が叫ぶ。


 約束した。

 ――誰かと、決して違えぬ、約束をした。


 あの、何もない寂しい虚無の世界が怖いと泣いた、誰かがいた。

 だから、約束した。――決して、その世界をたった独りで歩かせぬと、約束したのだ。


「――守ら、なければ」


 ひゅぅぅ――と何度も吹き荒れる背後からの風に逆らうように、漆黒の扉へと背を向けて、拒絶の意思を表す。決して無くさぬように、しっかりと首飾りを再び己の首にかけ直した。

 安心感のある重みを纏えば、チリッと胸の奥の灼熱が疼く。

 これは、枷だ。

 ――ここへ己を留めるための、枷だ。

 虚無の世界で真なる自由を手にすることを阻害する――この世で唯一、自分を留めることのできる、世界で一番、枷。

 

 自分は、守らなければならない。

 決して違えぬと誓った約束を。


 この首飾りと同じ――美しい翡翠の、愛しいを。


 ごぉっ――!


「っ――!」


 意思を固めた瞬間、それを非難するかのように強風が吹き荒れる。

 思わず目を眇めると、バタバタッ……と布がうるさくはためく音がした。


「これは――」


 気づけば、いつの間にか衣服を纏っていた。

 吹き付ける強風の寒さにも耐えうる、身体をすっぽりと覆う漆黒のマント。


 酷く慣れ親しんだそれは――愛しい女神を守る者だけが身に着けることを許される、特別な装束。


「っ……」


 ズキン、と頭が痛む。

 何かを、思い出しそうな気配があった。


(もう一つ――何か、あと一つの欠片があれば――)


 轟々と吹き荒れる風の中、ズキン、ズキンと痛むこめかみを抑えて、頭の中を探る。

 何か、自分を構成する大きな欠片が、足りていない感覚。

 それさえあれば、全てを思い出せそうなのに。


 自分は誰なのか。どこから来たのか。

 自分は一体誰を待っているのか。

 胸の奥に、決して消えない灼熱を灯した翡翠は、誰を暗示しているのか――


 強風に煽られ、ズズ……と身体が微かに押しやられる。

 どうやらこの風は、何が何でも漆黒の世界へと自分を連れて行きたいらしい。


「ぐ――!」


 身体を低くして、少しでも空気抵抗を減らしながら、必死に抵抗していると――


 ぱたっ……


「――……?」


 頬に、何か一粒――生暖かい液体が、落ちてきた。


(雨――?)


 強風に加えて、豪雨でも降らせるつもりだろうかと、思わず天を仰ぎ見る。

 確かに薄墨色の空は、今にも雨をこぼしそうな色をしていたが――頬に落ちてきたその水滴の温もりには、身に覚えがあった。

 これは――雨粒の温度などではない。


 ズキン ズキン


 心臓が脈打つのに合わせて、こめかみが神経質な痛みを発する。

 頬を濡らした水滴は、するりと永遠に消えない焼き印を伝って、砥石色の地面へと消えて行った。


(何だ――?俺は、このを――知って、いる――)


 そっと液体が伝った跡を辿るように指で触れる。

 ――そうだ。

 かつて、こうして、指で触れたことがあった。


 ズキン ズキン


 に触れられる機会は、滅多にない。

 だから、手触りも、温度も、何もかも全て強烈に、魂に刻み込まれている。


 ずっと、ずっと、この水滴に触れたかった。見せてほしかった。

 いつだってあの人は、強がって、笑顔の裏に隠してしまうから――

 「苦しい」も「助けて」も――夢の中でしか、言ってくれないから。


 ぱたっ……ぱたたっ……


 頬を再び、温かな水滴が襲う。


「――涙――?」


 その正体に思い至った途端、ズキンッ――とひときわ大きな頭痛が襲った。

 その瞬間――脳裏に響く、懐かしい声。


――!』


「――――!」


 ハッと目を見開く。

 最後の一欠けらが、埋まった気がした。


「ルロシーク……」


 それは、自分を表す名前。

 同時に蘇るのは、この身に余る宝物みたいな名前を付けてくれた、世界で一番愛しい少女。


「姫――!」


 全ての記憶が蘇ると、風の向こうから、声が聞こえた。


『嘘つきっ……!嘘つき、嘘つきっ!ずっと傍にいてくれると言ったのにっ……!』


「っ、違――」


 世界で一番愛しい声が、涙に濡れているのに気付き、みっともなく動揺する。

 ごうっ……と風に少し押し戻されそうになるのを踏ん張り、堪えた。


『この私がっ……!泣いて、縋って、逝かないでと言っているの!!!ずっと、ずっと傍にいてと言っているのよ!!』


「っ――」


 カッと腹の底で燻っていた灼熱が燃え上がり、紅蓮の舌を伸ばすように、全身が熱に侵された。

 ミレニアが、泣いている。

 ――泣いて、いる。


 すぐに――今すぐに、傍に、行かなくては。


「姫――!」


 嘘などではない。いつだって、どんなときだって、ロロの優先順位は常にミレニアが一番だ。

 愛しくて、愛しくて――少女を脅かすすべての存在モノから、守り抜きたいと思っていた。

 それを疑われることだけは、我慢がならない。


 泣きながら「傍にいて」と縋られて――少女を置いて傍を離れるなど、出来るはずが、ないのだ。


『お願い……もう二度と……”我儘”なんて言わないと、約束するから――!』


「チッ……クッ、ソがぁああああああああああああああ!」


 何度も身体を押し返そうとする風に逆らい、無理矢理に暴風の中を突き進む。

 

 違う。

 ――違う。


 ミレニアには、何度だって、どんな些細なことだって、飽きるくらいに”我儘”を言ってほしいのだ。


 ”最初”の記憶――星の瞬く静かな夜に、涙の滲む声で同じことを言われ、叶えてやることが出来なかった苦い感情が蘇る。


 ぱたぱたっ……とどこからか降ってくる熱い少女の涙を頬に受けながら、力任せにジリジリと身体を直進させた。

 台風の中にいるのかと思うほどの圧力に、身体が悲鳴を上げそうになるが、無視する。

 風に誘われたその先に、この世の全てのしがらみから解き放たれる"真の自由"があったとしても――

 ロロにとっては、""の方が、何十倍も尊いものだから。


 ミレニアが、泣いている。

 彼女にしか呼ぶことを許さない特別な名前で、何度も自分を呼びながら、泣いて「傍にいて」と縋っている。


 ミレニアが、”最初”の記憶から何十年――今よりずっと自分の気持ちを口に出すことが出来なかった時間軸でも、その生涯で唯一、口に出すことを堪えられなかった、尊い”我儘”。


 その”我儘”のおかげで、生きる世界が異なる二人が出逢い、決して交わらないはずの運命が絡んで、全てが始まって――が、ある。


「姫――!」


 あの静かな夜に、確かに違えぬ約束をしたから。


 もう二度と、傍を離れることはないと。

 いついかなるときも、必ず、少女の傍にあり続けると。


 あのとき叶えることが出来なかった”我儘”を――叶えてやれるのは、今なのかもしれない。


「ミレニア――!」


 燃え盛る炎のような瞳に、決して消えることのない灼熱を宿して――

 紅蓮の騎士ルロシークと名付けられた青年は、死出の旅路へと誘う運命に、全力で抗い始めた――

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