第99話 死出の旅路④

「――ルロシーク!?ルロシーク!返事をなさい!!目を開けて!ルロシーク!!」


 ミレニアの悲痛な呼び止める声にも関わらず、ロロはその紅い瞳をしっかりと瞼の裏へと隠してしまった。

 ロロが、ミレニアの渾身の呼びかけに答えなかったことなど、今までの人生で一度もない。

 生涯ミレニアにしか呼ばせないと言っていたこの名前を呼んで頼んだことは、どんなとき、どんな難題であっても、必ず叶えてくれたのだ。

 それくらい、彼にとってこの名前は大切で、特別だったと知っている。

 それなのに――

 『返事をする』『瞳を開ける』

 そんな簡単な命令を拒否することなど、あり得ない――!


「嫌――嫌よ、ルロシーク……!お前らしくないわ!なんで、どうして、素面の癖に、そんなこと――!」


「ミレニア様!」


 真っ青な顔で声を震わせ、不甲斐ない従者を怒鳴りつけようとしたところで、後ろから声がかかり、ハッとする。


「クルサール殿!」


「ロロ殿が、重症だと聞きました!」


 姿を現した金髪碧眼の青年に、安堵の気持ちが溢れだす。

 彼を『救世主』と崇めたい民の気持ちが、今なら誰よりもわかるような気がした。


「はやく!!!早く来て!!!一緒に治癒の魔法を――!」


 駆け寄ってくる青年に縋るような目を向けて懇願する。

 今にも恐怖に集中が途切れてしまいそうなミレニアを支えてくれる、自分と同じくらいの強力な光魔法使いを、今は何よりも必要としていた。

 彼に一時治癒を任せて、己は的確に傷の具合を判断し、二人で魔法をかければ、この世に治癒できぬ怪我などないだろう。

 全力で走って来たらしいクルサールは、荒い息で急いで横たわるロロの傍らに膝を突き――頬を強張らせて、固まる。


「クルサール殿……!?何をしているのですか、早く――!」


「……ミレニア様」


 クルサールは、痛ましげに美しい形の眉を寄せて、ふるふるとゆっくり首を振る。

 その表情は――先ほど、ミレニアが、隻眼の男に無情な言葉を浴びせかけたときの表情と、同じだった。


「残念ですが――死者を蘇らせることは、出来ません」


 キン――


 耳鳴りが、一瞬世界の音を全て消し去る。

 茫然とするミレニアの視線から逃げるように、クルサールは俯いた。


「死者を前に我々生者が出来るのは――死後の安寧を、祈ることのみです」


 胸元の聖印を取り出し、掌に握りこむ。

 ミレニアは、右から左へと流れていく男の声を、指先一つ動かすことも出来ずにただ眺めるしかできなかった。


「エルム様は、例え異教徒であったとしても、死者には寛容です。彼が望むかはわかりませんが――私に出来るのは、これだけです」


 そっと固く眼を閉じたロロの顔へと逆の手を差し出し、唇を薄く開く。


(――――ぇ――)


 きっと、エルム教の教義に則った弔いをしようというのだろう。

 その瞬間――ざぁっとロロと過ごした今までの記憶が蘇った。


 太く冷たい鉄格子の檻の中、枷で自由を奪われながらこちらを見上げた美しい紅玉の瞳。重たい枷を外して尊大な態度で自由を与えれば、最強の名を恣にしていたはずの男が、首を垂れて絶対の忠誠を誓ってくれた。

 あの日から何年の月日が経ったことだろう。

 七年?――いや。そんなに短い時間ではない。

 何度も、何度も繰り返された、存在しない魂に刻まれた何十年の記憶。

 認知することは出来なくても、わかることがある。

 きっと、ミレニアは何度だって青年の美しい瞳に魅せられて、心を奪われ、愛しさを募らせ――

 ――愛し、愛されて。


 ずっと、ずっと、何度引き裂かれようと、離れがたく結び直されてきた固いえにしの運命は――



 ――こんなところで、終わるのか。



「ぁ――ぁぁああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 カッ――!


「ミレニア様!!!?」


 少女の絶叫が周囲に響き渡ると同時、真昼にも関わらず目を開けていられないほどの眩い光線が放たれた。

 クルサールが網膜を焼く鋭い光から視力を守ろうと目を閉じかけた瞬間、バシンッと乾いた音がして、ロロに翳していた手を叩かれた。


「な――」


「ふざけないで!!!ロロをっ――私の騎士ルロシークを、勝手に弔うことなど、許さない!!!」


 鋭い恫喝が飛び、怯んで手を引き戻しながら少女の方を見る。

 ミレニアは、華奢で小柄な身体で精一杯にクルサールを睨みつけていた。


「ミレ、ニア……様……?」


 その翡翠の瞳に、透明な雫が浮かんでいることに、クルサールは動揺する。

 どうしてだろう。

 ――少女が、誰かの前で涙を流すことなど、決してあり得ないことだと、思っていた。


「私は神になど決して縋らない!!死後の安寧など、決して祈らない!!!神様だろうが、死神だろうが――私の騎士を、勝手に連れて行くことなど、決して許しはしないから!!!」


 これほど腹の底から叫んだことが、生涯あっただろうか。

 ミレニアは人生で最も強く、鋭く、吼えるように声を張り上げる。

 びりびりと空気を振動させる叫び声に、思わず周囲も動きを止めてミレニアを見た。

 コォッ……!とミレニアの身体を纏うように光が宿ったかと思うと、そのまま少女は無言で横たわる青年に両手を押し付ける。


「私は決して認めないわ!!!必ず――必ずロロを、呼び戻してみせる――!」


 感情の高ぶりと共に、眦に蓄えた涙が一筋だけ零れ落ちる。

 それを拭うこともせず、ミレニアは一心不乱にロロへと魔力を練り上げた。


「ルロシーク……!ルロシーク、お前が言ったのよ!!!約束を守りなさい!!!」


 もう、指先は震えない。

 横たわったまま動かない身体に押し付けた掌から、眩い閃光が迸った。


『俺が――姫の命令もなく、自分から、姫の傍を離れることなど、あり得ません』


 そう言ったのは、ロロ自身だ。


『はい。俺は、貴女の物です。……貴女が許してくださる限り、ずっと、ずっと、貴女のお傍におります』


 権力を振りかざし、「私の物」だと尊大な物言いで”我儘”を言ったミレニアに、嬉しそうな顔で、そんなことを言ったくせに。


「お前は私の物なのよっ!勝手にっ……私の許可もなく、勝手に傍を離れることなど、許さないと言ったでしょう!ルロシーク!」


 生涯、誰にも渡さないと、約束した。

 誰にどれだけ請われようと、決して渡したりはしない、唯一無二の、宝物。

 ミレニアだけが身に着けることを許された、世界で一番美しい、至上の宝石。

 富も名誉も野心も立派な矜持も、何もかも――ミレニアが持っているすべての物を擲ったとしても、決してロロだけは手放せない。

 人生で初めて、『綺麗事』の無意味さを教えてくれた、彼だから。


「嘘つきっ――嘘つき、嘘つき、嘘つき!!私が独りで泣いて、苦しんでいる姿は見ていられないと言っていたくせに!」


 はらり、と零れ落ちた涙がひと粒、ぱたっ……と音を立てて、奴隷紋が刻まれた動かない褐色の頬に零れ落ちる。


『違う――違う、嘘じゃない……!アンタが俺を呼んでくれるなら、どこにいたって駆けつける……!』


 そう言って抱きしめてくれた夜があった。

 あの時放たれた言葉を、”嘘”になどさせるつもりはない。


「ルロシーク……!ルロシーク、傍にいて!独りにしないで、どこにもいかないで!っ……私が泣いて縋ったら、お前は逝かないでくれると言ったでしょう!?」


 ぱたたっ……と透明な雫が雨のように青年の肌に降り注ぐ。

 周囲のことなど、頭になかった。

 現状を整理する冷静な頭脳など、どこにも持ち合わせていなかった。

 ”将”としてのあるべき姿など、関係なかった。”薬師”として他の兵士の治癒のために魔力を温存することなど、これっぽっちも考えなかった。


「私の”我儘”はどんなに小さいものでも叶えてくれると言ったでしょう!?あれも嘘だったの!?」


 今、彼に聞いてほしい”我儘”は一つだけだ。

 そのたった一つが叶うなら――ほかの全てを擲っても、構わない。

 彼を手に入れるのには、それくらいの代償が必要なことは、わかっている。

 ――初めて出逢ったときから、わかっている。


「お願いよ……!お願い、ルロシーク……!返事をして……!瞳を開けて……!」


 己の視界さえ焼き尽くす眩い光の中、脳裏に描くのは、ただ一つのイメージ。

 硬く閉ざされた褐色の瞼が開いて、再びあの美しい紅玉が現れる光景だけ。

 世界で一番美しい紅玉に灼熱が宿り、言葉にならない”愛しい”を確かに何度も伝えてくれた、過ぎ去りし日々の幸せな光景だけだ。


「お願い……!それ以外にはもう、何一つ望まないと誓うから――!」


 あれほど苦言を呈していたくせに、今になって、初めてロロの気持ちがわかる。

 彼も、ミレニアの死を目の当たりにするたび、こんな気持ちを味わっていたのだろうか。


 もう二度と、あの美しい紅玉が見られないなど、信じたくない。

 優しい声が、「姫」と呼びかけるのを聞くことが出来ないなど、受け入れられない。


 もしもそれが叶うなら――何でもすると、誓えるだろう。

 魔物に魂を売ってもいい。世界を不幸に陥れてもいい。自分の幸せなど、命など、心の底からどうでもいい。


 視界に入らなくてもいい。触れられなくてもいい。

 ――愛してほしいなんて、贅沢は言わない。

 これから先の生涯ずっと、この命を賭けるに相応しい、真実の愛が実らなくても――

 彼を永遠に失うことに比べれば、どれほど些末なことだろうか。


「ルロシーク――!」


 祈るべき神のいないミレニアは、ただ、ロロが与えてくれた幸せな過去の想い出に縋って、彼の言葉を信じ、光の中で愛しい青年の名前を呼び続けるしか出来なかった。

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