第98話 死出の旅路③

 仄暗い海の底から響いてくるような、脳裏に直接語り掛けてくる暗澹たる声音には、聞き覚えがあった。


「お前だ。――そこで、命の灯を消そうとしているお前に、語りかけている」


 声に呼応して、ゆっくりと紅い瞳を開く。

 先ほどまで、指の先一つ、瞼一つ動かすことが出来ないと思っていたのに、不思議と難なく瞼を押し上げることが出来た。


「我は、時を操る。今にも命を落とそうとしていたお前の時を、わずかばかり戻してやった。感謝することだな」


「――――……」


 どうやら、脳裏に響く声は幻聴ではないらしい。

 瞼を押し上げた先――世界は、凍り付いたように時間を止めていた。

 ぐるり、と眼だけで周囲を探る。

 目の前には、地面に横たわる身体を見下ろしながら、蒼い顔で必死にロロのマントの留め金を外そうと、震える指を叱咤しているミレニア。ロロを襲ったらしい兵士三人は、闇の魔法に屈したことを悔いているのか、聖印を握り締めて涙を流しながら何やら祈りを捧げている。反対方向へと視線をやれば、先ほど闇魔法を放った隻眼の首がごろりと地面に転がっていて、悪の元凶が屠られたことはすぐに分かった。


「……なるほど。契約していた人間が死んだから、乗り換えたいわけか」


「ほう……?随分と冷静だな。大抵、事態が飲み込めず混乱を極めるものだが」


 空気が震える気配がする。どうやら、魔物が笑ったようだった。


「お前は極上の身体を持っている。ここで命を絶やさせるのは惜しい。その溢れ出る魔力を、倍増させてやる。世界を意のままに操る力をくれてやる。お前ならば、この煩わしい軍勢すら、大した苦労もなく壊滅させられるだろう。そうして、大陸全土に恐怖と絶望を振り撒くのだ――!」


「ハッ……くだらん……」


 何やら悦に入ったように叫ぶ声に向かって、吐き捨てるようにつぶやく。

 もう、そんな言葉は、聞き飽きた。

 やり直した分だけ何十回も、聞いてきた。

 ――そのたび、希望を叶えてやった。


「ほう……?しかし、お前は今、我の力で束の間の力を得ているだけだ。我が時を元に戻せば、すぐに死ぬだろう」


「だから、何だ。……興味はない」


「ふむ……?お前、まさか、死が怖くはないのか?」


「……さてな。……昔は、何よりも、怖かった」


 ゆっくりと瞳を閉じて、想いを馳せる。

 四肢に重たい鉄の枷を付けて生きていたあの頃――”死”は何よりも忌むべきものだった。

 ただその日一日、息をして心臓を動かすそのためだけに、誰の命を犠牲にしてでも構わなかった。誰かに情けをかける余裕などなく、己のことだけを考えて生きねば、次の瞬間に死んでいてもおかしくはない――そんな世界。

 圧倒的な”理不尽”を強いられながら、虫けらの分際で、必死に足掻いて、足掻いて、足掻きつくしていた、あの頃。


「今は、怖くはない、と?」


「怖くないわけじゃない。だが――昔ほどは、恐れなくなった」


 この命の使い方を、教えてくれた人がいた。

 ただ、無為に息をして、心臓を動かすだけの命だと思っていたのに――それだけでは駄目だと、惜しいと言って、汚泥の底を這いずっていた身体を掬い上げてくれた、人がいた。


「そんなはずはない。死を目前にした人間が、そのような心情でいられるはずがない。……何か、望みがあるだろう。何をおいても成し遂げたい、切望している何かが」


 魔物の仄暗い声が、苛立ったような響きへと変わる。

 フッ……と思わず、吐息で嘲笑した。


「何がおかしい」


「いや……そんなことを考えていたのも、随分と昔のことだ」


 濃厚な死の気配を前にして、ロロの心は、どこまでも凪いでいた。

 その昔――四肢に鉄枷が嵌っていたころは、『自由』が何より欲しかった。渇望して、渇望して――決して得られぬそれに絶望して。

 世界の肥溜めの底から、世の中全てを恨んだ。忌まわしい血の色をした瞳に、怨嗟の炎を纏わせて、この枷から解き放たれたら、すぐに自分に”理不尽”を強いた人間たちを地獄へ叩き落し、心の赴くまま好きなように生きてやると息巻いていた。

 だが、実際に、鉄枷を外されたその瞬間――

 ――あれほど望んでいた『自由』は、塵屑以下の価値に成り下がった。


『この美しい瞳を、ずっと、私に向けていなさい。ずっと――ずっとよ』

『あぁ――美しい。お前の瞳は、何度見ても美しいわね』


 忌まわしい瞳を覗き込み、うっとりと頬を上気させて、嬉しそうに破願する少女がいた。


『ロロ。――ルロシーク。私の騎士』

『今日から、お前は私の物よ。勝手に傍を離れることは許さないわ』


 自由にどこへでも行ける手足を得て――どこにも行けない、身体になった。

 小鳥が囀るような美しい声で、名前を呼ばれた。

 宝石のような魅力的な瞳で、微笑みかけてくれた。

 生きる世界が違う奴隷に、女神が手を伸ばしてくれた。『私の物』といって、名前を呼んでくれた。

 それだけで――もう、どこにも、行けなくなった。


 自由などいらない。必要ない。

 生涯、ずっと、女神ミレニアの傍で――を強いられることこそが、ロロにとっての、何よりの幸せ。


「何か、あるはずだ。死した存在を蘇らせることすら、我の力を使えば可能なのだぞ……!」


「興味はない。――闇に堕ちてまで救いたかった人は、自分の手で守り通した。悔いはない」


 瞼を開けた視界に映るのは、キリリと翡翠の瞳を吊り上げて、必死の形相で唇を引き結んでいるミレニア。


『でも、嘘つきなお前は、そうして私が泣いて『行かないで』『傍に居て』と縋ったところで、他の男がいるだろう、なんて言って私を振り切って逝ってしまうのかしら?』


(あぁ――ほら、やっぱり)


 アンタは、涙なんて、これっぽっちも流さないじゃないか――と心で呟いて、ロロは再び瞼を閉ざす。

 どこまでも、高潔で、高貴で――最期まで、毅然と己の責務を果たせる女なのだ。

 一軍を束ねる将として、この軍を任された薬師の知識を持つ光魔法遣いとして、冷静に己のすべきことを考え、理性を手繰り寄せて、責務を果たそうとする。

 ただ、絶望に打ちひしがれて、体温を失っていくミレニアの身体を抱えたまま慟哭することしかできなかったロロとは、根本から異なるのだ。


「闇の力は、人の心を操る。憎い相手を己の手を汚さずに殺すことも――愛しい相手の心を手にすることも出来る」


「――――……」


 ゆるり、とロロは瞳を開いた。

 反応があったことに気を良くしたのか、魔物は言葉を重ねた。


「身分の差も、恋敵も、何一つ関係ない。お前がただ、望むだけで、相手の心が手に入るのだ――!」


「はっ……なおさら、興味は……ない、な……」


 口の端で嗤うと、傷つけられた内臓が悲鳴を上げて、咳と共に血の塊がせり上がってきた。

 ペッと行儀悪く口の中の鉄臭い液体を地面へと吐き出し、そっと右手を動かす。

 きっと――他のどの箇所が動かせなくても、ここだけは動かせると、


『私は、お前のことが大好きなの。勿論、従者としてではなく――一人の男性として、愛しているのよ』


(愛しい人の心は――何の間違いか知らないが、束の間、手に入れることが、出来た) 


 墓の底まで持って行くと決めていた、腹の奥に仕舞い込んだ灼熱を纏った感情を、女神は当たり前のような顔をして探り当てて、ひょいっと掬い上げた。

 そんなもので少女を穢すわけにはいかないと、必死に撤回しようとするこちらを余裕の顔で笑いながら、何度だって夢みたいに「大好き」「愛している」などという言葉を紡いでくれた。


(この二年は、もういつ死んだって悔いはない――そう思うくらいの、この身に余る、幸せな日々だった)


 少女が、笑って、太陽の下で、息をして、温かい身体で、心臓を動かしている。

 それだけで、夢みたいな奇跡なのに――

 この戦いが終わったら、「私の全てを使って、お前を世界一幸せな男にしてあげる」と言われたが、そんなものはもう既に、叶っていた。


「生憎――お前の口車に乗って飲まされた煮え湯は、随分と堪えた。飲み干す気は、さらさらない。……飲み干す意味も、もはや、ない」

 

「何……?貴様、何を言って――」


 仄暗い声が困惑を示す。

 ロロはそっと、留め金を外され、地面へと滑り落ちようとしていた黒マントに右の指を触れる。

 右手を掲げて、決まった言葉を告げる――それが、この魔物との、契約の合図。

 だから必ず、この魔物は、右手を動かす力と言葉を発する力だけは残るように、時を巻き戻したはずだと予想していた。


「今もあの薄暗い穴倉の底で、身動き一つすることも出来ないままなんだろう?だからこうして、思念だけを飛ばして手足となる契約者を探している。違うか?」


「な――貴様、一体――!?」


「身動きの取れないお前にとって、思念体を飛ばすのは大量の魔力と体力を使うはずだ。その思念を祓ったら――どうなる、だろうな――!?」


「くっ――!?」


 声が動揺を示したその隙をついて、ロロは魔力を解き放つ。

 カッ――とマントから放たれた眩い光が凍り付いた世界を焼いて、思念体がその場から掻き消えていくのを感じた。

 光が収まっていく最中、ロロは自由な右手を伸ばす。


 きっと、光が収まり、魔物が完全にこの場から立ち去れば――止まっていた時が、動き出す。

 そうなれば、もう、ロロは今度こそ命の灯を消さざるを得ないだろう。どんなに楽観的に見積もっても、さほどの時間があるとは思えない。


 そうなる前に――右手と、唇が動かせるうちに、やっておきたいことが、一つだけ、あった。


「っ――――……」


 ゆっくりと光が消えていく永遠にも似た時間の中、ロロは自分を見下ろす少女の頬へと手を伸ばす。

 いつだって、彼女が自分にしてくれたように――少女の可愛らしく柔らかな左の頬に、そっと無骨な掌を寄せた。



 カチッ……



 小さな音が響いて、凍り付いていた世界が動き出す。

 女神の長い漆黒の睫毛が、一つ瞬き――驚いたような顔をした。


「え――?」


 意表を突かれたような顔で、翡翠の瞳が、己の頬に添えられた手を見る。

 きっと、少女の中では、瞬きをした瞬間に、何の予備動作もなく、手品のようにそこにロロの手が現れたように思えたことだろう。

 だが、そんな些細なことはどうでもいい。

 ロロには――少女に、伝えねばならない、言葉があった。


「姫――」


「ロロ……!?お前、意識が――!」


 パァッとミレニアの顔が喜びに輝く。


(あぁ――やっぱり――)


「――綺麗、だ……」


「ぇ……?」


 口の端から滑り落ちたロロの言葉が、聞き取れなかったのか――聞き取れたが、意味が分からなかったのか。

 ミレニアは、数度瞬きをして横たわる男の顔を見る。

 ふ……と、いつもはピクリとも動かない表情筋が緩んで、優しい笑みを作った。


『だから、私にはもう――我儘を言う資格は、残されていないのだけれど』

 

 静かに星が瞬く夜に、生まれて初めて女神が垣間見せてくれた、か弱い少女の心の内。

 それはきっと、あの人生で彼女が口にすることが出来た、たった一つの”我儘”だった。

 それなのに、そのたった一つの願いさえ叶えてやることが出来なかったという後悔は、何度やり直しても魂の奥底に深く深く刻まれて――それ以来ずっと、少女が口にした"我儘"は、どんなに小さなものも必ず叶える、と決めていた。


 決めていたくせに――今日までずっと、叶えてやれなかった、”我儘”がある。


『っ――どうせお前は、私を抱きしめてもくれないくせに!』


『私がお前から欲しい言葉は、『傍にいたい』とか『絶対に守る』とかじゃないの!もっと――綺麗とか、美しいとか、愛してるとか、そういう言葉が欲しいのよ!』


『お前の声が、私の名前を呼ぶ音が、好きよ。大好き。だから――いつでも、呼びたくなったら、呼びなさい』


「……て、いる……」


「ロロ!?何を――駄目よ、喋らないで!」


 ガボッ……と何かの言葉と共に血の泡を吹いた青年を前に、ミレニアは再び顔を青ざめさせて叫ぶ。

 しかし、ロロは優しく沿わせた手で頬を優しく撫でて、ゆるりと首を振った。


 こうして手を触れることすら、少女を穢してしまいそうで恐れ多くて、ずっと、その身に触れることすら出来なかった。

 視界に入ることすら憚られて、生きる世界が違う女神に、「綺麗」も「愛しい」も、伝えることは叶わなかった。

 何度乞われても――名前を呼ぶことすら、出来なかった。


 少女が可愛らしく”我儘”を伝えてくれるたびに――灼熱に身を焦がしながら、どうしても、聞いてやることが出来なかった、その”我儘”を。


 ――最期くらい、叶えてから逝くのを、許してはもらえないだろうか。


 命の灯が消えそうになる気配に、霞んでいく視界の中、必死に愛しい翡翠を探す。

 飾ることのない言葉が、自然と口をついて零れ落ちた。


「世界で一番――アンタを誰よりも、愛している――」


 ずっとずっと、身体の内で暴れまわっていた灼熱が、生まれて初めて、ロロの意志で解放される。

 眠って意識のない少女相手に吐露する、身勝手な告白ではない。酔った弾みで口から溢れる言葉でもない。

 愛しい翡翠を見つめながら真摯に口にする、初めての、熱く燃え盛るような灼熱の想い。


「愛している――」


 しっかりと己からミレニアの白い肌に手を伸ばし、再び言葉を重ねた男に、驚いたように目の前の翡翠が見開かれる。

 女神のおかげで”口を利く道具”から”人”へと変わることが出来た青年が、最期に、この世界に残していきたい言葉は、たった一つ。


「――――ミレニア」


 満足そうな顔で、愛しい少女へと長年の想いを吐露したのと同時に――


 ふっ……


「ロロ――ルロシーク!?」


 掲げていた右手が力を失い、地面へと落ちる。

 ――魔物が無理やり捻じ曲げ、巻き戻した束の間の『時間』が終わった、瞬間だった。

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