第97話 死出の旅路②

 視界の外で、黒い風がうねったのが分かった。

 何か――ミレニアにはわからないような微細な気配を感じ取り、危険を排除するためにロロが動いたのだろうということはすぐに分かった。

 だが、実際に何が起きているのかまではわからない。

 危険察知という観点に置いて、ロロは野生動物のそれよりも敏感に反応し、行動する。周囲がそれを悟るのは、彼より何秒も遅れた後なのが常だった。

 だから、一瞬で展開されていく事態に、ミレニアは最初、全くついて行けなかった。


 ジャッ――と音が響いた。――ロロの抜剣する音だと気づいたのは、一拍遅れてからだった。

 事態を把握しようと振り返ろうとした瞬間、ヴァッ――と圧縮された空気のような魔力の塊が駆け抜けた。正面からぶつかってきたそれは、ミレニアを避けるようにしてそのまま後ろへと抜け去っていく。

 魔力の行方を追いかけ、振り返るのと、信頼する護衛兵が切羽詰まった声で自分を呼んだのは、同時だったような気がした。


「――!」


 振り返り、身体が硬直する。

 大柄な身体を鎧に包んだ屈強な兵士が三名、自分に向かって白刃を構えていた。


「ぁ――」


 目の前に迫る、濃厚な『死の気配』。

 記憶にある人生の中では、初めて感じるその気配は――なぜか、魂の奥底に刻まれた懐かしさを呼び起こす。

 そう――ミレニアは、知っていた。

 これが――これこそが、『死の気配』なのだと。


(駄目――反応、出来ない……)


 兵士たちの虚ろな瞳を見て取り、それが闇の魔法の効力であることを察したときは、既に目の間に白刃が迫っている。


 一人は右斜め上段に構えていた。

 一人は、左斜め上段に構えていた。

 一人は、最も威力のある刺突を繰り出そうとしていた。

 

 彼らの鍛え抜かれた技の速度と、今からミレニアが光魔法を練り上げる速度では、凡そ勝負にならない。

 すべては、実戦経験が足りない故の、ミレニアの落ち度だ。

 ここに来るまでにロロに散々心配されていたにもかかわらず、『大丈夫』と高を括っていた自分を恥じたくなる。

 この戦場にいる誰よりも実戦経験が豊富なロロの心配は、誰よりも的確だったのだ。


 一瞬で目の前に差し迫る濃厚な『死の気配』に、己の運命を差し出さねばならぬと覚悟を決め切る、それよりも先に――


「姫――!」


 鼓膜にもう一度、愛しい男の声が響いた。

 それと同時に、腕を引っ張られた――ような、気が、した。

 いつだって、そうだ。

 ミレニアは、命のやり取りの最前線では、どんなときも事態を把握するのが遅れる。

 気づいたときには――視界が、漆黒に染まっていた。


 ドドドッ……


「――――ぇ……?」


 微かに身体に伝わってきた衝撃は、三つ。

 それが、目の前に迫っていた白刃の数と同じだということに、気づいていながら、脳みそは情報を処理しきれずにフリーズする。


 だって。

 ――だって。


 今にも己の身体を引き裂きそうだった、目の前の白刃は、視界を阻む漆黒に閉ざされて掻き消えてしまったのだ。

 しかし、本能的に恐怖を覚えるはずの闇の中にいて、ミレニアは全く恐怖を感じていない。

 だって――この、体を覆う幸せな温もりも、愛しい香りも、酷く身に覚えがあるものだから。


「ロロ……?」


 喉の奥で引き攣った声は、掠れて無様な音となって空気を震わす。

 一つ一つの点となった事象を、脳みそがゆっくりと理解しながら――それを線でつなげることを、本能が拒否しているのを感じる。


「ご無事……ですか……?姫……」


 耳元で囁くのは、確かに聴きなれた声音で。

 だけど――聞いたこともないくらい、か細く震えて、掠れて――


(待って。――待って)


 嫌だ。

 理解――したく、ない。


 現実から逃避するように固まった思考回路は、指先一つ動かすことはおろか、意味のある言葉の一つも紡ぐことが出来ない。

 ほんの微かに、目の前の漆黒が身じろぎして――カッと世界が光に包まれた。


「ひっ……お、俺たち、一体、何を――!?」


 漆黒に視界を遮られた世界で、ガシャッと金属が耳障りな音を立てる音が響いた。

 兵士たちの鎧が音を立てたのか――


(剣を――取り落とした、のか――)


 そこまで考えて、ざぁっと頭から血の気が引く。

 もう一度、先ほど濃厚に感じた死の気配――そのときの光景が脳裏に蘇った。

 差し迫った白刃は、三つ。

 一つは、右上段。一つは、左上段。もう一つは――

 それらの剣が、地面に、落とされたのだとしたら――


 ずるり、と目の前の漆黒が傾いで、視界に光が差すのと、現実に脳みそが追いつくのは、ほとんど同時だった。


「っ――ルロシーク……!!!!」


 喉を割って叫んだ声は、悲鳴に近しいものだった。

 大陸最強の男が地に伏すのと同時に、にわかに背後が騒がしくなる。


「貴様――っ!」「神の加護を賜る身でありながら、闇に屈するなど!」「断罪せよ!」「その身に宿す闇と共に葬り去れ!」


 この場に混乱を呼び寄せた隻眼の男を捕らえて口々に責め立てながら、神の名のもとに断罪を敢行しようとする兵士たちのことなど、ミレニアの頭からは一瞬で抜け落ちた。


「ルロシーク!!!ルロシーク、返事をして!!!」


 色を失って叫びながら、必死に魔力を練り上げる。


「み、ミレニア様――」


「誰でもいい!!クルサール殿を呼んで来なさい!!!今すぐ、最速でこの場所まで!!!」


 怒声に近い命令を張り上げて、ぬかるんだ地面へと倒れ込んだ力のない身体に魔法を放つ。

 その背中に、生えているはずの剣はない。やはり、正気に戻って己の行為に慄いた兵士が、咄嗟に剣を引き抜いてしまったのだろう。


(馬鹿なの――!?剣を引き抜きなどすれば、一瞬で夥しい血液が噴き出して――)


 見知らぬ兵士の行いに、カッと頭に血が上るが、ぶんぶんと頭を振ってそれを追い出す。

 ――違う。他責にしているだけだ。

 現実逃避をしていては、的確な判断など出来はしない。

 今、この事態を招いたのは他でもない――自分の責任だ。


 そもそも、驕りがあった。光魔法が使えるのだから、と信頼する護衛兵の忠告を「杞憂だ」「過保護だ」と言って無理に危険な戦場に出て来たのは自分だ。

 剣を向けられて硬直してしまったのは、自分の実戦経験のなさだ。あのとき、すぐに魔法で対処出来ていたら、ロロが身を挺す必要などなかったはずなのに。

 何より、彼がその身体を肉の盾にしたとき――頭の隅では、きっと、何が起きているかわかっていた。漆黒に染まった視界も、己を包み込む温もりも香りも、逞しい両腕の力も、微かに伝わった衝撃も、掠れた愛しい青年の声も――何もかも、直前の現実を思えば、それらが指し示す事実はたった一つ。ただでさえ優秀な頭脳を持つミレニアにとって、何が起きたかなど、自明の理だった。

 それなのに――”ただのミレニア”の感情が、判断を下すのを拒否した。


(私のせいだ――!)


 導かれる真実はたった一つしかないのに、それを受け入れたくなくて、指先一つ動かせなかった。

 鈍い衝撃が伝わった瞬間、何が起きたかをすぐに受け入れ、即座に治癒の魔法を練っていれば――ここまでの失血で重篤な事態に陥る前に、対処が出来たかもしれない。

 隻眼の男への対応もそうだ。彼に縋られたときに、もっと相手の心情を慮った対応が出来ていたら、彼が魔物に唆されることはなかったかもしれない。

 際限なく胸の内から溢れてくる自責の念に、ドクドクと心臓が不穏に震えていた。

 今度こそ、冷静に事実を受け止めて、最適な対応をせねばいけないと気丈に心を保っているのに、鼓膜に響く己の鼓動は、どんどんと不安を煽り立てていく。

 

「止血――出血の度合い――治療――き、傷口は――」


 駄目だ。

 ――唇が震えて、上手く言葉すら発することが出来ない。

 今更になって、全身がガタガタと震えだす。

 倒れ伏した男の背中に両手をかざして、恐怖に集中を欠き、魔力を霧散させないだけで精いっぱいだった。


(両側から大きく斬り裂かれて……傷の一つは背中の中央を刺突――中、央……?ふか、さ、は……?)


「ま、マント――黒く、て血の量がわからな――ぁ、脱がせ――と、留め金は――」


 全身を覆う漆黒のマントですら吸水しきれぬ量の夥しい血液が、どんどんと地面に広がっていく恐怖に、薬師としての知識がミレニアの両手を震わせる。

 陽光降り注ぐ春の真昼間というにも関わらず、指先が冷え切ってまともに動かせない。


「ルロシーク……ルロシーク、大丈夫――大丈夫、治すから――ぜ、絶対に――!」


 震える腕で、意識を失いいつもよりも更に重たく感じる長身の青年をやっとのことでごろりと転がし、前面にあるマントの留め金へと手を伸ばす。

 応急処置として咄嗟に施した止血の魔法を解かぬよう細心の注意を払いながら、まずは服を脱がせて、患部を見る。致命傷になりえるのは、威力の高い刺突の攻撃だ。

 肺か、心臓か――そのほかの臓器か。

 刺し傷の大きさと角度から、傷つけられた部位を正確に割り出して、昔頭に叩き込んだ教本の通りに回復をイメージして――


「っ――」


 ひくっ……と喉が引き攣って、変な音が出る。

 頭の中では、冷静にやるべきことを次々と描けているのに、一刻を争う今、冷え切った指先と震える身体が、思う通りに動いてくれない。どんどんと展開する思考と裏腹に、留め金を外すことごときにもたつく体たらくだ。

 薬師としての理想の”ミレニア”として行動しているはずなのに――奥底に仕舞い込んでいるはずの”ただのミレニア”の感情が、邪魔をする。


「ルロシーク……!しっかりしなさい……!お前には、まだまだやってもらわねばならぬことが、たくさんあるのよ……!」


 恐怖に飲み込まれそうな自分を誤魔化すように、震える声で叱咤するが、横たわった身体は、まるで死体のようにピクリとも動かない。

 ガチガチと歯の根が合わない。


 あぁ――

 ――これが、恐怖か。


 ロロが、何度も何度も味わったと言う――絶望の底に横たわる、狂気にも似た、恐怖なのか。


「ルロシーク……!」


 愛しい者の命の灯が掻き消えようとする恐怖に抵抗して、懇願するように名前を呼ぶ。やっと留め金が外れた。

 恐怖に我を忘れて泣き叫びそうになるのを、必死に、必死に理性でつなぎとめて――


 瞬きを一つした瞬間、幻のような温かさが、左頬に触れていた。


 ◆◆◆


 己の、人生の役目を終えて、瞼を閉じると同時に、全身から力を失った。

 何千、何万という人間の命を屠ってきた経験が告げる。


 ――人の死、とは、こういうものだ。 


(あぁ――こんなにも……苦しい、ものなんだな……)


 どこか他人事のように思いながら、すぅっと意識が遠のいていく。

 斬られた傷も、刺された傷も、痛くて痛くてたまらない。

 夥しい量の血が一気に抜け出ていく感覚に、本能的な恐怖すら感じる寒気が押し寄せてきた。


(今まで、俺が命を奪った者も――皆、こんなにも、苦しんで死んでいったのか……?)


 剣闘場で、生き残るため、どれだけの命を屠っただろう。

 ミレニアを蘇らせるため、何万人の命を無為に散らしただろう。

 その代償を支払う時が、来ていた。


(どんな苦痛と恐怖にも、耐えてみせよう……無辜の民や、ディオ――――何より、あのお方が、笑って耐えて、みせたのだから)


 脳裏に浮かぶのは、何十回と命を散らした、幼気な少女。

 怨嗟と苦痛に醜く歪んだ兄たちの首と共に城門に掲げられた首は、死の瞬間まで高潔さを失わなかったことがありありとわかるほどに、いつも穏やかで綺麗な顔をしていた。

 力及ばず守ることが出来ずに、腕の中で命の灯を絶やすときは――いつだって、ロロの瞳を見て、微笑って逝った。永遠に消すことのできない奴隷紋の刻まれた左頬に、いつものように美しい手を当てて、青ざめた顔で血を吐きながらも女神のように微笑んで、ロロを絶望の底へと突き落としていった。


(あぁ――こんな、苦痛を――恐怖を――俺は、俺のエゴで、何十回も……あのお方に――)


 どれほどつらかったことだろう。苦しかったことだろう。怖かったことだろう。

 どんなに謝っても、償うことなど出来ない。

 だから、せめて――自分も、同じように、耐えてみせよう。

 奴隷時代にあれほど恐れ、抗った"死"の運命を、潔く受け入れてみせよう。


(俺に出来るのはもう、それくらいしか――)


 喧騒が遠く聞こえる。音を、意味あるものとして捉えるだけの意識はもう残っていないのかもしれない。

 少女の声すら遠くて――命の灯が揺らぐのを、感じる。

 すべてを覚悟した、その時だった。



『――――助けてやろうか』



「――――!」


 ――随分と懐かしい、仄暗い声が、響いたのは。

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