第93話 向き合うべき過去③

 太陽の日差しを遮る森林は、春だというのに、ほんのりと肌寒さを感じさせる鬱蒼とした気配を纏っていた。

 いつ魔物の襲撃があるかわからぬと、緊張したまま行軍するのは、魔物討伐に慣れていないクルサール軍にはやや酷なのかもしれない。

 周囲に充満する、一行の言葉に出来ないストレスを感じ、ミレニアは困ったように眉を下げてから、己を抱きかかえる青年の顔を仰ぐ。


「ロロ。本当にこの道であっているのよね?」


「はい。……何十回と通った道です。しっかりと覚えています」


 ミレニアが死んだとき、その魔物に接触するのは、ロロにとって唯一の救いとなる道だった。

 脳裏に刻み込んだその道のりは、目を瞑っていたとしてもたどり着けるほどだろう。


「そう。……覚悟は、出来たのかしら」


 少女が少しだけ声を潜めて尋ねる。

 魔物を討伐してしまえば、二度とミレニアを失ったときに時間を巻き戻すことは出来ない――

 そう言って、討伐への最後の一歩を踏み出せなかったロロを気遣い、そっとミレニアは紅い瞳を覗き込んだ。


「……はい。まだ、少しだけ――迷う気持ちがないとは言い切れませんが。貴女の言葉が、俺の気持ちを軽くしてくれた」


 少しだけ睫毛を伏せて何かを考えた後、ゆっくりと紅玉の瞳がミレニアを捕らえる。


「これから先、どんなことがあっても、俺が必ず貴女をお守りします。もう、貴女を独りで逝かせたりしない。濃厚な死の苦痛と恐怖に、涙を隠して毅然と立ち向かわせることなど、決してさせません。貴女が――俺に『傍にいろ』と”我儘”を言ってくださる限り、俺は、身命を賭して貴女を守り抜きます」


「ロロ……」


 その横顔は、確かに覚悟が定まったような表情をしていた。

 数度シルバーグレーの長い睫毛が風を送り、ぽつり、と小さく言葉が漏れる。


「そして――過去の地獄絵図を造り出す元凶となった東の魔物を、この手で討伐すること。それこそが、過去、貴女が愛した民を、己のエゴで苦しみながら死なせてしまった俺に出来る、唯一の償いだと考えました。……俺がかつて殺した民は、今の世界では生きている。彼らに直接何かの償いをすることは出来ない。それならば――二度と、あの魔物によって俺以外の誰かが唆され、似たようなことが起きぬようにするのが、贖罪だと考えました」


「そう。……そうね。私も、それが良いと思うわ」


 ミレニアは神妙な顔で頷く。

 ロロは、それを見た後、「……それに」と小さく付け足した。


「そもそもアレは――ディオの仇でもある。俺としても、恨みがないわけではない」


 脳裏に描くのは、ミレニアのために恐怖に己を叱咤して、魔物の軍勢にたった独りで立ち向かった、鳶色の瞳の少年奴隷。

 想像を絶する激痛と死の恐怖を前にして、魔物の告げる甘い誘惑にも惑わされず、毅然とミレニアの従者である誇りを胸に最期まで立ち向かった、気高い魂の持ち主だった。

 ロロのように、魔物の甘言に弄されて、世界を絶望へと叩き落した男とは違う。

 ミレニアの心にいつまでも根差すに相応しい、立派な少年だった。

 だからこそ――あんな場所で、あんなにも早く、あんなにも無残な死に方をしてよい存在ではなかったはずだ。

 一度、過ちを犯したからこそ――命を散らした少年奴隷に敬意を払うためにも、目をそらしたくなる過去に向き合わなければいけないだろう。


 今、ロロがいるミレニアの傍ばしょは――ディオルテと名付けられた少年が、死の間際まで、何よりも渇望していた場所なのだから。


「わかったわ。お前の中で、整理がついているならばいいの」


 そっとミレニアはロロに身体を預ける。鼓動を確かめるようにして、胸に頭を押し付けた。

 哀しいトラウマを背負った騎士の心が、少しでも軽くなればいい――そう、願わずにはいられない。

 森の獣道をしばらく行軍するうち―― は急にやってきた。


「ぅわあああああああああああああああ!!!!」


「「――――!?」」


 声が上がったのは、前方の軍。

 馬の嘶きが高く響き渡り、隊列が大きく乱れたのが、後方からでも見て取れた。


「ロロ!身体を支えていて!」


 十中八九、魔物の襲撃があったのだろう。

 ミレニアはすぐに頭を切り替え、両手を掲げて意識を集中する。阿吽の呼吸で、ロロが馬上でしっかりと身体を支えてくれるのがわかった。

 イメージするのは、すっぽりと後方軍を覆い隠すテントのような膜。

 脳裏に描いたイメージと共に魔力を解き放つと、パァッ――と眩い光が周囲に広がり、光の網が頭上からゆっくりと降り注いで後方軍を覆っていく。


(治癒に関する魔法はともかく、結界や退魔といった魔法に関しては、クルサール殿と比較すれば圧倒的に経験不足ね……!どうしても、展開のスピードに難が出る……!)


 視界の悪い森の中、前方で上がった悲鳴を聞いた途端、緊張と共に行軍していた魔物討伐に慣れていない兵士たちの間に恐怖が伝播する。

 足並みが崩れ、当初の隊列よりも前後に伸びてしまった一軍を覆い隠す膜は、着地点を探るようにゆっくりと降り注ぎ――


「ま、魔物だぁああああっっ」


「っ!」


 案の定、あと少しで地面に到達する――というところで、数匹の魔物の侵入を許してしまったらしい。


「っ、ロロ!」


「はい!」


 ミレニアの呼びかけに、命令を聞くまでもなく彼女の意図を汲んで、剣を引き抜きながらドッと馬の背を蹴るようにして飛び上がり、恐怖におののき隊列を乱す兵士たちの間を縫うようにして地を駆ける。

 黒い疾風のようなそれは、混乱の中心となっている箇所へと一瞬で肉薄した。

 視界が開ければ、哀れにも既に一頭の騎馬と、恐らくそれに乗っていたであろう兵士の首が三匹の魔物に食い破られ、周辺に濃厚な血臭が立ち込めている。


「ひ、ひぃっ……か、神のご加護を――」


「待て!は使うな!!」


 慌てた傍の兵士の一人が、混乱と共に剣を空中に掲げたのを見て、退魔の魔法を放とうとしている気配を察知し、ロロが怒声に似た叫びをあげる。

 ビクリ、と兵士が一瞬固まった隙に、漆黒の風が駆け抜けるようにして、三匹の魔物の間をはしる。


「ガァッ」「グッ……」「ギャンッ!」

 

 ロロが手にした白刃が、撫でるようにして黒い獣たちの首を渡れば、低い断末魔の呻きを上げて、あっという間に三匹が地面へと倒れ伏した。


「ぁ……ぁあ……」


「結界は魔物の行く道を塞ぐ絶対の鉄壁だと思え!この中で退魔の魔法を使ったとて、魔物は結界の外に出られない。密室のような結界の中を逃げ惑い、他の仲間の元へと襲撃地を広げるだけだ。結界の中に侵入した魔物は全て剣と魔法で息の根を止めると腹を括れ!」


「「は、はい……!」」


 恐怖に青ざめていた兵士に活を入れると、その場にいた男たちはロロの言葉にいくらか瞳に力を宿してしっかりと頷いた。

 ロロは、その瞳と同じ色をした血潮がついた頬をぐっと無造作に拭い、前方軍を見る。どうやら、前方も同様の戦術を取ったようで、光の檻のようなものが瞬く間に展開し、戦闘音が聞こえてきた。

 ぐっと剣を握り直し、救援に行くべきか一瞬悩んだ時――


「ロロ!」


「姫」


 少女の声が飛んで、振り返れば、傍の兵士の馬に乗せてもらったらしいミレニアが近づいてきて馬上から声をかけたところだった。


「お前は、先に前の軍へ行って救援をなさい!私とクルサール殿の結界は、闇の魔法使い以外の人間には障壁にならない!私たちも、隊列を直したらすぐに向かうわ。そして魔物を屠り終えたら、クルサール殿に、全軍を覆う巨大な結界を張るように伝えて!」


「かしこまりました」


 少女の命令にすぐさま頷き、ピィッと甲高い指笛を吹いて己の軍馬を呼び寄せる。

 すぐに姿を現した愛馬にまたがり、黒い風は次の獲物へ向けて、再び唸るようにして走っていった。

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