第92話 向き合うべき過去②
「……ロロ」
「?」
ぎゅっと黒マントを握る手に力を入れて、低く名前を呼ぶと、チラリと紅い瞳がミレニアを見下ろした。
ピキッと額に青筋を浮かべながら、ミレニアはぎゅぅうっと握り込んだ掌の中の布に向かって、魔力を練り上げる。
「――!」
パァッ――と淡い光が一瞬瞬き、護衛兵の身体を包むマントに光魔法が付与されたのが分かった。
「姫……?」
「強情なお前と話していても埒が明かないから、退魔の魔法をかけたわ。何かがあれば、マントに手を触れて、退魔の効力をイメージしながら魔力を放出しなさい。……万が一私が操られたとしても、これなら安心でしょう?」
パチパチ、と紅い瞳が何度も瞬いて、少女を見下ろす。
ミレニアはさらに鼻息荒く、ずいっと青年の前に手を差し出した。
「首飾りを出しなさい」
「は……?」
「どうせ、今も身に着けているのでしょう。出せ、と言っているのよ」
「は、はい……」
ミレニアの確信しているとしか思えぬ物言いに、首飾りを今も肌身離さず身に着けていることを彼女に告げたことがあっただろうか……などと疑問に思いながらも、片手を手綱から離し、首元から鎖を引き抜いて、服の下にしまっていた首飾りを取り出す。
首から外すと、妙に軽くなった首筋に、急に不安に襲われる。
命より大切な翡翠をそっと掌に載せて渡すと、ミレニアはそっと瞳を閉じて、迷うことなくその首飾りに唇を付けた。
「姫――!?」
ロロが驚きの声を上げると同時に、ミレニアが口付けた首飾りの周囲に、目を凝らさねば見えぬほど微細な光の粒子がふわ……と虚空に広がった。
「……はい。これでいいわ。”おまじない”をかけてあげたから」
光の粒が収まった後、そっと瞳を開いて、ミレニアは首飾りをロロへと託す。
「お願いだから、五体満足で帰ってきて。決して、私を哀しませないと約束して。――どんな形であっても、お前が命を散らすことなど、決して許さないわ」
「姫――……」
女神の麗しい唇が触れた首飾りを受け取れば、ドクン、と胸が一つ大きな音を立てる。
いつかの夜も、こうして戦地へ赴く前に、首飾りに”おまじない”をかけてもらった。
きっと、戦場で深刻な負傷をしても、この首飾りに願えば、少女が込めた祈りにも似た魔法が発動し、ロロの傷を癒すのだろう。
少女の瞳には、冗談や揶揄の光はない。
どこまでも真剣な光が、宝石よりも美しい翡翠に宿っていた。
「……はい。必ず、無事に御身の元へ帰ると、お約束します」
「えぇ。必ずよ。必ず、帰ってきて。……お前は、私の物よ。私の傍を、私の許可もなく勝手に離れることなど、許しはしないから」
強い言葉とは裏腹に、翡翠の瞳が不安そうに揺れる。
少女の”我儘”を前に、カッと腹の底が熱くなり、身体の内を灼熱が駆け巡る気配がした。
翡翠と紅玉の視線が絡まり、不意に沈黙が流れ――
森の中の荒れた獣道に、馬上が大きく揺れた。
「きゃ――!」
ロロにとっては何ということもない揺れだが、運動神経が皆無なミレニアは、上手くバランスを取ることが出来ず、滑り落ちそうになる。
「姫!」
慌てた声と共に、蒼い顔で叫んだロロは、その逞しい腕でミレニアをぎゅっと抱き留めるようにして支え、少女が落馬するのを防いだ。
「びっくりしたわ……ご、ごめんなさい……」
「いえ――……」
逞しい腕にすがるように身体を預けると、バクバクと互いの心臓がうるさく鳴り響く。
ロロに支えられて再び姿勢を直すと、ほっと息を吐いた。
「……?」
ふと、違和感を感じて顔を上げる。
先ほどより、随分と距離が近い。
(先ほどは、手綱を握る両手の間に私が座っているだけ、という形だったのに――今は……)
片手は手綱から外され、逞しい腕がしっかりとミレニアの腰に巻き付くようにして身体を支えている。
距離が近くなったのは、このせいだ。
まるで――青年の腕に捕らわれ、抱きしめられているような錯覚。
「……ふふ」
「姫……?」
「いいえ。何でもないわ」
ほんのりと頬を桜色に染めて、緩く頭を振る。
森の悪路を行くのに、少女の危険を排除したい過保護の現れなのか――
――いつぞや酒に酔ったとき、『夢みたいだ』と思わず口走ったように、本当は普段からこうして何かの口実を付けてでも触れていたいと思っていたのか。
(どちらでもいいわ。ロロの、ロロらしい、不器用な愛情がとっても伝わってくるんだもの)
こっそりと唇を笑みの形に変えながら、ミレニアは大人しく逞しい腕の中に納まり、ぽすっと頭を鍛え抜かれた胸へと預けた。
「?」
「ねぇ、ロロ。建国した後のお前の仕事だけれど――お前の要望を叶えながら、色々な制約も全て満たす、素敵なものを思いついたのだけど……聞きたいかしら」
「はい。ぜひ」
こくり、と頷くロロはいつも通り無表情だが、預けた胸に密着した耳は、トクトクと少しだけ早くなっている鼓動を感じ取る。
幸せな音が鼓膜を揺らすのを感じながら、ミレニアは嬉しそうに微笑んだ。
「それはね――私の”夫”よ」
「……は……?」
ぎゅっといつもの無表情の眉間に、思い切り皺が寄る。
その深く刻まれた皺すら愛おしくて、ミレニアはさらに幸せそうに微笑んだ。
「だって――私の休日には、お前も休日を取るのでしょう?」
「それは……」
「そしてお前は、休日であっても私の傍にいたいと言っていたわ。”夫”ならば、家族と過ごしてもいいでしょう?ふふっ……一緒に街へ買い物に行くでも、観劇をするでもいい。自宅でまったりと過ごすのも素敵ね?」
「お待ちください。どうしてそうなるのですか」
ぐぐぐ、と眉間の皺がさらに深まる。理解不能、という表情を晒すロロに、ミレニアは得意げに主張を続ける。
「これならば、公の場にお前を常に伴うことにも理由がつくわ。新帝国はもちろんのこと、王国も、旧帝国時代から各地を治めていた領主を無碍にするわけにもいかなくて、以前ほど顕著なものではないにしろ、貴族制は形式上残していくと言っていたもの。そうした国の外交においては、伴侶の同伴が必須のこともあるわ」
「それは――別に、俺ではなくても――」
「駄目よ。確かに、通常の外交であれば、護衛を連れて行くことも出来るでしょうけれど――より高度な機密情報を扱う極秘会談を行おうとすれば、一般人である護衛兵は会談の場に足を踏み入れることは出来ないこともあるわ。護衛を立てられなくても、ゴーティスお兄様やクルサール殿であれば、自ら剣を帯びて会談に臨めば万が一の有事の際にも事足りるのでしょうけれど……生憎、そうした場所では私は不利ね。曲者が忍び込んだ時は勿論のこと、万が一、お兄様あたりとの密談で、お兄様自身に斬り伏せられたとしても目撃者はない。事後に我が国が抗議したところで、曲者が忍び込んだだけとシラを切られるのがオチだわ」
「そんなことはさせません」
不愉快そうに眉を顰めるロロに、クスリと笑いかける。
「でも――”夫”ならば、密談にも同席が出来るのよ」
「――!」
「先ほども言ったけれど――貴族社会において、公式の場所に伴侶を伴うことはある種当たり前の常識よ。”一般人”を国家間の会談の場所に同席させることは出来なくても、”伴侶”ならば、私はいくらでもこの弁舌を駆使して相手を納得させて見せるわ」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らして、ミレニアはロロを見上げる。
勝ち気な翡翠の瞳が、嬉しそうに輝いていた。
「そして、これは”再現性”の問題すらクリアするのよ。これから先、女性元首が立つときは、夫を密談に同席させればいいという実例になるし――勿論、本人が剣を帯びられる実力者であればその限りではないけれど――、普段から護衛を雇わなければならないという前例を作るわけでもない。お前はあくまで公務に同行する”伴侶”であって、護衛ではない、という立ち位置にしてしまえばいいんだわ」
「それは――……」
ロロは口の上手い主人に渋面を作って呻く。
「いえ……やはり、いけません」
「あら。どうして?良い思い付きだと思ったのだけれど」
「外交の場ではそのように振舞うとしても、日常生活においては、俺は護衛としての仕事をする。それなのに、”護衛ではない”という理屈は通じぬのではないでしょうか」
「まぁ」
(外交の場で、”伴侶”として振舞うこと自体には、拒否反応を示すわけではないのね?)
今までとは異なる反応に、思わず心が浮足立つ。
少しずつ、ロロの中でも、認識が変わってきているのかもしれない。
「そんなもの、どうとでもなるわ。私、しっかりと稼いでみせるもの。お前ひとりを養うくらい、きっと大丈夫よ」
「俺に無職になれとおっしゃるつもりですか……」
ひくっ……とロロの頬が引き攣る。
さすがに、かつての主人であるミレニアに働かせて自分が職に就かないという選択肢は受け入れがたいようだ。
「いいじゃない、別に。確かに、旧帝国の常識では考えられないことだけれど――
「勘弁してください……自分の価値がわからなくなって、死にたくなる」
もともと奴隷根性が染み付いているせいか、ロロは頑なに、敬愛するミレニアだけを働かせ己は労働をしなくても良いという申し出に、明確に拒否を示す。
良い思い付きだと思ったのに、と口の中で呟きながら、むぅ……とミレニアは口を尖らせた。
「では、そうね……軍務卿、というのはどうかしら」
「軍務卿……?」
「ファムーラの軍事の全てを束ねる者よ。旧帝国でいうところの、ゴーティスお兄様の役割ね」
「……」
「お前は最強の武人であることは事実なのだから、日常を私の護衛などという暇で仕方のない仕事ではなく、後進育成に精を出してほしいの。有事の際は、戦場にだって立ってもらいたいわ。兵法や、部下を統率する人心掌握術などは、これから学んでいけばいい。……これなら、私の公務の際に護衛に就ける者を誰にするかの人事権もお前が持つことが出来る。それなら、お前も安心でしょう。ここぞというときには、お前自身が護衛に就くようにしたっていいんだもの」
「それは、確かにそうかもしれません……が……俺などに、務まるでしょうか」
ロロは視線を伏せて困惑したように呻く。
悪くはない手ごたえに、ミレニアはぽすっと再び広く逞しい胸に頭を預けた。
「大丈夫よ。きっとお前なら出来るし、お前なら私も安心して任せられる。お前のその温かい優しさで、私も、ファムーラも、皆を守って頂戴」
目を閉じて、幸せな温もりに浸りながら告げると、ぎゅっ……と微かにミレニアを抱く腕に力がこもった。
「大好きよ、ルロシーク。私の騎士。……私の全てを使って、お前を世界一幸せな男にしてあげる。だから――お前の美しい瞳に影を宿す魔物など、さっさと討伐して、一緒に北へ帰りましょう」
そこは、ミレニアにとっての理想郷――
愛しい者に『愛している』と誰彼憚ることなく伝えられる、奇跡のような幸せが詰まった国なのだから。
「……はい。仰せのままに」
ロロは静かに頷いて、そっとミレニアを抱く腕に力を込めたのだった。
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