第90話 因縁の場所⑤

 ふいに、静寂が部屋を満たした。

 鼓膜を圧迫するかのような、重い、重い、沈黙だった。


「……俺は、アンタが愛したこの国の民を、たくさん殺した」


 ぽつり、と重ねるように零れ落ちた言葉が、静寂を切り裂く。

 まるで神を前に懺悔するように、ロロはぎゅっと眉根を寄せて、苦しそうに口を開いた。


「何度も、何度も――アンタが、その命を擲ってでも守りたいと願った、大切な民を、殺した。魔物に唆され、時間を巻き戻すために、幾度となく帝都を火の海に沈め、罪のない者の命を奪った」


「それは――」


「女も子供も老人も。何の罪もない人間たちを、下らない俺のエゴのために、等しく全て、火の渦に巻き込んだ。アンタを生き返らせるために、なんていう理由で――アンタを理由にして、民を、虐殺した。……あの、阿鼻叫喚の地獄絵図は、今でも脳裏にしっかりと焼き付いている」


 辛そうに顔を顰めた後、ぎゅっとロロは瞳を閉じる。

 耳を劈く悲鳴や泣き声。真っ赤な絶望に彩られた世界は、どこまでもロロを苛み続ける。


「とても許されることじゃない。許さなくていい。……最低な男だと罵って、嫌ってくれて構わない。本来、アンタの傍にいられるような男じゃないんだ、俺は」


 許しを得ようなどと思ってはいない。許されたいなどと、思ったことは一度もない。

 少女に忌み嫌われ、二度と顔を見せるなと追放されることも覚悟した。

 覚悟はしているが、いつだって――いつ、それを言われるか、怖くてたまらない。

 それは、誰もが”強い”と思っているロロが、ずっと心の底に抱えていた”弱い”部分。


「ロロ……」


「いつか、アンタをあの革命の夜から始まる死の運命から解放出来たら――どんな報いも受けると決めていた」


 そっと薄く瞳を開く。シルバーグレーの長い睫毛がふるりと震えた。


「金輪際、従者として傍に置いておくことは出来ないと言われて、国を追放されてもいい。再び奴隷として、誰か別の人間に売り払われたってかまわない。ゴーティスの元へ行けと言うなら、そのようにしよう」


 世界の肥溜めの住人を見るように、汚物を見るような目で蔑まれたって構わない。


『お願いだから――なんて言って、私が愛した無実の民の命を奪わないで――!』


 昼間のミレニアの悲痛な叫びは、ロロが気づかぬふりをして奥底に仕舞い込んでいた”弱さ”を一気に炙り出した。


(いや――本当は、気づいていた。この国に足を踏み入れたときから、ずっと……)


 街並みを歩く人々とすれ違うたびに――今、ここで笑って幸せそうに暮らしている彼らを、自分は、惨たらしく殺したのだと、嫌でも突き付けられているようで――

 本来、ミレニアの傍にいられるような存在ではないことを、これ以上なく思い知らされた。

 だが、心の底で気づいていようとも、それを自分で認めることは出来なかった。

 認めてしまえば――もう、ミレニアの傍に、いられない。


 身も、心も、命も捧げると決めた、この世界で一番愛しい存在の傍に、いられない。


「だが――俺は、アンタの傍から離されれば、息の仕方もわからなくなる男だ。だから……頼むから、いつか俺を断罪するときは、追放ではなく、処刑にしてくれ。――アンタの手で、俺の命を絶ってほしい」


「な――」


「アンタに殺されるなら本望だ。――この胸元の宝石と、アンタにもらった宝物なまえだけを供にして、かつてこの手で屠った帝都民全員が襲い来る死出の旅路をたった独りで歩いていく。それが、俺が抱えた業だ。……時を戻したところで、アンタが事実を知れば、嫌われ、共にいられないと知っていた。それでも――と、望んだのは、俺のエゴだ」


 ぽつり、ぽつり、と頼りない言葉が漏れていく。

 それは、今までのロロには決して口に出来なかった、弱音。

 ミレニアの傍にいられなくなる可能性を考えていながら――覚悟など出来るはずがなくて、ただミレニアがその事実に気付かなければいいと、都合のいい夢を見ながら、いつか来る断罪の日に怯え、備えている。


「俺はきっと、同じことが起きれば、同じ過ちを犯す。例えばこれから先、ファムーラが発展したとして――もしアンタの命と、国民全員の命と、どちらかしか選べない事態が起きたら、俺は迷わずアンタを選ぶ。昨日まで共に過ごした連中を、全員地獄の淵に置き去りにしてでも、俺はアンタを選んでしまう。そんな、酷く利己的な男だ。……それを、アンタは決して望まないと、知っているのに」


 耳の奥に、先ほどのミレニアの言葉が蘇る。


『先に明らかにしておくわね。もしも仮に、また私が死んでしまったとして――お前がまた、”やり直し”を選ぶことを、私は望まない』


 わざわざ、言われるまでもない。そんなことは、”最初”の時間軸から、わかっていたことだ。

 ミレニアは、いつだって自分の死後もロロが自分無しで力強く生き抜いていくことを願っている。

 だから、己の死期を間近にしても、気丈な笑顔で掴んだ手を離し、”主”の顔で、ロロに”自由”を与えるのだ。

 ――それこそが、ロロを絶望の底に叩き落す所業だとは、知りもしないで。


「いつも、自分以外の”誰か”のために己を擲てるアンタとは正反対だ。俺はいつだって、最後に、アンタの幸せよりも、俺のエゴを取る。アンタが泣くとわかっていても、俺がアンタを失いたくないために、アンタを助けるんだ」


 ディオを犠牲にしてしまった、帝都の魔物による大規模侵攻の夜も。瀕死の奴隷たちを置き去りに背を向けた、革命の夜も。

 ”やり直し”のために帝都を滅ぼしたときだけではない。

 いつだって、ロロは、ミレニアを泣かせることがわかっていても、ミレニアを無理矢理にその場から連れ出し、命を繋ごうとする。

 それによって、少女の清らかな心が引き裂かれるほどに痛みを発したとしても――

 ――ロロが、ミレニアを失うことが出来ない、という、ただそれだけの理由で――


「それでもアンタに、紅蓮の騎士ルロシークと呼ばれると、錯覚する。『私の物』と言って、大切に扱われると、錯覚する。――俺みたいな男でも、アンタの傍にいていいんじゃないかと」


 だから、胸が高鳴り、灼熱が暴れ狂う。愛しい思いが募って、何度でも惚れ直す。

 だが、そうしてうっかり錯覚しても――隣に並べる、とまでは、思い上がらない。思い上がれるはずがない。

 今も、目を閉じれば、あの紅蓮に染まった地獄の景色が、すぐに思い描けるのだから。


 だからロロは――決して、ミレニアの求婚を、受け入れることはしない。


「今日の一件で、それが錯覚だと、改めて突き付けられた。俺は、アンタに相応しい男じゃない。どんなに求められようと、アンタの気持ちに応えることは出来ない。……いつでも、俺を許しがたいと思えば、好きにしてくれ。その日までは、視界に入らず、気配も感じさせず、アンタのためにどんなこともこなす有用な従者でいられるよう努力する。だからどうか、俺の利用価値がなくなるまでは――それまででいいから、傍に置いてくれ」


 そして、瞳を閉じて、震える声で告げる。


「すまない……それでも、往生際悪く傍に居たいと願うほどに――俺は、アンタのことを――……」


 言葉は、最後まで音にならなかった。

 それを口にする資格はないと、知っていたから。

 しん……と部屋の中に静寂が降りる。


「そう……お前の言いたいことは、よくわかったわ。お前が頑なに、自分は相応しくないと私の求婚を断り続ける、本当の理由はそれなのね」


 俯きながら発せられる声は、少しくぐもっていて聞き取りにくい。

 失望されてしまったかもしれない――と、紅い瞳が揺れた、その時だった。

 バッと少女が顔を上げ、両手を伸ばし、目の前の美丈夫の顔を包む。


「しっかりしなさい!!!ルロシーク!」


「――!?」


 バシンッ

 もはやそれは、両手で頬を包むと言うよりも、両頬を同時にビンタされたのと同じくらいの衝撃だった。

 思わず驚いて、紅玉の瞳が大きく見開かれ、何度も目を瞬く。

 目の前の少女は、翡翠の瞳を吊り上げ、朗々と声を張り上げた。


「お前を苛む過去の亡霊は、この時間軸には存在しない。この世界では、私が愛した帝都の民は、誰一人お前に殺されてなどいないわ!」


「だが――」


「いつまでもうじうじ悩んでいる場合ではないのよ、ルロシーク。お前は、過去を振り返ってばかり。やれ奴隷だっただの、やれ帝都の民を虐殺しただの――お前は、たった一人の私の騎士!その称号に相応しく、胸を張って生きなさい!」


「――――……」


 ぱちぱち、と紅い瞳が何度も瞬き、風を送る。

 少女は翡翠の瞳をキリリと吊り上げたまま、きっぱりと言い切る。


「ルロシーク。私の騎士。お前は、私の物よ。頼まれたって、生涯、絶対誰にも渡さないわ。……こんなことを伝えるだけで、お前が私の傍にいられると安心するなら――生きていてもいいと実感できるのなら、いくらでも、何度でも、伝えてあげる。その実感すら錯覚だとお前が言うなら、一生ずっと、錯覚させ続けてあげる」


「!」


「大好きよ、ルロシーク。愛しているわ。だから、ずっと私の傍にいて。お願いだから、自分は相応しくないなんて、己を卑下しないで。胸を張って、堂々と、私を愛していると宣言しなさい」


 ピクリ、とロロの手が震える。

 目の前にある長い睫毛に縁どられた翡翠の瞳の端に、じわり、と涙がにじんでいた。


「第一、約束が違うわ」


「約束……?」


「お前が先に逝ったのなら――待っていてくれると、言ったじゃない」


「――!」


 ハッとロロが瞳を見開く。

 ぎゅっとミレニアは眉間に力を入れて、涙を堪えるような仕草をした。


「それとも、あれは嘘だったの……?」


「っ――違う……!」


 動揺し、ロロは思わずミレニアの頬へと手を伸ばす。


「違う、そうじゃない……!ただ、あの時とは、状況が違う……!俺が一緒にいたら、死出の旅路に襲い来る亡者は、とんでもない数になる。アンタを、そんな危険な旅路に付き合わせるわけには――」


「一緒じゃない。――嘘つき」


 ひゅ――とロロの喉が小さく音を立てる。

 脳裏に過るのは、いつかの夜――真っ暗な野営地点。

 紅い宝石を握り締め、どうせお前はこの首飾りと違って大事なときに自分を見捨てるのだろう、と涙を浮かべて糾弾した、少女の姿。


「ちが――嘘じゃない……!だが、俺は――」


「私は!っ……少なくとも、十二人のお兄様に、酷く恨まれているわ!」


 ロロの言葉を遮り、鋭く、叫ぶ。

 声が震えないように、強く息を吸って、ミレニアは言葉を続けた。


「それだけじゃない。カルディアス公爵や、公子。ヒュード殿だって、そうよ。きっと、私の死出の旅路には、彼らが亡者となって襲い来る。彼らを差し置いて、革命後にも生き残った私は、生前以上に憎まれることでしょう。生粋の軍人や、それに準ずる訓練を受けたお兄様たちばかりの中、旅路を無傷で歩けるはずなどないわ」


 言いながら、ぎゅっとミレニアはロロの頬を覆う手に力を籠める。

 いつかの時間軸で彼を糾弾したときのように、首飾りに手を伸ばすことはない。

 目の前の、紅い瞳を見据え、訴えた。


「それでも――そんなにも恐ろしい道を、お前は、私独りで歩かせると言うの?」


「っ、それは――!」


「だって、怖くてたまらなくなったとき――『助けて』とどれだけ呼んでも、お前はもう、来てくれないんでしょう?」


「違う!!!」


 ロロは、夢中で目の前の小柄な体を掻き抱いた。


「違う――違う、嘘じゃない……!アンタが俺を呼んでくれるなら、どこにいたって駆けつける……!こんな俺でもいいと、最期の旅路の伴に選んでくれるなら、俺は地獄の入口で、何十年でもアンタを待ち続ける――!」


 ガタガタと身体が震える。

 何度も、何度もこの小さな命の灯が、腕の中で掻き消えて行った。

 『助けて』と縋ってすらもらえず、慟哭した絶望の日々。

 いつも、最後の最後に、頼ってもらえない無力感に、打ちひしがれていた。

 一番苦しいときには、お前など頼らない――そう、言われているようで。

 

「そう。……ならば、何度だって言ってあげる。ルロシーク。お前は私の物よ。お前のエゴで、約束を違えることは許さないわ。私が死ぬまで――死んだ後もずっと、ずぅっと、私の一番傍にいて」


「っ……」


 少女の小柄な身体を折れそうなほどに抱き締める姿は、守るというより、縋るようで。

 ミレニアはそっと震えている青年の身体に触れる。

 安心させるように、シルバーグレーの髪を優しく混ぜた。


「大丈夫。大丈夫よ、ロロ。死出の旅路の安寧は、死者を悼む人や気持ちが多いほどに保たれると教えたでしょう?今のお前には、仲間が沢山いて、お前の死を悼む者は多いでしょうし――例え誰も悼んでくれなくとも、私が毎日お前を想って涙を流すわ。きっと、私が行く頃には、お前の旅路も安らかになっているでしょう」


「アンタが……涙、を――?」


 この、人前で涙を見せない少女がそんなことをするとは信じられず、ロロは訝しげに顔を上げる。

 慈愛を湛えた翡翠の瞳が、柔らかく緩んでロロを見つめていた。


「えぇ。当たり前でしょう?私が、この瞳をこれ以上なく慕っているのはお前も知っているでしょう。これを、永久に見られなくなるのよ?哀しくて、寂しくて、辛くて――毎日毎日、私の騎士に会いたい、恋しいと、お前の名前を呼んで、泣いて暮らすに決まっているわ」


「――!」


「ふふ。でも、嘘つきなお前は、そうして私が泣いて『行かないで』『傍に居て』と縋ったところで、他の男がいるだろう、なんて言って私を振り切って逝ってしまうのかしら?」


「それは――」


「独りで泣いている私を放っておくことは出来ない、のではなかったの?全くお前は、嘘をついてばかりね?」


 翡翠の瞳が挑発的に輝けば、ロロは閉口するしかなかった。


「……嘘じゃない」


「まぁ。本当に?」


 こくり、と頷けば、ミレニアは満足そうにぱぁっと顔を輝かせた。

 ロロは苦笑と共にそれを見つめる。


(だが――俺は、知っている。この御方は決して、俺に泣いて縋ったりなど、しないことを)


 誰よりも気高い魂を持った少女だ。

 恐怖も絶望も悲しみも、全てを”女帝”の顔で覆い隠してしまう彼女は、きっと、人目をはばからず涙を流すことなどありえない。

 己の死が迫っていても、最期まで目の前の騎士ロロに向かって、弱音の一つも零さなかった女なのだから。

 

「安心なさい。……私は死なないわ。だって、お前が守ってくれるもの」


「姫……」


「時を操る魔物などいなくても、平気よ。私には世界一優秀な専属護衛がいるのだもの。勿論お前も、私の許可なく勝手に死ぬことは許さない。初めて逢ったときに、そう命令したでしょう?」


 クス、と笑いながら優しく奴隷紋の刻まれた頬を柔らかな繊手がなぞる。


「二人で仲良く、誰もがうらやむ老夫婦になって穏やかに人生の時を終えるまで、お前は決して私の傍から離れてはいけないの。ずっと、ずっと、この美しい瞳で、私に”愛している”と伝え続けて」


「夫婦になるのは前提なのですか……」


「勿論よ。そこは譲れないわ。仮にお前が、本当にエゴの塊だったとしても、ね」


 いつもそうだ。

 どんな男よりも男らしい少女は、何度だってロロの心を奪い、重く沈んだ感情を軽くしていく。


 瞳を閉じて、ロロは、自分が観念する日が近いことを何となく悟っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る