第89話 因縁の場所④

 ジジ……と燭台が揺らめいて小さな音を立てる。

 闇に沈んだ世界の中、しん……と静寂の帳が部屋の中に重たく降りていた。

 既に傷跡などどこにもなくなったはずの額に触れたまま、痛ましげに眉を寄せて瞳を伏せる青年に、ミレニアは躊躇いがちに唇を開いた。


「ロロ。……ルロシーク。……私は、クルサール殿に協力したいと思っている」


「……はい」


「そのために――お前の力を借りたいと、思っているのよ」


「――――……」


 ロロは、返事をすることなくそっと触れていた指を離し、手を引いた。

 ぎゅ……と固く拳の中にそれが握られるのを見て、ミレニアは困った顔をする。


「……気が進まない?」


「いえ……」


 口では否定の言葉を発するが、その昏い影を落とした瞳は、正反対の意思を訴えている。


「私は……やはり、ここに住まう民を、救いたいと思うわ。かつて、私が愛した民だった者たちだもの。当時からずっと続いている魔物の恐怖があるならば、何とか取り除いてやりたい」


「……はい」


「だけど、光魔法に秀でるクルサール殿たちだけでは、魔物の侵入を防ぐことは出来ても、討伐までは出来ない。東の魔物は、とても高位の魔物のようね。クルサール殿が、建国後のゴタゴタに注力しているうちに、かつてゴーティスお兄様の軍が数を減らした森の中の魔物たちも、再び復活しているらしいわ」


「…………」


 祭りを中止して、急遽開かれた会合で聞かされた事実――

 それは、かつて帝都を脅かし、恐怖のどん底へと叩き落した諸悪の根源である魔物がまだ、生きているという事実だった。


(言われてみれば、そうよね……革命時にクルサール殿が抱えている兵士たちは、私兵に毛が生えたような者たちばかりだったし、旧帝国の軍人のほとんどは、ゴーティスお兄様に従って亡命したか、ザナドお兄様と共にこの城で討ち死にしたことでしょう。勿論、軍人の中にエルム教徒がいて、国内に留まっていないとも限らないけれど、数は圧倒的に少ないはず――……魔物に対しては結界を張って立てこもるだけ、というイラグエナムの対処法の中で生きてきた私兵たちは、対魔物の戦闘の知見など持っているはずもない……)


 記憶が戻ったロロから聞いた話では、帝都大規模侵攻の後、イラグエナムから連れて来られた<贄>――の力に見せかけてクルサールが張った結界のせいで、帝都に魔物が侵略できなくなったらしい。

 さらにその状態で、ゴーティス軍の度重なる討伐遠征によって、森の中の眷属たる有象無象の魔物たちも数を減らされた。革命の時点で、東の森に発生した”巣”の要となっているであろうロロをそそのかした時を操る魔物は、力をかなり減らされていたと言う。

 そして、最初の結界の期限が1年――掻き消えた瞬間、すぐにでも帝都に侵攻しようとした魔物が、それを叶えられなかった理由は、ネロ――正しくは、ネロと契約した北の魔物――が帝都の中にいたからだった。


(だけど……私が、ネロを北の大地へと連れて行ってしまった。魔物は再び、帝都を狙うことが出来るようになった……)


 それ以来、常に王都は魔物の侵攻に脅かされてきたらしい。

 だが、クルサールの結界は強力だ。最初の一年間、彼の結界は、決して東の魔物の侵入を許しはしなかった。故に、革命直後の最も脆い状態を、魔物の脅威を考えることなくやり過ごすことが出来たのだ。

 しかし、クルサールは考える。――自分が死んだ後、王都の防衛はどうするのか。

 きな臭い隣国イラグエナムの対策もある。クルサールは急いで軍備に関しての補強を始めた。

 そして、王立教会というものを王都の中に作り上げ、最も力の強く信仰心の篤い男をその教会の長――司祭としてあてがった。

 やがて、自分は死ぬ。

 そうなれば、王都を守るのは、聖印の浮かぶ強力無比な光魔法の能力を宿した己ではなく、光魔法を駆使する王立教会の面々だ。

 そうして、建国から二年目――王立教会の司祭を中心とした者たちに、王都の結界を張らせた。

 自分たちの結界が、”魔物の巣”に対してどれだけ有効なのかを測らせるため。――その結界で対処できないことを知り、その対処法までを考えるため。

 故にこの一年間は、魔物との戦闘はひっきりなしに行われた。

 クルサール程の長期間、王都を覆うことが出来ない司祭の結界は、たやすく何度も魔物の侵攻を許した。そのたびに、兵士と光魔法遣いが赴いて、民を守りながら魔法で魔物を退けて行った。

 そうして明らかになる、この防衛システムの根幹的な問題。

 光魔法は、発動させればその場から魔物を追い立てられる。

 だが――決して、魔物を倒すことは、出来ない。

 ”魔物の巣”は、核となる魔物の討伐を叶えぬ限り、永久にそこに存在し続け、王都の民を脅かし続けるのだ――


「事態は急を要するわ。敵はついに、闇の魔法使いを手に入れたと考えて間違いないでしょう」


 ミレニアの言葉に、ぐっと拳を握り込む。手の甲が白み、小さく震えていた。

 ちまちまと侵入しては追い立てられ――を繰り返したことで、しびれを切らしたのか。

 魔物は、ついに、自分の手足となって恐怖と絶望を集める契約者を見つけ出したらしい。


「人間同士なら、魔物の掟は関係ない。だから、仮にネロが王都に戻っても、東の魔物が闇の魔法使いを介して王都を攻める分には、魔物の世界の掟にも抵触しない。そう、よね……?」


「……はい」


 呻くような小さな声で、ロロは肯定する。

 ミレニアは深いため息をついた。

 今回のミレニアの外交には、ネロが数日遅れで到着する手筈になっていた。クルサールからの文で、帰国に際し、幾つか気になっている領地の様子を見て報告してほしいと依頼されたためだ。

 だが、ロロの話が確かならば、ネロが王都に到着すれば安心、というものでもないらしい。


「昔、帝都を襲った大規模侵攻も、あの魔物が指揮していたのでしょう?ならば、相手も馬鹿ではない。なかなかに頭の切れる、狡猾な魔物なのでしょう。それが、心の弱い人間に取り付いて、唆して――今、王都を再び脅かそうとしている」


 大勢の人間が集まる今日の中央広場を襲撃のターゲットにしたのも、狡猾で頭の切れる魔物らしい判断と言えた。

 何より最初に、クルサールを狙ったのが最悪だ。最も観衆の注目が集まるあのタイミングで、鮮血を噴き出して倒れ込む『救世主』を見れば、群衆にたやすく恐怖と絶望が蔓延したことだろう。

 そうして、揺らいだ心に、闇の魔法がどんどんと作用して、雪だるま式に虚ろな瞳の反乱分子を作っていったに違いない。


「今の王国の兵士たちは、二年間一生懸命に訓練を積んだとはいえ、高位の魔物に対抗できるような旧帝国軍とは比べ物にならないわ。……その点お前は、ゴーティスお兄様の指揮のもと、最後の一年、何度も討伐に従事していたわね。勿論、個としての戦力は申し分ない。東の”巣”を取り除くには、核となっている魔物を討伐せねばならないわ。今こそ、お前の力が――」


 熱弁するミレニアに、拳を固く握りしめたまま、ロロは静かに俯いて言葉を受け止める。

 じっと動くことなくシルバーグレーの旋毛を向けているロロを前に、ミレニアは不意に言葉を切った。


「……怖い、のかしら」


「――!」


 少しだけ苦笑の混じったような声に、ハッと顔を上げる。

 視界の先で、ミレニアは、困ったような顔で眉を下げて笑った。


「正直に言いなさい。――怖い、のでしょう」


「いえ……俺は――」


「嘘は駄目よ。お前の瞳は、本当に雄弁だから」


 言いながら、そっとミレニアは手を伸ばしてロロの奴隷紋に触れる。


「嘘ではありません。どんな兵も、魔物も、恐ろしくはない。姫をお守りするためならば、俺はどんな敵も――」


「ルロシーク」


 ミレニアは言葉を遮って、ゆっくりと紅の瞳を覗き込み――ふ、と再び苦笑に近い笑みを刻んだ。


「そんなに、怖い?――――私を、再び失うのが」


「――!」


 息を飲んだ途端、ひゅ――と喉の奥が音を立てた。

 一瞬で青ざめた青年に、自分の予想が正しかったらしいと確信を深め、ミレニアは困ったように嘆息した。


「もしも東の魔物を討伐した後に、もう一度、私を失ったら――もう、二度と、”やり直し”は出来ないものね?」


「っ……」


「お前は、それが、怖いのでしょう」


 ぐっと再び拳を握り込んで、息をつめたまま俯く姿は、無言の肯定を示していた。

 東の魔物がどれほど強力な魔物でも、怖くはない。ミレニアの命とあれば、それと相対すること自体に恐怖を感じたりはしないだろう。

 だが――全く別の、恐怖がある。


「わかっているのでしょう……?お前が、いっそ殺してほしいと願うほどに追い詰められたループの運命に閉じ込めたのは、他でもないあの魔物よ。”やり直し”たところで救いなどないとわかっていて――お前自身からも恐怖と絶望を摂取するために、お前を唆して契約したに違いないわ」


「ですが――その結果、今、姫は、生きておられます」


「そ、れは……そう、だけれど。でも、例外中の例外でしょう。きっと、本来は何億通りもの分岐があって――今回、たまたまそれを選び取れただけ。お前はきっと、今回で成し遂げなければ、あと数回も心がもたなかったはずだわ」


 ミレニアの指摘に、ロロは俯く。

 それは事実だが――それでも、その、何億の分岐のうちの一つを選び取ることが出来れば、ミレニアが生き残る世界線が、あったのだ。


「先に明らかにしておくわね。仮に、また私が死んでしまったとして――お前が再び”やり直し”を選ぶことを、私は望まない」


「っ……」


「お前の記憶が戻ったあの瞬間――あの苦しみ方は、尋常じゃなかったわ。あんなことを、何十回も繰り返したなんて、信じられない。あんな、激痛と狂気に支配されるような――」


「――貴女を失う、とは、そういうことです」


 押し黙っていたロロが、口を開く。驚いてミレニアは口を閉ざした。

 苦しそうに紅い瞳を眇めて、ロロはミレニアを見つめた。


「俺にとって……貴女を失うとは、そういうことです。再びやり直したとしても、どうせまた貴女を失う可能性が高く――それどころか、毎度必ず、死んだ方がマシだと思えるような、激痛と狂気とに支配されるとわかっていて――それでも、どうしても、諦めることが出来ない。……魔物に踊らされているのだとしてもいい。それでも、貴女が再び美しい瞳を開き、吐息をして、柔らかな声音を響かせてくれるなら――そんな可能性が、何億分の一でも、あるのなら。どんな代償を払ってでも、その可能性に賭けざるを得ない。……俺にとって、貴女の死とは、そういうものです」


 どうせ、ミレニアを失った世界で、独りで生きていけと言われたとしても、きっと、死んだ方がマシだと思える狂気に支配されるのは同じなのだ。

 それならば、万に一つ――億に一つの可能性でも、ミレニアが生きる可能性がある選択肢に、賭けたかった。


「ロロ……」


 苦悶の表情から漏らされる切羽詰まった声に、ミレニアは思わずかけるべき言葉を失う。


「俺は――ちゃんと、わかっている」


「ぇ……?」


「俺が、アンタに相応しくない存在だ、ということを」


 ぎゅっと無骨な手で胸元の首飾りを握り締めて吐露された言葉に、ミレニアは疑問符を上げる。

 そんな言葉は、もう何度もロロから聞かされてきたが――今日の発言は、今までと少し、違う響きを持っていた。

 ロロは、服の下にある翡翠の飾りの手触りを確かめながら、胸につっかえている黒い塊をそっと吐き出した。


「俺は――エゴの塊だ」


「ぇ……?」


「アンタのために、と口では言いながら――結局すべては、自分のためでしかない」


 はぁっ……と苦悶の吐息が漏れる。

 どこまでも――どこまでも、自分は、醜く、利己的な、汚い奴隷なのだ。

 自分の命のためだけに、平気で他人の命を奪って生きてきた。

 ただ生きるために、他者の命を奪い、その屍の上で息を吸った。命を奪うことでしか、命を繋げることが出来ない――そんな、血で血を洗う、穢れた世界。

 ただ、息を吸って、吐いて、心臓を動かす。そのためには、どんなに汚いことでも平気でやった。

 そんな世界から救い上げてくれた女神ミレニアのおかげで、自分も”人間”になれたと思っていたが――本質は、どこまでも変わらない。


「アンタが気づかないふりをしてくれるのをいいことに、俺は、ずっと、逃げてきた。自分が犯した罪から逃げて、『人間』としてアンタの傍に置いてもらおうと――自分に都合の良い人生を歩もうと、姑息に生きてきた」


「ロロ……?お前、一体何を言って――」


「だが――ふとした時に思い出す。俺の本質は、姑息で、卑怯で、卑しく、醜い――エゴの塊の、『奴隷』だ」


 それは、慟哭に近い響きが宿っていた。

 ミレニアは、ロロの言葉の真意がわからず、ごくりと唾を飲み込む。

 一瞬の沈黙の後――ゆっくりと、青年は唇を開いた。



「忘れないでくれ。俺は――――”アンタのために”といって、アンタが何より守りたかった無実の民を、虐殺した男なんだ」

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