第88話 因縁の場所③

 昼間の晴天が嘘のように、黒々と立ち込めた分厚い雲の裏に、月が隠れた夜――

 漆黒に包まれた世界で、ミレニアは寝支度を整えた後、寝台に腰掛けたまま困ったように目の前に佇む男を見上げた。


「そんなに心配しないで。……ほら。もう、傷跡はおろか、痛みだって欠片もないのだから」


「……申し訳ございません。御身に傷一つ付けることはないと誓ったのに――」


 奴隷紋を刻んだ左頬が苦悶に歪み、絞り出すような悔恨の声が響く。

 ミレニアは小さく嘆息して、そっと今日の夜空のような漆黒の髪をかき上げ、額を出す。


「ほら。心配ならば、近づいて見るなり、触れて確かめるなりしなさい。……本当に、もう、大丈夫だから」


 今にも死にそうな顔をしている従者に痺れを切らして語りかけると、ぐっと辛そうに眉根を寄せた後、ロロはそっと近づいて、言われた通りにミレニアの顔を覗き込む。

 そっと、武骨な指が、恐る恐る額の縁に触れた。


「ね?……大丈夫でしょう?」


「……はい……」


 呻くように返事をするも、苦し気な表情は変わらない。

 ミレニアはどうしたものかと途方にくれた。


 ◆◆◆


 祭りの開催の宣言をする間もなく、阿鼻叫喚の地獄絵図となった中央広場――

 クルサールが凶刃に倒れ、あちこちで暴動が起きた。剣を持った兵士たちの一部は、死すら恐れぬ覚悟でクルサールとロロに殺到した。

 広場に集まっていた民衆は、急に暴徒と化したいくらかの勢力が隣の善良な民を襲ったことで、我先に逃げ出す者、やり返す者、それぞれが入り乱れ大混乱に陥った。

 ミレニアは、何が何だかわからぬまま、クルサールを助けた舞台の中央に蹲って、舞台の両端から殺到する兵士を相手取って戦う二人の男に守られていたのだが――


 ひゅんっ――と小さく風を斬る音がしたのは、わかった。

 思わず、ミレニアは顔を上げ――

 気付いたときには、目の前に、石礫があった。


「ぁ――!」


 ガツッ……と鈍い音がして、額に痛みが走る。

 タラリ――と生ぬるい液体が頬を伝う気配がして、額の皮膚が切れたことを悟った。


「姫!!!」


 ロロの悲痛な声がして、一拍遅れて誰かに石を投げつけられたのだと理解する。

 誰か――など、方角からして、考えるまでもない。

 広場に集まる、暴徒と化した民衆の中の誰かだろう。


(どうして――兵士も、クルサール殿だけではなく、私も一緒に狙っていた……民もまた、クルサール殿と、私を……?)


 額は、血管が多い部位だ。少し切れただけで、大袈裟な量の血液が噴き出る。

 一瞬、真っ赤に染まった視界に取り乱しそうになったのを、薬師としての知識を総動員して何とか冷静さを保ち、魔力を練り上げて額へと手を押し当てた。

 第二の投石が来るかもしれない。冷静に治癒をしながら身を守るようにぎゅっと身体を縮めるようにして俯いて――


 ごぉっと突如壇上に吹き荒れた殺気に、我に返った。


「貴様ら――全員、骨も残らず焼き尽くしてやる――!」


「待って、ロロ!ダメ!!!」


 慌てて顔を上げれば、いつの間にか黒衣のマントが目の前にあった。

 民衆とミレニアを隔てるように仁王立ちになり、クルサールを前にしたときと同じか、それ以上の殺気を練り上げている。

 帝都の半分を焼くことが出来る――その昔、驕ることなく淡々と告げた彼の言葉を思えば、この広場を一瞬で灰燼に帰すことなど造作もないのだろう。

 いつも視線一つで炎を顕現させる男が、今、広場を前に集中して練り上げているのは、恐らく冗談ではない規模の地獄の業火のイメージだ。


 今、この場の最大の脅威は、剣を持った兵士でも、石礫を投げ込んでくる暴徒でもない。

 間違いなく――女神ミレニアを傷つけられ、怒りに染まった、ロロだ。

 彼は、その気になればこの都市ごと、全てを壊滅させる力があるのだから。


「駄目!駄目よ、ロロ!」


 怒りに我を忘れそうなロロの背中に飛びつき、ぎゅっとその身体を抱きしめながら縋りつくようにして叫ぶ。


「放せ……!俺の姫に傷を付けたこと、命をもって償わせてやる……!」


「やめなさい!私はそんなこと、望んでいないから!」


 壇上で押し問答をする主従の背後をフォローするようにクルサールが剣を構えて立ちはだかる。

 彼としても、ロロの説得に加わりたいところだが、ロロが己に抱いている悪感情を鑑みれば、火に油を注ぎかねない。それどころか、この押し問答の隙をついて壇上に上がってくる兵士にミレニアが傷つけられでもしたら、ロロは怒れる狂戦士と化して、広場どころか、王都全部を火の海に沈めることすら厭わないだろう。

 苦み走った物言いたげな顔で、それでもぐっと言葉を飲み込み、クルサールは行く末をミレニアの細い肩に託して、無言で彼らの背後を守ることに従事した。


「っ――!伏せろ!」


「きゃ――」


 ガッと己の身体に縋りついていたミレニアの頭を押さえるようにして庇い、手にした双剣を大きく振るう。

 ガガッ……と小さな音が響いたと思うと、壇上にコロリと石礫の残骸が転がった。

 眼下の民から、複数の投石が再びなされたらしい。


「ロロ……!」


 ごぉっ……と再び怒りの炎を燃やし、怒気を膨れ上がらせた青年に呼応するように、どこからともなく強風が吹き荒れた。

 反乱分子の兵に阻まれて壇上に上がれない風の魔法使いのうちの誰かが、度重なる石礫を押し戻そうと、風を呼んだらしい。


「好都合だ――これで、炎が一瞬で広がる――!」


「駄目っ――!」


 ミレニアに抱き付かれたことで霧散させたイメージを再び練り上げようとする気配に、少女は再び青年に縋りついた。


「正気に戻りなさい!あれは――あれは、民だわ!民に、罪などありはしない!」


 今、この状況で、何が起きているのか、本当のところはわからない。

 だが、仮に本当にクルサール政権に物申したいと、クーデターを企てた一派がいたのだとして――民は、それに扇動されただけだ。


 いつだって、そう。

 二年前の今日――あの悪夢のような日だって、民は、クルサールという人間の言葉に扇動され、革命へと突き進んだだけだ。

 民を唆す言葉が、善良なるものか否かという違いだけで、君主も、革命家も、クーデターの首謀者も、大して変わりはない。

 それが、善良なるものかどうかは――後世の歴史が、定めるのだろう。


「ふざけるな――!アンタは、今、直接あいつらに傷つけられたんだぞ!まして、あいつらは、昔、アンタを殺そうとしていた連中だ!どうして、それを庇う!?」


 ロロの脳裏に、蘇る光景。

 幾度も帝都の中で、ミレニアを失った。

 最後の最後、ミレニア自身が民の前に名乗り出ると決めるまで――いつだって、この街の中で、信じられる民などいなかった。

 ミレニアを見つければ、手配書の女だとすぐに通報をし、追い回し、矢を射かけて命を奪う。ロロの隙をついて小柄な少女を捕らえては、無残に首だけの姿にして城門に掲げる――

 『民のためならば、命すら惜しくない』と達観して微笑む十四歳の少女の姿など、彼らは知らぬのだろう。

 民の安寧のために、といって、魔物の腹に収まることすら承服した、気高い少女の寂しい決断など、無辜の民は誰一人知らない。

 過去の記憶も相まって、抑えきれぬ怒りに支配されたロロが声を荒げるのに合わせ、ミレニアも負けじと必死に声を上げた。


「あれが――あれが、私の民だからよ!」


「何を――今や、あれは、クルサールの民だ!」


「違うわ!あれは――あれは、私がかつて、何をおいても救いたいと願い――そして、私の無力のせいで、誰一人救うことのできなかった、哀れな民だわ!」


 ぎゅうっとマントを握る手に力がこもる。

 ギークによる圧政で苦しむ民を、知っていた。魔物の恐怖に怯え、肩を寄せ合い、震える民を、知っていた。

 彼らを何とか救ってやりたいと思うのに、何も出来ない自分が歯がゆかった。

 だからせめて、魔物の腹に収まることで、彼らが救われるならと、残酷な運命すらも承服した。それが兄による厄介払いだとわかっていても、権力も富も全てを取り上げられ、従者を失ったミレニアに出来るのはそれくらいしかなかったから。

 それなのに、結局彼らを救ったのは、自分が誇りを抱いていた一族の教えではなかった。

 民を救ったのは、他でもない――クルサールだ。

 クルサールが唱えた、”神”の教えだ。

 民は、本当に苦しいとき――長く自分たちを導いてきた皇族ではなく、属国からもたらされた得体の知れぬ宗教に、縋ったのだ。

 結局ミレニアは――彼らに、何も、してやれなかった。


 ――何も。


 轟々と強風が吹き荒れる中、ミレニアは風にかき消されぬよう、必死に声を張り上げる。


「だから――だから、彼らを傷つけたりしないで!」


 彼らの心も、命も、何一つ自分では救ってやれなかったからこそ、願う。


「お願いだから――なんて言って、私が愛した無実の民の命を奪わないで――!」


「――!」


 ビクリ、とロロが一瞬動きを止める。

 練り上げられていた膨大な魔力が、不意に空中に霧散したのが分かった。


「姫――俺は――……」


 掠れた声で、小さく紡がれる音は、荒れ狂う風にかき消された。

 数瞬、喧騒だけが響き渡り――


「――なるほど。この、虚ろな目――どこかで見覚えのあると思えば……そういう、ことですかっ……!」


 ガッと一刀のもとに目の前の兵士を切り捨てたクルサールは、ぐいっと返り血を拭って顔を上げる。

 そして、バッと手にした剣を掲げ、朗々と声を張り上げた。


「刮目せよ!己の心を強く持ち、神の声に耳を傾け、あるべき姿を思い出せ!」


 カッ――!


 掲げた手から眩い光が放たれ、広場一面を照らし出す。


「きゃ――!」


「姫――!」


 眩い光に小さく悲鳴を上げた少女を身体ごと庇うようにして、ロロは己の腕の中に小柄な体を閉じ込めた。

 視界を焼いた閃光がゆっくりと薄れていくのを、青年の逞しい胸の中から呆然と見る。

 すぅ――……と光が消えた途端、日常が戻ってきた。


「あ、あれ……?」「俺、一体何をして……」「クルサール様!?」


 虚ろな瞳をしていた兵士や民も、ハッと正気に戻ったように、瞳に光を宿している。


「何が……起きたの……?」


 害がなさそうだと判断してロロの腕の中からゆっくりと解放されたミレニアは、クルサールへと呆然とした顔で尋ねる。

 クルサールは苦い顔で口を開いた。


「祭りは中止です。……ミレニア様。国賓たる貴女にこのようなお願いをするのは心苦しいのですが――我が国の窮地に、手を貸して頂けないでしょうか」


「え……?」


 じっとりと汗がにじんだ額を拭って、クルサールは呻くように口を開く。


「我らが直面している、もう一つの脅威――東の、魔物の討伐について」


「「――!」」


 ミレニアとロロは、同時に息を飲んだのだった――

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